転機
「私、たちは…」
アルドナ・カヴァラウスカイトが、かすかに震える声で何かを言いかけた。だが、その言葉は続かなかった。彼女は唇を固く結び、怒りと屈辱に耐えるように俯いた。
その瞬間、ヴィクトルは気づいた。
彼女は、他の二人と同じように、義憤に燃えている。リトアニアの民として、ソビエトを抑圧者として心の底から憎んでいる。それは間違いない。だが…一点だけ、決定的に違う。
他の二人の瞳には、純粋な怒りと、被害者にとっての絶対的な正義が宿っていた。しかし、彼女の瞳の奥には、一瞬だけ、迷いと苦悩の色がよぎった。それは、自らがこれから行おうとしていることが、ヴィクトルの言う通り、誰かの人権を踏みにじる行為であると、心のどこかで理解している者の色だった。
(なるほど…ただの理想主義者ではない。これが人権抑圧であると、分かっているのか)
彼女は、自らの正義が孕む矛盾に、気づいているのだ。ヴィクトルは、ただその事実を評価し、そして静かに心にしまった。それは、この交渉における、新たな変数だった。
会議は、これ以上ないほど最悪な雰囲気の中、翌日への持ち越しということで一時解散となった。ロシア側が求めるカリーニングラードへの陸路アクセス権など、本題にすら至ることはなかった。
ヴィクトルは、随行員たちを先にホテルへ帰し、一人で会場の外に出ていた。凍てつくような風が、コートの襟元から入り込んでくる。彼は、ゆっくりと歩き、海を眺めた。
ヘルシンキの港から広がる、フィンランド湾。鉛色の空の下で、灰色の水面が静かに広がっている。かつて、この海はハンザ同盟の船が行き交い、ロシア帝国が西欧への窓として艦隊を浮かべた、文明の道だった。
この道は、だが、決して平等ではなかった。常に、強者のための道だった。
不意に、彼の背後に人の気配がした。護衛のGRUのSPが警戒するよりも早く、彼は振り返った。そこに立っていたのは、アルドナ・カヴァラウスカイトだった。彼女もまた、一人だった。交渉の場で見せた鋼のような鎧を脱ぎ、ただの、年の頃も変わらぬ一人の女性として、静かな瞳で彼を見ていた。
「ペトロフ氏」
彼女の声は、風にかき消されそうなほど静かだった。
「一つだけ、お聞きしたい」
ヴィクトルは黙って、彼女の次の言葉を待った。
「なぜ、あのような酷いことを言うのですか」
その問いは、政治的な非難ではなかった。ただ、一人の人間としての、純粋な問いかけだった。
「あなたは、我々バルトの人間を、心の底から憎んでいるのですか?」
ヴィクトルは、彼女から視線を外し、再び灰色の海へと目を向けた。遠くで、霧笛が低く鳴り響く。
「…憎しみは」
彼は、吐く息の白さを見つめながら、静かに答えた。
「交渉において、最も不合理で、役に立たない感情です。私は、あなた方を憎んではいません」
彼はゆっくりと振り返り、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「むしろ逆です、代表。私は、あなた方を理解しようとしている」
「理解…?」
「ええ」
ヴィクトルは頷いた。
「あなたも、心の底では理解しているはずだ。自らが信じる正義の道が、いかに多くの矛盾と危険を孕んでいるかを。あなたの瞳には、狂信者の光はない。あるのは、理想と現実の間で引き裂かれる、指導者の苦悩の色です」
その言葉は、彼女の心の最も柔らかな部分に、静かに突き刺さった。アルドナは、思わず息を呑んだ。目の前の男は、自分の内面を、完全に見透かしている。
「この世界に、絶対的な正義など存在しません」
ヴィクトルは続けた。その声には、彼自身の諦観が滲んでいた。
「あるのは、それぞれの国家が、それぞれの民が生き残るための、必死で、そしてしばしば醜い選択だけです」
彼は、自嘲するように、ふっと息を吐いた。
「私は、ロシアが生き残るための選択をしている。あなたも、リトアニアが生き残るための選択をしようとしている。我々は、ただそれだけの存在なのです。敵ではあるが、あるいは、歴史という巨大な舞台の上で、同じ役を演じさせられている、同業者なのかもしれませんな」
アルドナは、何も言い返せなかった。目の前の男は、彼女がこれまで出会ったどんなソビエトの人間とも違っていた。彼は、悪ではなかった。だが、善でもない。彼はただ、動かしがたい現実という名の、巨大な鏡だった。そしてその鏡は、彼女自身の、そして彼女の国の未来の、残酷な姿を映し出していた。
彼女は何も言わず、ただ深く一礼すると、静かに踵を返し、風の中へと去っていった。
一人残されたヴィクトルは、再びフィンランド湾へと向き直った。彼の孤独を、北の海の冷たい風だけが、静かに包んでいた。
二日目の会議は、泥沼そのものだった。
ヘルシンキの空のように重く垂れ込めた沈黙と、時折交わされる、昨日と全く同じ言葉の応酬。バルト三国側は「不法占領への謝罪と賠償」を繰り返し、ヴィクトルは「存在しない政府に責任は問えない」という一点を崩さない。時計の針だけが、虚しく進んでいく。
ヴィクトルは、冷静に彼らを観察していた。
バルト三国側は、国家としてあまりにも未熟だ。彼らは民意という熱狂を拠り所に、旧来の統治機構であった地方共産党を、その良し悪しに関わらず完全に破壊してしまった。それは、壊れながらもかろうじて噛み合っていた、国家という機械の歯車を、自ら叩き割るような行為だった。
目の前には、国民から選ばれた代表者が座っている。だが、その代表者の権威を保証するはずの議会も、政府機能も、そして彼らが理想を掲げて作ろうとしている国籍法も…その全てが、まだ形を成さない、おままごとのようなあやふやさに包まれている。
純粋な法的論点で争うならば、まだ独立を公式に承認していないソビエト政府に、圧倒的に分がある。ヴィリニュスでの流血を『虐殺』と声高に叫ぶ西側の論調も、あの規模の国家的な騒乱において、死者の数が異常なほど抑制されていたという軍事的な事実を、都合よく見逃していた。無論、道徳的な是非は、また別の話だ。だが、ここは道徳を語る場ではない。
正午を告げる鐘が鳴り、不毛な会議は昼食のために中断された。
煮詰まった空気から解放され、ヴィクトルはホテルの簡素なレストランの、窓際の席に一人で座っていた。GRUの護衛たちには、目立たないように遠くのテーブルに着くよう命じてある。彼は、熱いスープに口をつけながら、ただ静かに待っていた。誰かを。
やがて、一人の人影が彼のテーブルに近づいてきた。周囲の目を気にするように、しかし意を決した足取りで。アルドナ・カヴァラウスカイトだった。
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