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微笑みの男

保養施設の簡素な一室で、ヴィクトルは目の前の男と対峙していた。


“微笑みの男”。

ヌルザノフ・ナザルベフを知ったときにヴィクトルが感じたのは、それだった。

雰囲気は決して柔らかくない。だが、その佇まいは誠実で、誰にも肩入れしないが、誰一人として敵に回さないという絶妙な均衡の上に成り立っている。

そして、自らが守るべきものを決して手放さない、鋼のような意志。


カザフスタンは、ロシア帝国の負の歴史を色濃く背負った土地だ。

帝政時代の流刑地、スターリンによる強制移住の受け入れ先、そして核実験の舞台。

本来であれば、ウクライナと同時期に、あるいはそれ以上に激烈な分離独立運動が起きてもおかしくはなかった。

それを、ただ一人で抑え込んだのが、目の前にいるこの男だった。

彼は民族の熱情を煽るのではなく、経済的な安定と秩序を説き、自らの共和国を巧みに統御していた。


ヴィクトルはまず、訪問に対し感謝を示し、会談の席を設けてくれたことへの礼を述べた。そして、ごく自然にテーブルの下座へと腰を下ろそうとした。

その瞬間、ナザルベフが穏やかな、しかし有無を言わさぬ声でそれを制した。


「ペトロフ同志。ここはクレムリンの会議室ではない。階級で座る場所を決めるのはやめましょう。対等な立場で話がしたい」


その一言で、ヴィクトルは悟った。

目の前の男は、自分の正体を完全に見抜いている。エリツォンの威光を借りた使者としてではなく、モスクワの中枢を実質的に動かす官僚、その本人として自分を見ているのだ。

なんと柔軟で、現実的な男か。それがヌルザノフ・ナザルベフという男だった。


勧められるまま対面の椅子に腰かけると、ナザルベベフは自ら質素な陶器のポットを傾け、ヴィクトルのカップに茶を注いだ。その所作には、一切の無駄も気負いもなかった。


「ウクライナでの君の仕事ぶりは、聞いている」


ナザルベフは、静かに切り出した。


「実に…鮮やかだったそうだね。キエフの同志は、今頃頭を抱えているだろう」


その声に、皮肉はなかった。ただ、事実を確認するような響きだけがあった。


「私は私の仕事をしたまでです。国家の秩序を、これ以上の混乱から守るために」


ヴィクトルは、探るように答えた。


「秩序、か」


ナザルベフはふっと微笑んだ。


「私も同感だ。混乱は何も生まん。私の下にもいるのだよ、モスクワからの完全な独立を叫び、ロシア人を追い出せと息巻く連中がね。だが、彼らに国は治められん」


彼はカップを置き、ヴィクトルの目をまっすぐに見た。


「我々の工場は、ウラルの工場と繋がっている。我々の畑でとれた小麦は、シベリアの民を養う。そして、我が国の北部には、数百万のロシア人が暮らしている。この繋がりを断ち切ることは、我々にとっても自殺行為だ」


それは、ヴィクトルが予想していた通りの言葉だった。だが、続く言葉は、彼の予想をわずかに超えていた。


「だからこそ、私は君と話がしたかった。エリツォン議長は偉大な政治家だが、彼は夢を語る人だ。我々が今必要なのは、夢ではなく、現実的な勘定書だ。君は、その書き方を知っている」


ナザルベフは、交渉の主導権をヴィクトルに渡すかのように、静かに両手をテーブルの上で組んだ。


「さあ、聞かせてくれたまえ。君が書いた、我々カザフスタンのための『勘定書』を」


ヴィクトルは目の前の男を見据えながら、頭の中で高速で情報を整理する。


利益を、というわけではないはずだ。この男は自国の資源だけで、いずれは豊かになれることを知っている。

だが、理想や理念でもない。彼はソビエトという亡霊に感傷を抱く男ではない。

彼が欲しがっている勘定書は、おそらくは…「未来の保証」。明日も今日と同じルールで商売ができるという、確かな保証だ。


「同志」


ヴィクトルは、探るように、静かに話し出した。


「ソビエトを、残されたいと、そうお思いですか?」


その問いに、ナザルベフはかすかに、しかし確かな笑みを浮かべた。その目は「何を今更」と語っていた。


「なぜかな、ペトロフ君。それは我々の会話の、当然の前提だと思っていたが」


そうだ。それは、いまだうつろな皮として残っている祖国ソビエトにおける、絶対的な『建前』だ。

連邦の存続を願うこと。共和国の指導者である以上、ナザルベフもそう言わなければならない。本心はどうあれ。


一瞬、二人の目線が交差する。言葉にならない理解が、静かな部屋を行き交った。


カザフスタンは、国境を接する数百万のロシア人を恐れているのではない。

彼らが本当に恐れているのは、秩序が崩壊したときに出現するであろう、”剥き出しの暴力”としてのロシアだ。

予測不能で、理不尽な力で、三百年の歴史の清算とばかりに全てを奪い去りかねない、混沌の化身。

ナザルベフが求めるのは、その混沌を封じ込めるための、新たな秩序の設計図だった。


ヴィクトルは、その目に応えるように、わずかに身を乗り出した。


「では、我がロシア共和国としての立場を、明確にいたします」


声のトーンが、実務的なものに変わる。


「各国が独立した際、私たちロシア共和国は、共同経済圏の設立を提唱します。そして、その中核として、各共和国の主権が尊重される、平等のテーブルで、現在のライフライン、そして物流網の保持を目的とした共同議会を設置する」


ヴィクトルは、そこで一度言葉を切り、ナザルベフをまっすぐに見つめた。


「ロシアは、その共同体を、全力で支持いたします」


それは、ナザルベフが聞きたかったであろう、完璧な答えだった。

支配でも、併合でもない。主権の尊重と、経済的相互依存。

かつてのソビエトが『兄弟』という名の支配で縛り付けたものを、対等なビジネスパートナーとして再構築するという提案。


ナザルベフの顔から、笑みが消えた。代わりに、真剣な商人の顔がそこにあった。

彼はゆっくりと頷いた。


「素晴らしい提案だ、ペトロフ君。理想的な未来像だ」


彼の声は、静かだった。


「…では、その理想的な未来のために、我がカザフスタンが支払うべき『勘定』と、そしてロシアが我々に支払うべき『勘定』について、具体的な話を始めようか」


彼はテーブルの上に、一枚の地図を広げた。カザフ・ソビエト社会主義共和国の地図。

そして、その中央に位置する一点を、指で静かに示した。


「例えば、このバイコヌールから」

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