所有権
「さて、議長」
ヴィクトルは平坦な声を発する。いやそれは、意図的に感情が抜き去られた声だった。
「あなたもご存じのように、我がソビエトの経済は、破綻しております。このままでは、なし崩し的に崩壊するでしょう。ゴルバノフ書記長に、すでに意欲も見られないようなのでね」
いけしゃあしゃあと彼はいった。
彼が根回しをして、ゴルバノフを追い落としたというのに。
無論クラフチェンコには詳細はわからない。だがモスクワの奇怪な政治状況が、ここ数ヶ月で急激に風向きを変えたことは理解していた。
「故に私たちは温厚に、離婚する必要があります。ここまではおわかりいただけますか」
あまりにもあけすけな、敬意すら感じられない語り口だった。
レオニード・クラフチェンコは、机の下で固く拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走る。
目の前の若造の傲慢さに、今すぐその喉笛を掻き切ってやりたいほどの怒りが込み上げた。
だが、彼はウクライナの指導者だった。激情に身を任せることは、国家の自殺行為に等しい。
「……離婚、だと?」
クラフチェンコは、絞り出すような声で言った。その声には、抑えきれない侮蔑が滲んでいた。
「ペトロフ君、君は歴史を学んだかね? 我々は三百年にわたり、ロシアと兄弟として血を流してきた。それを、まるで夫婦喧嘩のように語るとは。モスクワの官僚は、そこまで堕落したのか」
それは、精一杯の皮肉だった。だが、ヴィクトルは表情一つ変えなかった。
「ええ、堕落しました。ですから、終わりにするのです」
ヴィクトルは、まるで壊れたレコードのように、ひび割れた言葉を繰り返した。
「議長、感傷に浸るのはおやめください。兄弟の盃も、三百年の歴史も、明日のパンにはなりません。飢えた兵士の腹を満たすこともできない」
その言葉は、クラフチェンコの心の最も痛い部分を抉った。
そうだ。彼の元には、日に日に悪化するウクライナ経済の惨状が、雪崩のように報告されていた。そして、先ほど突きつけられた、駐留軍の維持費という名の死刑宣告。
「温厚な離婚。それは、我々ロシアにとっても、そしてあなた方ウクライナにとっても、唯一の生き残る道です。憎しみ合い、互いの足を引っ張り合いながら共に沈むか。あるいは、過去を清算し、それぞれが新たな道を歩むか。選択肢は二つしかありません」
ヴィクトルは、鞄から分厚いファイルの束を取り出し、無造作に机の上に置いた。
「離婚するにあたり、財産分与が必要です。資産も、そして負債も、公正に分配せねばなりません」
「負債だとッ!?」
クラフチェンコは、再び声を荒げた。
「我々は三百年間、モスクワに搾取され続けてきたのだ! 我々こそが債権者であるはずだ!」
彼の本音が、そしてウクライナ人としての切望が、思わず口をついてでた。
建前を超えた、本音。クラフチェンコは内心舌打ちした。
「国際社会は、そうは見ません」
ヴィクトルは、その叫びを冷たく遮った。
「彼らにとって、ソビエト連邦は一つの法人格です。その法人が負った債務は、構成員全員で分担するのが筋だと、彼らはそう主張するでしょう。そして、我々は西側からの支援なしには立ち行かない」
それは、動かしがたい事実だった。クラフチェンコはぐっと言葉に詰まった。
ヴィクトルは、その隙を見逃さなかった。
「ですが、ご安心を。負債だけを押し付ける気はありません。あなた方には、素晴らしい資産もお譲りします」
ヴィクトルは、静かに続けた。その声は、悪魔の囁きのように、クラフチェンコの耳に届いた。
「例えば……世界第三位の、核兵器です。これは、どうなさいますか?」
その瞬間、執務室の空気が凍りついた。
核。
その一言が持つ、圧倒的な重み。
それは、単なる兵器ではない。国家の主権、国際社会における発言権、そして何よりも、破滅への引き金。
ウクライナの地に配備された、数千発の核弾頭。
クラフチェンコは、独立後のウクライナがそれをどう扱うか、という究極の問いを、これまで意図的に避けてきた。
だが、目の前の男は、その最も触れてはならない問題を、交渉のテーブルのど真ん中に、無造作に放り投げたのだ。
「核兵器の所有権、維持管理費、そしてそれを行使する権限。これら全てを、新たな主権国家ウクライナにお譲りすることも可能です。もちろん、それに伴う国際的な責任も、全て引き受けていただくことになりますが」
ヴィクトルは、わずかに口の端を上げた。それは、もはや笑みですらなかった。
「さあ、議長。現実的なお話をしましょう。我々には、時間がありません」
レオニード・クラフチェンコは、もはや反論する言葉を持たなかった。
彼は、ウクライナ独立という悲願を達成するために、このモスクワから来た若き悪魔と、魂を賭けた交渉を始めなければならないことを、悟った。
「馬鹿な、核など」
クラフチェンコは混乱に目を見開いた。 交渉の最初に持ち出すには、あまりにも馬鹿げた話だ。
「おかしいでしょうか?」
ヴィクトルは首をかしげた。その動作一つ一つがクラフチェンコの感情を揺さぶるための演技だと、わかる。
「我々は一つの国家を降りるのです。であれば、その所有権の中で最も重要な物品である、核兵器。それを負債に応じただけ引き取る。正常な発想では?」
「NPT体制はどうなる」
クラフチェンコは目の前の男に気圧されていた。
異常すぎる。国家をまるでパイのように切り分けながら、何の感傷も見せていない。ソビエトに対する感傷を、だ。
彼のような民族主義者ですら、かすかにでも言いよどむというのに。
「NPT、ですか」
ヴィクトルは、まるで初めて聞く単語であるかのように、わずかに間を置いた。そして、こともなげに答える。
「核拡散防止条約に署名したのは、ソビエト社会主義共和国連邦です。議長、我々が今、解体しようとしている、その当事者ですね。条約は、その主体が消滅すれば、当然、見直されることになります」
「なっ……」
「後継国家がその責務を引き継ぐかどうかは、全く別の問題です。それは、あなた方『新生ウクライナ』が、ワシントンやロンドンと、一から交渉せねばならない外交問題です。もちろん、彼らがあなた方を主権国家として承認すれば、の話ですが」
それは、外交という名のナイフだった。
冷たく、そして鋭利な刃が、クラフチェンコの喉元に突きつけられる。
新生国家ウクライナは、独立と同時に、核保有国として国際社会にデビューするのか?
西側諸国が、新たな核保有国を、そう易々と認めるはずがない。認めるどころか、経済制裁と外交的孤立という名の鉄槌を下すだろう。
「議長。あなた方は、独立と同時に、二つの道を選ぶことになります」
ヴィクトルは、人差し指を一本立てた。
「一つは、核兵器を保有し、ロシアとNATOの双方を睨みつけながら、孤高の道を歩む。もちろん、その維持費と国際社会からの非難は、全て自らで背負っていただく」
彼は、もう一本の指を立てた。
「もう一つは、核を放棄する。その見返りとして、西側からの莫大な経済支援と、安全保障の約束を取り付ける。どちらが賢明な選択か、聡明なあなたなら、お分かりのはずです」
クラフチェンコは、歯ぎしりした。
どちらの道も、地獄だった。
核を持てば、経済的に破綻し、国際社会から孤立する。核を捨てれば、ロシアという巨大な隣人に対して、口約束だけの保証で永遠に無防備となる。
ヴィクトルは、ウクライナの独立を認める代わりに、その牙を、骨の髄まで抜き去ろうとしているのだ。
「これが…」
ヴィクトルは、机に置かれたファイルの山を、軽く叩いた。
「我々が提示する、『離婚協定』の草案です。債務と資産の分配リスト。黒海艦隊の分割案。そして、核兵器に関するいくつかの選択肢も含まれております」
彼は静かに立ち上がり、クラフチェンコに深く一礼した。
「ご検討ください。我々ロシアは、誠意をもって、あなた方の新たな旅立ちを祝福する用意があります」
その言葉は、祝福とは程遠い、冷徹な最後通牒として、キエフの執務室に重く響き渡った。
これを出すためにやってきたのか。
クラフチェンコはかすかに震える指先で、机の上のファイルの束をひったくった。
ページをめくる。目録。読み下していく。
黒海艦隊、クリミアの海軍施設、国内の原子力発電所、各設計局、ダム、基幹インフラ……
譲渡が、多い……。
レオニードは目を疑った。
ソビエト連邦がウクライナの地に築き上げた、あらゆる”資産”が、そこには並んでいた。
あまりにも気前が良すぎる。エリツォンは本当に、これら全てを手放すというのか。
いや違う、これは……
レオニードの思考が、急激に加速した。彼の額に、冷たい汗が滲む。
これは、譲渡ではない。押し付けだ。
黒海艦隊。その威容を誇る艦船のほとんどは、すでに老朽化が進んでいる。維持費は莫大であり、近代化改修も避けることができない追加費用だ。
次に原子力発電所。ウクライナの電力を支える大動脈。だが、その名前の一つには、人類史上最悪の事故を起こした『チェルノブイリ』の名が刻まれている。全ての原発が、いつ第二のチェルノブイリとなってもおかしくない時限爆弾なのだ。その安全管理と、いずれ訪れる廃炉という名の、国家予算を吹き飛ばすほどの巨大な負債。
そして設計局。かつてはソビエトの科学技術の粋を集めた頭脳集団。だが、有能な科学者の多くは、すでにモスクワか、国境を越え西側へ逃げ去った後だ。残されたのは、維持費だけがかさむ抜け殻の建物と、路頭に迷う数万人の職員。
全てが、そうだった。
一見、きらびやかに見える”資産”の皮を一枚めくれば、その下には、腐臭を放つ”負債”という名の死体が隠されている。
ヴィクトルは、ロシアがもはや支えきれなくなったソビエト連邦の負の遺産全てを、『独立祝い』という名の美しいリボンで飾り付け、ウクライナの首にかけようとしているのだ。
レオニードは、顔を上げた。その目は、もはや怒りではなく、底なしの恐怖に染まっていた。
目の前の、表情を変えない若き官僚。彼は、国家の解体という歴史的な大事業を、まるで企業の破産処理のように、冷徹な計算だけで進めている。
「どうやら、ご理解いただけたようですね」
ヴィクトルは、静かに言った。その声には、かすかな満足の色が滲んでいた。
「我々は、あなた方の独立を承認する。その代わり、あなた方は、その独立の『代償』を支払う。極めて公正な、取引ではありませんか?」
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