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韜晦

強面の官僚。それが、レオニード・クラフチェンコという男にヴィクトルが抱いていたイメージだった。


彼はキエフへ来る前、過去のスピーチのフィルムや写真、そしてレニングラード派が集めた膨大な資料から、徹底的にその人物像を追い求めていた。そこに浮かび上がってきたのは、単純な民族主義者ではない、極めて複雑な男の姿だった。


剥き出しの権力欲と、ウクライナという国家への独立への欲求。しかし同時に、彼を育て上げた共産党というシステムへの、奇妙な敬意。そして何よりも、ロシアに対する、明確で、揺るぎない敵意。


その敵意がどこから来るのか、おそらく彼自身にも説明は難しいのだろう、とヴィクトルは分析していた。だが、崩れゆく国家という巨大な坩堝の中で、愛国心と野心と恐怖が溶け合い、それが彼にとっての真実となった。ロシアから離れること。それこそが、ウクライナが生き残る唯一の道なのだと。


クラフチェンコは、ヴィクトルを執務室に招き入れた。握手もなければ、時節の挨拶もない。彼は、重厚な机の椅子に重々しく座ると、開口一番、そう切り出した。


「それで、エリツォン議長の『ご要望』とは何かね、ペトロフ君」


その声は、平坦だった。だが、言葉の端々に込められた嫌悪を、彼は隠そうともしていなかった。モスクワから来た使者に対する、侮蔑。数年前であれば、許されなかっただろう態度だ。


(冷静な男だ)


だがヴィクトルは瞬時に判断した。感情を露わにしているのではない。これは、交渉を有利に進めるための計算されたポーズだ。相手を精神的に威圧し、主導権を握ろうとしている。これから始まるのは、舌戦ではない。互いの国家の未来を賭けた、神経戦だ。


「レオニード・マカロヴィチ議長」


ヴィクトルは、相手の敵意を柳に風と受け流し、穏やかに告げた。その顔には、親愛なる同志に吉報を届けに来た使者、という仮面が貼り付けられていた。


「お喜びください。連邦は、その命脈を、どうやら保てそうです」


彼は、ゆっくりと釣り餌を垂らした。


「ボリス・エリツォン議長の揺るぎない指導の下、我々は先日、アメリカ合衆国より、高度な経済協力の約束(借款)を取り付けました」


ヴィクトルは、懐から取り出した何でもない書類を、さも重要そうにテーブルに置いた。


「この借款をルーブルの裏付けとすれば、インフレは抑制できる。そして、これを原資として、各共和国は、経済再建への確かな道筋をつけられるでしょう」


彼は、息をするように悪質な嘘を続けた。アメリカとの交渉は、まだ始まったばかりだ。借款など、影も形もない。だが、クラフチェンコにそれを確認する術はない。


そして、ヴィクトルは最後の餌を投げた。


「エリツォン議長は、この偉大な再建を成し遂げるにあたり、是非その際は、中央政界にあなたのお力添えをいただきたいと。ウクライナ経済を知り尽くしたあなたの手腕が必要だと、そう申しております」


モスクワでの栄達。独立を叫ぶ地方指導者から、再建された連邦の中枢へ。それは、権力者にとって抗いがたい蜜の味のはずだった。


その言葉を聞いた瞬間、レオニード・クラフチェンコは、かすかに目を見開き、そして、次の瞬間、堪えきれないといった様子で鼻で笑った。


フッ、と。侮蔑のこもった音だった。


釣り針は見えているぞ、モスクワから来た小僧。お前が何を企んでいるか、お見通しだと。その笑いは、雄弁にそう語っていた。


「同志」


クラフチェンコは、子供に言い聞かせるように、ゆっくりと口を開いた。いや、違う。その声は、子供相手ではない。聞き分けのない大人に対する、しらけきった声だった。


「嘘はよせ。アメリカ合衆国が、ソビエトの存続を望むだと? 馬鹿を言うな」


クラフチェンコは、机の上で指を組んだ。その目は、ヴィクトルの作った芝居を、冷ややかに見つめていた。


「あの間抜けなゴルバノフがトップに就いた時点で、アメリカはもうソビエトを恐れてなどいない。連中が今考えているのは、いつ、どうやって、この巨大な死体を切り刻むか。そして、どのハイエナにどの好餌を取らせるか。それだけだよ、ペトロフ君」


それは、ヴィクトルを馬鹿にしているわけではなかった。


そして、彼が本気で話していると思っているわけでもない。


ただ、さっさと前置きは済ませて本題を話せと、そう言っているのだ。


すっ、とヴィクトルの顔から、愛想笑いが消えた。


代わりに、レニングラードで人々に見せていた、真面目な官僚の顔になった。彼は椅子から軽く腰を浮かせ、クラフチェンコに一礼し、敬意を示した。目の前の男は、交渉相手として不足ない。


「失礼いたしました。では本題を、議長」


ヴィクトルは、懐から一枚の紙を取り出した。そして、ヤトフ元帥の署名が入ったその公文書を、クラフチェンコの前に滑らせた。


「国防省より。ソビエト政府からの公式通達となります」


クラフチェンコは、怪訝に顔をしかめた。ソビエト政府など、もはや機能不全だ。実質的にモスクワを専断しているのは、目の前の男とエリツォンであることは、公然の秘密だった。彼は、訝しげにその書類に目を通した。


そして、そこに記された一行を読んだ瞬間、彼は目を疑った。


「本日をもって、ウクライナ駐屯ソビエト軍に対する、モスクワからの一切の駐留費補助を、打ち切らせていただきます」


クラフチェンコは、大きく目を見開いた。


血の気が、さっと顔から引いていくのを、彼自身が感じていた。

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