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第八章 星の軌跡、交わる時



パリの空港に降り立った時、冷たい雨がガラス窓を叩いていた。到着ロビーで、七海がJean-Lucと熱心に打ち合わせる姿を見つめる。三ヶ月のヨーロッパ生活で、彼女の肌は小麦色に焼け、髪の毛先は淡い麻色に染まっていた。まるで別人のように輝いている。


「健太!」七海が振り返り、手を振る。「タクシーが来たわ!」


荷物を引きずりながら近づくと、冷たい雨粒が頬を打つ。パリの冬は東京より厳しい。ポケットの中で指が震える。


「オリンピアの音響チェックは明日の朝に変更」車内で七海が興奮気味に報告。「今夜はモンマルトルに行ける!Jean-Lucおすすめのジャズバーがあるの」


彼女のスマホにはびっしりと詰まったスケジュールが映っている。インタビュー、リハーサル、音響テスト、会議…空白の時間などほとんどない。


「出版社の方は?」七海が尋ねる。


「フランス語版の契約はほぼ決まった」簡潔に答える。「ヨーロッパを舞台にした番外編を加えてほしいそうだ」


七海の目が輝く。「セーヌ川岸でスケッチしよう!リュクサンブール公園も!」


突然、彼女が声を潜める。「ねえ…今夜のバーにはオープンマイクの時間があるんだけど…」


「僕はパス」笑って首を振る。「パリ市民にもう一度僕のギターを聴かせる必要はない」


七海の笑い声が車内に響く。運転手が後ろを振り返るほどに。


アパルトマンはJean-Lucが手配したものだった。古い建物の4階にある部屋の螺旋階段は、荷物運びを地獄のように感じさせた。しかしドアを開けた瞬間、息をのんだ——パリの街並みが窓いっぱいに広がり、雨上がりの陽光が青灰色の屋根を金色に染めていた。


「気に入った?」七海が背後から抱きつく。「絵を描くのに光がいいと思って選んだの」


抱きしめ返すと、新しいシャンプーの薔薇の香りがした。三ヶ月の別れ、72通のメッセージ、53回のビデオ通話、数え切れないほどの夜が、この抱擁に詰まっていた。


「会いたかった」


七海が顔を上げ、いたずらっぽい目で見つめる。「パリにはきれいな女の子がいっぱいなのに、私のこと思い出してくれたの?」


「君ほど『きらきら星』を間違って弾ける子はいない」鼻先にキスする。


七海の笑い声が響く中、街へ出た。パリの路地は迷路のようだ。七海は私の手を引っ張り、「『アメリ』のカフェよ!」と叫んだり、大道芸人の前で足を止めたりする。東京の病院で憔悴していた姿とは別人のようだ。


日が暮れ、ようやく見つけたジャズバーはひっそりとしていた。薄暗い照明の中、Jean-Lucと音楽仲間が待っていた。七海はすぐにフランス語の熱い会話に加わる。私は隅で濃すぎる赤ワインを飲む。


「参加しないの?」金髪の女性が英語で尋ね、舞台を指さす。


「いえ、彼女の付き添いです」七海を指差す。


「ああ、日本の漫画家さん!」女性は笑う。「七海はよくあなたの話をしてたわ。ヨーロッパツアーの契約をいくつか断ったのは、あなたのビザが含まれてなかったからだって」


喉が詰まる。七海はそんな話、一度もしてこなかった。


オープンマイクが始まり、七海が突然舞台に上げられる。「日本の新星、七海ちゃん!」Jean-Lucの紹介で。


「準備してないのに…」七海は赤面するが、私を見つめ、「特別な人への新曲を」とギターを構える。


聴いたことのないメロディーが流れる——「東京の雨の夜/パリの朝焼けの中/私のコンパスはいつもあなたを指す」。この歌は距離と絆についての物語だった。異なる軌道を回る二つの星が、どうにかして互いを見つける話。


「リヨン行きの汽車で思いついたの」演奏後、七海が打ち明ける。「ヘッドフォンを分け合う老夫婦を見てね」


彼女の手を握り、言葉を失う。七海は理解したように肩にもたれかかる。「来週はオリンピア本番…緊張する?」


「僕が客席にいる」


「それなら大丈夫」七海の微笑みに、全てが詰まっていた。


帰り道、七海がブティックのショーウィンドウで足を止めた。白いウェディングドレスがスポットライトを浴びている。


「美しいわ…」ため息まじりに。


「七海…」


「冗談よ!」彼女は笑いながら私を引きずる。「でも…ママが良くなったら、東京で小さな結婚式を挙げたいな。親しい人だけを呼んで」


突然の提案に足が止まる。七海は振り返り、ネオンの光を受けて問う。「嫌?」


「いや…ただ」深呼吸する。「盛大な式を望むかと思ってた。元アイドルだから」


「だからこそシンプルにしたいの」七海は歩きながら歌を口ずさむ。「月夜七海の結婚式は華やかでいいけど、姫野七海のは…大切な人たちだけで」


オリンピア音楽堂の本番当日。七海は舞台袖でギターのチューニングを確認していた。三ヶ月で彼女のレパートリーは進化していた——フレンチ・シャンソン、ジャズ、エレクトロニカの要素を取り入れながらも、核心は変わらない。愛と喪失と再生についての物語だ。


「健太」七海が突然呼びかける。「これ、ママに渡して」小さな箱を手渡された。


中には繊細な銀のネックレス——五線譜を模したペンダントに『星のカケラ』の最初の3音符が刻まれている。


「ビデオ通話?」


七海は頷く。「医師によると、言葉がだいぶ回復してる…きっと見てくれる」深く息を吸い込む。「約束したの。初めての国際舞台を、直接見せると」


ネックレスをポケットにしまい、「誇りに思ってくれるよ」と伝える。


七海の目が舞台のライトで輝く。「私だけじゃなく…私たちのことも」


公演は大成功だった。最後の曲が終わり、七海がお辞儀をすると、観客は総立ちになった。フランス語、英語、日本語の歓声が飛び交う中、私は彼女から目が離せなかった——国際舞台に立つ七海と、学園祭で緊張していたあの少女が、不思議と重なって見える。


打ち上げパーティーでJean-Lucがヨーロッパツアーを発表する。七海は礼儀正しく聞いているが、テーブルの下で私の手を握りしめている。


アパルトマンに戻ると、七海はソファに倒れ込んだ。衣装も着替えずに眠りに落ちる。私はそっと靴を脱がせ、毛布をかける。


「健太…」眠りながらも彼女がつぶやく。「パリに来てくれて…ありがとう」


額にキスし、「おやすみ、スター」と囁く。


窓の外、パリの街明かりが星のように瞬く。五年前の駅で、私たちがこんな未来を想像していただろうか——彼女はアイドルの束縛から解かれ、私はただのファンから恋人へ。それぞれ違う道を歩みながら、見えないところでしっかりと結ばれている。


机の上には、新作漫画『平行線の交点』の下絵が広がっている。最初のページには献辞が——「七海へ 私の明けの明星、宵の明星へ」


夜明けの光が窓から差し込み始めた。新たな一日、新たな物語が始まる。そして私は知っている——どんなに遠く離れても、私たちは必ず再会すると。

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