第七章 真実のステージ
学園祭前日、練習室の空気は重く淀んでいた。突然の豪雨が窓を叩きつける中、七海は汗ばんだ額を拭い、バンドメンバーに指示を飛ばしていた。
「もう一度」彼女の声は疲れながらも力強く、「サビの部分がまだぎこちない」
私は隅の椅子に座り、彼女の指導ぶりを見守っていた。母との対決から二週間、七海は学園祭の準備に全てを捧げていた。かつて正体を隠していた彼女が、「姫野七海」として初めてステージに立つ瞬間だ。
「三、二、一、スタート!」七海の指が鳴らすリズムに合わせ、バンドが『もう月夜じゃない七海』を奏で始める。
この曲は幾度もの修正を経て、当初のデモとは様変わりしていた。束縛からの解放と真の自分探しを歌うこの曲は、七海自身の人生の縮図のようだった。
「ストップ!」七海が突然手を挙げた。「ギターソロのリズムがまだ合ってない。大輔君、もっと自由に!」
"自由"――この言葉が七海の口から出るたび、私は胸を衝かれる。完璧な計算のもとに動いていた月夜七海が、今では他人に自由を教えている。
「10分休憩」七海はため息をつき、私の方へ歩み寄った。
差し出した水筒を彼女が受け取り、喉を潤す。首筋に光る汗、Tシャツの背中部分に広がった汗染み。それでも彼女の目は輝きを失っていない。
「疲れた?」小声で尋ねる。
七海は首を振り、かすれた声で答えた。「疲れたけど…幸せ」唇の端が緩む。「前はみんなの期待に応えるために疲れてた。今は…自分の好きなことに没頭してるから」
彼女の手を握ると、指先に新しいタコを感じた。夜遅くまで楽譜と向き合った証だ。
「そういえば」七海がふと思い出したように言った。「ポスターの絵、完成した?」
「学園祭実行委員会に渡したよ」スケッチブックを開き、「原画を見せる」
七海がページをめくると、目が輝いた。シンプルながら力強いデザイン――深い青を背景に、星空と海の間に立つ少女のシルエット。足元には砕けた月の絵。タイトルは『姫野七海・オリジナル楽曲発表』とだけ。
「これ…素敵」七海の指が紙面を撫でる。「想像以上だわ」
「気に入ってくれて」照れくさそうに頭を掻く。「でも実行委員が言ってた。校外の人も目にするかもって」
七海の表情が一瞬硬くなり、すぐに和らぐ。「大丈夫。いつかはバレる時が来る」スケッチブックを閉じて返す。「それに…もう逃げない。あの時の月夜七海じゃない」
ドアが突然開き、マスクとキャップ姿の小柄な女性が入ってきた。マスクを外すと、人形のように整った顔が現れた。
「やっぱりここに」その女性は七海を見つめ、「久しぶり、七海」
七海の身体が硬直する。「凛…?」
私はすぐに気づいた。小笠原凛――七海の元グループの現センターで、今をときめくトップアイドルだ。なぜここに?
凛は周りを見回し、バンドメンバーや私に興味深そうな視線を投げかけた。「大学のキャンパス…新鮮だわ」
「何の用?」七海の声には警戒が滲む。
凛は鞄からCDを取り出した。「新曲。プロデューサーがどうしても聴いてほしいって」
七海は手を伸ばさず。「もう辞めたのに」
「音楽に罪はないでしょ?」凛はCDをテーブルに置き、七海に近寄って囁いた。「それと…君のお母さんの話がある。二人きりで」
バンドメンバーが退出し、凛が切り出した。「お母さん、入院したわ。軽い脳梗塞、深刻じゃないけど安静が必要」
七海の顔から血の気が引く。「いつ?」
「3日前」凛はため息をつく。「君に知らせるなって。『重大な決断』の邪魔したくないから」私を一瞥し、「でも知る権利はあると思って」
七海は椅子に崩れ落ちた。「それと…」凛は封筒を出す。「会社の新契約。クリエイターとしての活動を認める条件。大学も続けられる…会社の看板を背負うなら」
七海は封筒を見つめ、複雑な表情を浮かべた。アイドルとしての束縛から逃れつつ、音楽の道を歩める理想的な妥協案だ。
「考える時間が欲しい」
「もちろん」凛は立ち上がり、「学園祭見に来るわ。プロデューサーじゃなく、友人として」ドアの前で振り返り、「七海…お母さんの主治医によると、最近記憶力がかなり低下してるらしい。会いたいなら…早い方がいいかも」
凛が去り、七海は封筒を握りしめた。「どうしよう…」
「君の望むことは?」
七海は長い間黙り、やがて首を振った。「今会いに行ったら…母は動揺するだけ。学園祭が終わってから…」
頷き、それ以上は問わなかった。七海ほど母親を理解している者はいない。適切なタイミングを知っているはずだ。
「これ…」七海が封筒を手に、「どう思う?」
中立を保ちつつ尋ねた。「君が何を望むかだ。音楽を続けたいなら良い機会だ」
「わからない」七海の声は迷いに満ちていた。「決めたと思ってたのに…これを見て…」苦笑い。「禁酒中の人が大好きなワインを勧められるみたい」
彼女の葛藤が痛いほどわかる。月夜七海としての過去から逃れたいが、音楽そのもの――自己表現の手段は魂の一部だ。
「どんな選択でも」手を握りしめる。「僕はついてる。ただし一つ条件――本当に君が望んでいることだけを選べ。罪悪感や義務感からじゃなく」
七海は強く抱きしめ、肩で息をつく。「ありがとう…理解してくれて」
練習室の窓から、夕陽が傾いていく。七海の影が長く伸び、まるで未来への道のようだ。
学園祭当日、雨は上がっていた。会場の体育館には既に人だかりができ、七海は舞台袖で弦楽器のチューニングを確認していた。白いワンピースに身を包んだ彼女は、緊張で唇を噛みしめている。
「大丈夫?」そっと近寄り、肩に手を置く。
七海は深呼吸し、「五万人のライブより緊張する」と打ち明けた。
司会者のアナウンスが響き、七海がステージへ出ていく。スポットライトを浴び、マイクに向かう。
「こんばんは」少し震えた声。「姫野七海です」
華やかな自己紹介もなく、いきなりギターを抱えて『晨星』を歌い始める。夜明けについて、暗闇の後に見つけた光についての歌だ。
曲が進むにつれ、七海の緊張はほぐれていく。『漫画家さんへのラブレター』では、私をまっすぐ見つめながら歌う。赤裸々な歌詞だが、七海は一切恥じらうことなく、全世界に愛を宣言しているようだった。
「次は…」ギターを置き、ピアノへ移動。「新曲『リハビリ日記』です」
静かな前奏が流れる。歌詞は小さな進歩の積み重ね――病室の朝と夜、リハビリの苦しみ、そして「今日あなたはまた私の名前を呼んだ」という一節。その瞬間、観客席からかすかな声がした。
「七海…」
七海の指が鍵盤の上で止まった。声の主を探す目――車椅子の玲子さんだった。右手を不自由そうに上げ、もう一度「七海…」と繰り返す。
七海の涙がこぼれ落ちた。「この歌…私の勇敢な母に捧げます」
再び歌い始めた七海の声には、新たな力が宿っていた。観客席でも、涙を拭う姿がちらほら見える。
ラストナンバー直前、七海が突然マイクを握りしめた。「実は…今夜特別なお客様が」柔らかな笑み。「彼がいなければ、私はきっとここに立っていません」
スポットライトが私を照らし、私は凍りついた。七海が手招きする。「田中健太さん、ステージに来てくれませんか?」
拍手と歓声に押され、恥ずかしさで顔を赤くしながらステージへ。七海がギターを手渡す。「音楽教室での約定、覚えてる?」
「君が教えるって…」
「今がその時よ」七海は観客にウィンク。「彼のギターデビューを温かく見守って」
『星のカケラ』の演奏が始まった。私は下手くそなコード進行でついていくが、七海の歌声がすべてを包み込む。サビで七海は歌い方を変えた――月夜七海としての完璧なテクニックではなく、姫野七海としての等身大の感情を込めて。
「星屑になっても あなたに輝く」この一節で、七海は母を見つめ、そして私と目を合わせた。その瞳には、これまでの全て――アイドルとしての栄光と挫折、普通の女子大生としての再生、そして私たちの愛が詰まっていた。
演奏終了後、七海は深々とお辞儀をした。額に光る汗、輝く目。立ち上がった時、彼女はもう誰の目も気にしていない。ただ自分の歌に、自分の選択に誇りを持っているようだった。
楽屋には祝福の客が押し寄せた。玲子さんは車椅子で近づき、封筒を渡してくれた。中には5歳の七海が初舞台を踏んだ写真――「『小さな星の願い』初披露」と裏書されていた。
「小さい頃から歌が好きで…」玲子さんは言葉を紡ぐ。「でも今初めて…自分の声で歌ってる」
七海は人混みを抜け出し、母親に抱きついた。「ママ、来てくれたの!」
玲子さんは不自由な右手で娘の頭を撫で、「素晴…らしかった」と一言。
その夜、私たちは初めて会ったラーメン屋に行った。七海は疲れ切っていたが、目は輝いていた。
「凛から連絡があった」麺をすすりながら言った。「ヨーロッパツアーの話…」
「行くの?」
「うん」七海は箸を置き、「でも…」私の手を握る。「一緒に来てくれる?漫画ならどこでも描けるでしょ?」
驚きで固まる私に、七海は笑いかけた。「Jean-Lucが言ってたわ。『彼は君の音楽の一部なんだ』って」
窓の外で星が瞬く。並行して進んできた私たちの道は、ここで交差し、新たな軌跡を描き始める。