第六章 母の訪問
嵐が過ぎ去って一週間、七海は少しずつ笑顔を取り戻していた。
毎朝、図書館前のベンチで彼女を見つけるのが日課になった。イヤホンを付け、膝の上の楽譜帳に時折音符を書き込む姿。これは彼女の新しい習慣で、会社のためでもファンのためでもない、自分自身のための音楽を作っていた。
「おはよう、作曲家さん」温かいミルクティーを差し出し、傍に座る。
七海はイヤホンを外し、目を細めて笑った。「おはよう。聴いてみて」片方のイヤホンを私に手渡す。
流れてきたのは澄み切ったピアノの旋律。飾り気のない、素直な感情が込められた七海の歌声が重なる。星と海について、自由と再生について歌った曲だった。
「これは...」
「私が作ったの」照れくさそうにストローを噛み、「昨夜ふと思いついて...『もう月夜じゃない七海』ってタイトル、どう?」
木漏れ日が彼女の顔に揺れる影を落とす。一週間前、屋上で崩れ落ちていたあの少女とは別人のようだ。もはや隠し事も恐れもなく、ただ自分の好きなことに没頭している。
「美しい」そっと呟く。「月夜七海のどの曲よりも」
頬を染めた七海は楽譜にさらに音符を加えた。「学園祭で披露しようと思う」
「本当に?」ミルクティーをこぼしそうになる。「公開演奏するの?」
「うん」きっぱりと頷く。「月夜七海としてじゃなくて...ただの音楽好きな大学生、姫野七海として」
この決断に驚きと誇りを覚えた。かつて正体を隠していた彼女が、自ら進んでスポットライトを浴びようとしている。
「一番前列で応援する」手を握り返す。「特大の応援ボード持ってね」
七海は太陽よりも眩しい笑顔を見せ、突然私の頬に軽くキスした。「ありがとう...全部全部」
これが初キス以来、七海が身につけた新たな習慣だ。もはや最初の恥じらいもなく、自然なスキンシップ。それでも毎回、私の心臓は一瞬止まりそうになる。
その時、七海の携帯が鳴った。画面を見た彼女の表情が一瞬で凍りつく。
「どうした?」
「ママが...」声がかすれる。「学校の正門に...会社のプロデューサーと一緒に...」
胸が締め付けられる。七海が断片的に語っていた母親――厳格なピアノ教師で、娘をアイドルに仕立て上げた張本人。七海が最も恐れる存在だ。
「会う?」
七海は楽譜を握りしめ、紙が皺くちゃになる。深く息を吸い込み、うなずいた。「いつかは向き合わなきゃ...今のうちに」
荷物をまとめ、正門へ向かう。七海の足取りは次第に重くなり、最後は引きずるようだった。そっと手を握ると、冷たい汗を感じた。
「何があっても」ささやくように言った。「僕がついてる」
返事はなかったが、握り返す力が強まった。
正門前に停まった黒い高級車が、学内の質素な雰囲気とそぐわない。車の傍には二人の人影――きっちりとスーツを着込んだ中年女性と、高級時計をした男性が立っていた。
「ママ...佐藤さん...」七海の声は蚊の鳴くほど小さい。
母親――玲子さんは私たちが握った手を鋭い視線で刺し、口元を引き締めた。「七海」氷のような声。「随分...のんびりしてるようね」
佐藤プロデューサー――七海の元グループの音楽プロデューサーだ――は社交的な笑みを浮かべた。「七海ちゃん、久しぶり。元気そうで何より」
七海は小動物のように硬直し、手のひらで微かな震えを感じた。
「こちらは?」佐藤が私を見る目に、評価の色が浮かぶ。
「田中健太です」半歩前に出る。「七海の...彼氏です」この言葉を口にするのは初めてだったが、最悪のタイミングだ。
玲子さんの目がさらに鋭くなり、佐藤は「やはり」という表情を見せた。
「中で話そう」七海が意外な落ち着きで言った。「ここは...話しにくい」
高級カフェの個室は重苦しい空気に包まれた。七海と私、母親と佐藤プロデューサー。奇妙な対峙構造だ。
「つまり」玲子さんが切り込む。「早稲田を蹴って、五年もの芸能生活を投げ捨てたのは」私を刺すような視線。「この...普通の男子大生のため?」
「違います!」七海の声が跳ね上がる。「辞めたのは――」
「失声症だから、ね」玲子さんが遮った。「でも佐藤さんによれば、会社はアメリカ最高のボイストレーナーを手配済みだった。休学して治療すれば――」
「もう治療は嫌だ」七海の声が震える。「あの薬...自分が誰だかわからなくなる」
私は驚いて七海を見た。失声症?聞いたことがない。
七海の顔色がさらに青ざめる。「胃薬も...睡眠薬も...耐えられなかった」
「薬?」思わず口に出る。
佐藤は軽く手を振った。「七海ちゃんは最後の半年、心因性失声症になった。ステージ恐怖で声帯が痙攣する。医者が処方した薬は...少し強かったかもしれない」素っ気なく流し、「でも解決できる問題だ!会社は諦めてない」
「私が諦めたの!」七海の声が弾ける。「もう月夜七海はやりたくない!あの薬で...毎朝目覚めるたび自分が誰かわからなくて...」
声が詰まり、涙が浮かぶ。手を握ろうとしたが、玲子さんの視線に阻まれる。
「七海」佐藤が柔らかい口調に変えた。「会社は君のプレッシャーを理解している。だから新しい提案を」書類を差し出す。「復帰すれば早稲田に編入、奨学金全額。来年はバークリー音楽院にも留学させよう...クリエイターとして再出発だ」
あまりに魅力的な条件に、私は七海を見つめた。どんな選択をするのか。
「条件は?」七海は年齢不相応に現実的な質問を投げかける。
佐藤が笑い、「さすが」と。「小さな条件が一つ」私を見る。「この関係を清算することだ。公には『アイドル失格』時期の過ちと」
胃を殴られたような衝撃。関係を清算?過ち?
七海が椅子を蹴り、耳障りな音を立てて立ち上がった。「無理です!」
「七海!」玲子さんが机を叩く。「こんなチャンス――」
「知ってる!」七海の声が震える。「でも私...もう決めた。今は幸せで...」
「幸せ?」玲子さんの冷笑。「こんな三流大学で?この...」私を蔑むように見た。「この普通の男と?そんな幸せが続くと思う?」
胸を刺される言葉。私はうつむき、七海との溝を痛感する――天才アイドルと平凡な大学生。
「健太のことを何も知らない!」七海の声に力がこもる。「彼は誰よりも――」
「もういい!」玲子さんが立ち上がる。「三日考える時間をやる。会社の条件を受け入れるか、さもなくば...」声が冷たい。「二度と母とは呼ぶな」
そう言い残し、去っていく佐藤が最後に一言。「考えろ、七海ちゃん。アイドルの命は短い...だが音楽は一生だ」
ドアが閉まり、七海が崩れ落ちるように座り込んだ。涙が静かに頬を伝う。
「七海...」何と言えばいいのかわからない。
「ごめん...」嗚咽。「全部話してなかった」
七海が語り始めた――ラスト半年、増え続けるプレッシャーで抗不安薬に頼るようになったこと。次第に量が増え、ついにステージで声が出なくなったこと。動画が拡散され、非難が殺到したこと。
「あの薬で...自分じゃないみたいだった」苦しげに回想する。「本当の記憶か、薬のせいかわからなくて...」
胸が締め付けられる。七海の部屋にあった薬瓶の裏には、こんな事情が。
「じゃあ...」言葉を選ぶ。「僕への気持ちも...本当?」
口にした瞬間、後悔した。七海は雷に打たれたように顔を上げ、傷ついた目で見つめる。
「疑ったの?」声が砕ける。「全部の中で...これだけは絶対に本当だって」
恥ずかしさで穴があったら入りたい。七海は立ち上がり、鞄をつかむ。「一人に...させて」
「七海、待って!」追いかけるが、会計で止められる。外に出た時には、彼女の姿はなかった。
次の24時間は人生で最も長く感じた。七海は寮に戻らず、携帯はオフ。メッセージは既読すらつかない。キャンパス中を探し回ったが見つからない。
翌夕方、携帯に七海からの位置情報が届く。【文学棟屋上へ来て】。
全力で駆け上がり、ドアを開けると――夕陽に照らされた七海がギターを抱えていた。目は腫れ、明らかに泣いていた。
「新しい歌」かすれた声。「聴いて」
頷き、前に座る。七海が深呼吸し、弦をはじく。
これまでと全く違う――飾らないメロディ、加工のない声。迷いと探求、暗闇の中で掴んだ手、不完全さを選ぶ決意についての歌だ。
最後の音が風に消えると、七海の涙が再び溢れた。「これが答え...健太。不完全で、本当の...私全部」
もう抑えられず、強く抱きしめる。七海は嵐の中の小舟のように震えていた。
「ごめん...」耳元で囁く。「疑うんじゃなかった...ただ...」
「怖かった」七海が言葉を継ぐ。「私も...あなたにふさわしくなくて、またがっかりさせて...」
夕陽の中、抱擁する。心臓の鼓動が次第に同期していく。七海が顔を上げ、潤んだ目で見つめる。「ママと会社の条件...断った」
「本当に...いいの?」
「自由が欲しい」力強い声。「あなたを愛する自由、自分らしくいる自由...たとえ不完全でも」
その言葉が胸を打つ。頬の涙を優しく拭いながら、「一緒に...向き合おう」と囁く。
七海は微笑み、うなずいた。「うん...一緒に」
夜が訪れ、最初の星が輝き始める。七海が肩にもたれかけ、新曲を口ずさむ。この瞬間、悟った――ステージの完璧な月夜七海より、このありのままの姫野七海が愛おしい。彼女もまた、私の平凡さや欠点を知りつつ、そばにいてくれる。
これが愛の本当の形なのかもしれない――完璧な二人が出会うのではなく、不完全な二人がお互いの本質を見て、それでも歩み寄ること。
携帯の振動で静寂が破られる。玲子さんからのメッセージだった:
【明日東京に戻る。考えが変わったら...連絡しなさい。】
七海は深呼吸し、すぐに返信した:
【ママ、気持ちは変わりません。でもいつか...私の選択を理解してくれますように。愛してる。】
携帯を切り、星空を見上げる。「何が起ころうと...今は自由」
手を握り締め、共に星を見上げる。明日何が待っていようと、今夜この瞬間、私たちは互いを手にし、満天の星空を共有している。