第五章 嵐の訪れ
月曜の午後、七海と私はキャンパスの芝生に並んで座り、一つのイヤホンを分け合っていた。風邪が治って三日目、穏やかな陽射しが降り注ぐ日だった。
「これ...私が作った曲」七海が突然言った。視線は遠くの桜の木に向けたまま、「『星の欠片』のB面で、未発表だった」
イヤホンから流れてくるのはシンプルなピアノの旋律。七海の声は水のように澄み、これまで聴いたどの月夜七海の曲とも違っていた——もっと個人的で、脆い。
「なぜ発表しなかったの?」
七海はイヤホンを外し、小さくため息をついた。「事務所が『アイドルらしくない』って」。大げさに手を振り、「月夜七海の歌は輝いていなきゃいけないの。希望に満ちてて...こんな生々しい感情はダメだって」
イヤホンのコードを弄びながら、まつげに陽光が踊る。風邪以来、私たちは暗黙の了解を得たようだった——アイドルとファンの過去には触れず、今の関係だけを見つめる。だが時折、七海は「月夜七海」についての断片を漏らすのだった。
「この曲、好きだ」私は心から言った。「『星の欠片』より」
七海が振り向き、口元を緩めた。「本当?」
「うん。まるで...本当の君が歌っているみたい」
七海の笑顔が広がり、私の腕を軽く叩いた。「ずいぶん上手くなったね。握手会の時は、ただ赤くなって『頑張ってください』って言うだけだったのに」
反論しようとした時、七海の携帯が鳴った。画面を見た彼女の表情が一瞬で凍りつく。
「どうした?」
「何でも...ない」素早く画面をロックし、「サークルの連絡。ちょっと揉めてるだけ」
だが私はちらりと見てしまった——学内掲示板の通知だった。最近七海はよく掲示板をチェックし、読むと放心状態になる。何度か尋ねたが、いつも適当にごまかしていた。
「七海...」躊躇いながら切り出した。
「本当に大丈夫!」声が裏返り、「そうだ、文学のレポート終わった?」
話題を変えるのが明らかだった。それ以上は追求しないことにしたが、胸のざわめきは消えなかった。
別れ際、七海は「また明日」とだけ言い、珍しく振り返らずに去って行った。後ろ姿を見送りながら、不吉な予感が頭をよぎる。
寮に戻ると、なぜか学内掲示板を開いてしまった。サークル勧誘や教科書売買の投稿が並ぶ中、あるタイトルが目に飛び込んだ:
【衝撃!元人気アイドルが在学中、元国民的妹がこんな三流大学に?】
指が震えながらクリックした。短文だった:
「文学院の姫野七海、去年忽然と消えた元アイドル月夜七海だと気づいた人いる?図書館で偶然見かけてこっそり写真撮った[画像]。あんなに人気だったのに、こんな大学にいるなんて業界干されてるのかな?ラストライブで大失敗して酷評されたらしいよ...」
ぼやけた写真だが、間違いなく七海だった——日差しを受けて本を読む横顔。投稿は3日前で、レスは200を超えていた。
指を震わせてスクロールすると、ナイフのようなコメントが並ぶ:
【3楼】マジで彼女だったのか!なんであの天才アイドルがこんな大学に?
【15楼】最後のライブで歌詞飛ばして音程も外した動画が拡散されて、ファンからも叩かれたらしいよ
【42楼】食堂で見かけた!スッピンだと別人みたい。アイドルって化け物だな
【87楼】男とよく一緒にいるけど彼氏?アイドルに恋愛禁止なんて嘘だったんだ
【103楼】落ちぶれたアイドルが普通の大学生気取り?消えろ
目の前が真っ暗になった。これが七海の見ていたものか。
更新すると、新着レスが:
【209楼】最新情報!明日の午後、文学棟304教室で授業あるみたい。見物したい人はどうぞ!
ノートパソコンをバタンと閉じた。七海が危ない。
翌朝早く、女子寮の前に立っていた。七海が出てきた時、見間違うほど変わり果てていた——深く被ったキャップ、マスクで覆われた顔、縮こまった歩き方。
「七海!」
びくっとした七海は私とわかると少しだけ力が抜けた。「健太...どうして...」
「あの書き込み見た。なんで教えてくれなかった?」
肩の力が抜けた。「心配かけたくなかった...それに」マスク越しの声はこもっていた。「慣れてる。アイドルってそういうもの。今日は持ち上げられて、明日は泥を塗られる」
「でももうアイドルじゃない!」声が大きくなった。「君はただの...」
「普通の大学生になりそこねた落ちこぼれ」七海は自嘲気味に笑った。「でもそれすらできなくなった」
反論の言葉が見つからない。ただそっと手を握った。「今日は授業休もう」
七海は首を振った。「サボったらもっと悪化する」。深く息を吸い込んだ。「私...立ち向かう。健太の言う通り、今は普通の学生。何を言われようと」
勇ましい言葉とは裏腹に、手のひらで小さな震えを感じた。
午前中の授業は平穏だったが、教室の空気は重かった。囁き声が絶えず、ちらちらと七海を見る視線。七海は終始うつむき、異常なほど熱心にノートを取っていた。
昼休み、屋上で弁当を広げた。七海はようやくマスクを外し、血の気の引いた顔だった。
「大丈夫?」おにぎりを渡す。
「うん」受け取ったが包装を開けず、「ただ...嫌な思い出が」
七海は語り始めた——グループ脱退前のライブで、過労と不眠がたたり声が出なくなったこと。動画が拡散され、バッシングが殺到したこと。
「契約まで頑張ろうと思ったけど...」おにぎりを握りしめ、「楽屋で崩れた。マネージャーに『グループの恥』って...プロデューサーには『アイドル失格』って...」声がかすれた。「逃げたの。早稲田の推薦も捨てて、誰も知らない大学を選んだ」
俯いたまつげに影が落ちる。抱きしめたい衝動を抑えた。
「でもまた見つかっちゃった」七海は涙ぐみ、「逃げ場がない、健太」
「逃げなくていい」手を握り返した。「二人で向き合おう」
七海はかすかに笑ったが、目の中の恐怖は消えていなかった。
午後の文学講義は地獄だった。304教室に近づくと、十数人がたむろしている。スマホを構える者、好奇の目を向ける者。
「ほら、あれだ...」
「まさか...」
「口パクばれてたんだって...」
七海の体が硬直し、鞄の紐を握る指が白くなった。小鹿のように震えている。
「帰ろう」ささやいた。
七海は無言でうなずいた。その時、甲高い声が響いた。
「あら、月夜七海じゃない!もう偽装できないの?」
金髪の女子が近づいてきた。学内掲示板でよく見かける噂好きだ。
七海は黙って歩を速めたが、執拗に追いかけられる。
「最後のライブ、本当に酷かったわね!『音痴女王』って呼ばれてたんでしょ?動画見たわ、まさに...」
嘲笑が沸き起こる。七海の足がもつれ、私はすぐに支えた。
「どけ」声が震えた。
金髪は眉を上げた。「まあ、護衛役?彼氏なの?アイドルに恋愛禁止なんて」七海を嘲笑うように見た。「もう慣れてるのね、ルール破り」
その言葉が最後の一押しとなった。七海は私を振り切り、階段へ駆け出した。背後から野次と口笛が飛ぶ。
屋上で七海を見つけた。隅で膝を抱え、肩を震わせていた。近づくと、押し殺した嗚咽が聞こえた。
「七海...」
「どうして...どうして私を放っておいてくれないの...」涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、「もう...十分償ったのに...」
ためらいながら抱きしめた。七海は一瞬硬直したが、すぐに私の肩に崩れ落ち、涙をこぼした。
「君は何も悪くない」背中をさすり、「音を外したって罪じゃない。普通になりたかったって罪じゃない」
七海は嗚咽し、吐息が首筋に温かく当たった。「でも...みんなの言う通り...私は...皆を失望させた」
「だから何?」少し離れ、顔を両手で包んだ。「誰にだって失敗する権利はある。アイドルだって人間だ」
七海の目は腫れ、鼻は赤く、メイクはぐしゃぐしゃ——最も惨めな姿だが、最も正直な彼女だった。
「でも...」かすれた声、「健太も...私に失望する?」
胸を射抜かれた。深く息を吸い、涙を拭った。「七海、よく聞け。私は君が好きだ——ステージで輝く月夜七海でも、今こうして泣いたり笑ったり、怯えたり弱ったりする姫野七海でも」
七海の目が大きく見開かれ、新しい涙が溢れた。今度は違う感情が混ざっているようだった。
「ほ...本当?」
「本当だ」力強く言った。「それに...ただ好きってだけじゃない」
言葉が重くのしかかる。七海の目は涙にきらめき、雨上がりの星空のよう。唇を開きかけたが、結局ただ強く抱きしめてきた。
長い時間、日が沈みキャンパスが静かになるまで、二人きりでいた。七海は落ち着いたが、まだ私の手を離さない。
「お腹空いた」突然言った。声はまだかすれていた。
その平凡な宣言にほっとした。「何が食べたい?」
「ラーメン」目をこすり、「激辛の」
学外のラーメン屋に向かうことにした。屋上を出る前、七海はトイレで身だしなみを整え、マスクと帽子を着けた。だが今度は私の目を避けなかった。
「準備はいい?」
七海は深呼吸し、うなずいた。「うん。健太がいれば...怖くない」
胸が熱くなった。勇気を出し、手を握った——これまでのような慰めの触れ合いではなく、指を絡め合うしっかりとした握り方に。
七海は驚いたように私を見たが、すぐに微笑んで握り返した。
手をつないで校舎を出ると、学生たちの視線が集まった。でも七海はもううつむかなかった。温かく確かな手のひらが、私たちの覚悟を静かに宣言しているようだった。
ラーメン屋で七海はマスクを外した。湯気が顔を覆うが、目の中の輝きは隠せない。激辛ラーメンを啜り、鼻の頭に汗を浮かべ、時折舌を出す。
「美味しい!」満足げにため息。「アイドル時代のダイエット食より一万倍いい」
そんな彼女を見て、この騒動も悪くないと思った。七海の「普通の大学生」という仮面を剥がしたが、その代わりに本当の自分——そして私との関係——と向き合うきっかけになった。
帰り道、七海が足を止め、空を見上げた。
「健太、見て」指さした。「今夜は星がすごくきれい」
確かに、いつもより星が輝いて見えた。
「小さい頃...」七海は囁くように言った。「怖い時や悲しい時、母は一番明るい星を探させたの。『守ってくれる星よ』って」。苦笑した。「アイドルになってからは、ライトが眩しくて星なんて見えなくなった」
そっと手を握り返した。
「でも今日...」七海は私を見つめ、目に星を映していた。「また星が見える」
星空の下で見つめ合う。七海の目はどの星よりも明るく、私には読み切れない感情で満ちていた。
「健太...」声が震えた。「キス...してもいい?」
頭が真っ白になった。心臓が止まりそうなほど鼓動が速い。月明かりに浮かぶ七海の顔、辛いラーメンで少し腫れた唇、期待と不安の入り混じった眼差し。
言葉が出ないので、ただうなずき、目を閉じた。
七海の唇が触れた。蝶が花に止まるように、儚く柔らかく。目を開けると、照れくさそうに頬を染めていた。
「これが...初キス」小さな声で打ち明けた。「ステージ上ののは全部借り物か頬だけ」
胸が熱くなった。そっと抱き寄せ、耳元で囁いた。「僕も初めてだ」
七海はくすくす笑い、吐息が首に当たった。「じゃあ...同点ね」
寮の前で、七海はなかなか手を離さなかった。
「明日も...」下唇を噛み、「今日みたいでいられる?」
彼女の問いの意味はわかっていた——明日も誹謗中傷が続き、好奇の目が向けられても、私たちは今日のようにいられるのか?
「いられるよ」約束した。「毎日ずっと」
七海の笑顔はどの星よりも輝いていた。つま先立ちで頬に軽くキスをし、「おやすみ、健太。今日は...ありがとう」
七海が寮のドアに消えるまで見送り、携帯が震えた。
【今日は最悪だったけど...健太がいてくれたから特別な一日になった。PS: 本当に好きかも、ファンとしてじゃなくて】
一文字ずつ噛みしめるように読んだ。返信は簡潔にした。「僕も」。たった二文字だが、計り知れない想いを込めた。
寮に戻り、学内掲示板のページを閉じた。アカウントを作成し、誹謗中傷のスレに書き込んだ:
【田中健太です。姫野七海の友人です。皆が「落ちぶれたアイドル」と呼ぶ彼女は、私の知る最も勇敢で正直な人間です。誰にだって自分の人生を選ぶ権利があり、失敗し、やり直す権利があります。これ以上彼女を誹謗中傷するなら、学校に正式に訴えます】
投稿を終え、ベッドに横たわると、唇に七海の感触が残っていた。窓の外で流れ星が光った。目を閉じ、願いを込めた——七海が本当の幸せを見つけられますように。そして私が、その過程をずっと傍で見守れますように。
明日何が起ころうと、少なくとも今夜、私たちは互いを手にし、満天の星を共有した。