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第二章 少しずつ近づく距離



三日連続で七海と会えなかった。


この大学は思ったより広くて、専門ごとに校舎が分かれている。もしかしたら、あの教室での出会いは夢だったんじゃないかとさえ思い始めていた――金曜日の昼休み、学生食堂の片隅で彼女を見つけるまでは。


七海は窓際の席に一人で座り、ほとんど手をつけていないカレーの前にいた。ニット帽を深くかぶり、ポニーテールにした髪、黒縁メガネ。普通の女子大生と変わらない格好だ。でも、この三日間、彼女のあらゆる表情や仕草を脳裏に焼き付けた僕にはすぐにわかった。


足が地面に釘付けになる。声をかけるべきか?邪魔になるんじゃないか?


迷っていると、七海がふと顔を上げ、騒がしい食堂の中をすり抜けて、僕と目が合った。


彼女は微笑んで、手を振った。


「偶然だね、健太」カレーの前に座ると、七海は片方のイヤホンを外した。「昼休みも同じ時間帯?」


「うん、一限が終わってから」トレーを置きながら、「ここ、いい?」


「もちろん」七海は向かいの椅子に置いてあったカバンをどける。「実は、聞きたいことがあって」


カレーを一口食べようとしたフォークが止まる。「何?」


「普通の大学生って……授業以外で何してるの?」


「え?」


「体験してるつもりだけど、どうも傍観者みたいで……」七海は窓の外を見つめ、「今までスケジュールは全部決められてたから、逆に自分で何をすればいいかわからなくて」


窓から差し込む陽光が彼女の横顔を照らす。メイクをしていない肌は自然な白さで、鼻の頭にはそばかすがいくつか見える。ポスターよりもずっとリアルで、息をのむほど美しい。


「別に……大したことしてないよ」考えながら答える。「授業と課題、たまに友達と遊ぶ……週末は買い物とか映画とか」


「映画!」七海の目が輝く。「普通の映画館、何年も行ってない。最後はファンミーティングで貸し切りだった」


そんな生活を想像するのも難しい。


「ねえ」七海は急に身を乗り出し、声を潜めた。「今週末、暇?あの……新作の『海街diary』見に行きたいんだけど、一人はなんか変で……」


心臓が一瞬止まりそうになる。これは……デートの誘い?


「もちろん!」出過ぎた返事に周囲の視線が集まる。慌てて声を落とす。「えっと……喜んで」


七海は目を細めて笑った。「よかった!じゃあ土曜の二時、正門で」


「でも……」ふと疑問が浮かぶ。「バレない?みんなに気づかれたら……」


七海はニヤリと笑い、ポーチから化粧ポーチを取り出した。「秘密兵器よ。髪型を少し変えて、メガネで普通のメイク。三年間アイドルやってたって、こういうのもあるの」


彼女の自信満々な様子に、ふと気づく。月夜七海という存在は、彼女にとって輝かしい栄光であると同時に、重い枷でもあったんだ。今、その枷から逃れようとしている。


「午後の授業は?」カレーをかき混ぜながら七海が聞く。


「西洋文学史で、文系校舎の方だ」


「本当?」七海の目が丸くなる。「私も取ってる!なんで今まで気づかなかったの?」


「ずっと後ろの隅で、しかもよく遅刻するから……」


七海は首を振りながら笑う。「じゃあ、一緒に行こう。山田教授、遅刻にうるさいから」


文系校舎までの道のりで、七海は絶妙な距離を保つ――近すぎず遠すぎず。アイドル時代の名残だろう、人目を気にするのが習慣になっているようだ。


「実はずっと気になってた」七海が突然言った。「なんであなた……月夜七海が好きだったの?」


風が彼女の髪を揺らす。中学時代からアイドルをしていた彼女には、普通の学生生活というものがどんなものか、本当はわからないんじゃないか。


「最初は声かな」思い出しながら答える。「高三でストレスが酷くて、ラジオでたまたま『星の欠片』を聴いて……癒された」


七海はうなずく。「あの曲ね。初めて自分で作詞した曲」


「知ってる」口が滑る。まるでストーカーみたいだ。「その……雑誌のインタビューで読んだ」


七海はクスクス笑う。「そんなに詳しいんだ。まさかの熱烈ファン?」


照れくささに耳が熱くなる。


文学史の教室は階段式で、百人以上入れる広さだ。七海と僕は中ほどの席を選ぶ。


「今日は『若きウェルテルの悩み』を扱います」山田教授がメガネを上げる。「読んだことがある人は?」


ちらほら手が上がる。七海も、そして僕も。高校時代のお気に入りだった。


「では、誰か『片想い』というテーマについて意見を?」


教室がシーンとなる。七海がちらりとこちらを見て、小さくうなずく。勇気を出して手を挙げる。


「僕が……」立ち上がり、喉を鳴らす。「ウェルテルの感情は単なる恋愛ではなく、緑色への純粋な憧れだと思います。現実がその理想に届かない時、彼は……」


声が小さくなる。教授も生徒も、全員がこっちを見ている。手のひらに汗がにじむ。


「……は破壊によってその純粋さを守った」七海の声が続きを拾う。「桜が一番美しい時に散るように、完璧なままでありたかったから」


教授が満足そうに頷く。「二人とも良い考察だ」


席に戻ると、七海が机の下でこっそり腕を触れた。「上手に話せたじゃん」


その褒め言葉に胸が温かくなる。


授業終了のチャイムとともに、空が急に曇り始めた。校舎を出ると、もう雨がぽつぽつ降っている。


「傘、持ってない……」七海が空を見上げて嘆く。


「僕のは小さいけど」折りたたみ傘を取り出す。「……よかったら」


七海はためらわず傘の下に入る。狭いので、肩が触れそうな距離。七海に濡れないよう、傘を傾けるせいで、左肩がずぶ濡れになる。


「濡れてる」七海が眉をひそめ、傘の角度を調整する。「こうすれば大丈夫」


その時、彼女の指が僕の手に触れた。電流が走ったように体が震える。雨音だけが響く中、並んで歩く。


「実は……」七海が雨音にかき消されそうな声で言う。「怖い」


「何が?」


「正体がバレること。『月夜七海がこんな大学に?』って言われるのが。それに……」声がかすれる。「期待を裏切るような気がして」


雨が彼女の不安を包み込む。今、隣にいるのはステージのスターではなく、将来に怯える普通の女の子だ。


「知ってる?」僕は足を止め、彼女の目を覗き込む。「姫野七海の方が、月夜七海よりずっと……近づきたいと思わせる」


七海は目を見開き、やがて微笑んだ。「ありがとう……最高の褒め言葉」


女子寮の前で別れる時、七海は思い切ったように抱きついてきた。「土曜日、忘れないでね」


その一瞬の感触が頭から離れない。傘を傾けたせいで頭からずぶ濡れだが、寒さを感じない――体中の血が沸き立っているようだ。


寮に戻ると、すぐに七海からメッセージが届く。


【今日は本当に楽しかった。PS:肩びしょ濡れだったから、着替えないと風邪ひくよ】


画面を見つめ、顔が緩む。返信する。


【わかった。君も気をつけて。土曜日、楽しみにしてる】


ベッドに倒れ込み、今日の出来事を思い返す。七海の笑顔、触れた手の温もり、あの突然のハグ……


イヤホンで『星の欠片』を流す。でも頭に浮かぶのは、ステージの月夜七海ではなく、今日の陽光の中で笑った姫野七海だ。


ふと気づく。もはや僕は、遠くから彼女を崇めるファンではなく、少しずつ近づきつつある存在なんだ。


この気持ちは、ウェルテルのそれよりもずっと複雑で、そしてずっと怖い。

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