第一章:初めての出会い、そして――
(初めまして、森下です。えっと……よろしくお願いします)
心の中で、自己紹介の言葉を繰り返す。
まずい、緊張しすぎて、絶対に失敗する。
そりゃそうだ。だって、昔好きだった人気アイドルが隣に座っているんだから。
次は彼女の番だ。月夜七海。
「初めまして、姫野七海です……七海って呼んでください。まあ、そんな感じで。よろしくお願いします」
はは、彼女も緊張しているみたいだ。
月夜七海。本名は本当に姫野七海らしい。
雑誌のインタビューで読んだことがある。「ゲームに出てくる姫野さんは悪役ばかりだから、芸名の名字を変えた」って。
なんだ、その理由は……
「えっ……マジで月夜七海?」
「でも、彼女って成績優秀だって聞いてたよ。こんな大学に来るわけないじゃん」
「もしかして、今まで全部嘘だったのかな?アイドルって完璧に見せかけるために、そういうことするらしいよ」
「そんなことないでしょ、たまたま失敗しただけかも……」
教室中でささやき声が広がる。
振り返って、こっそり彼女を見る。七海の表情が少し曇っている。
「あの、みんな。内緒話はやめて。次、僕の番だから」
現充っぽい男子が立ち上がった。
「遠藤京です。京って呼んでくれれば。アイドルが好きで、特に月夜七海さんが推しです。よろしく」
そう言いながら、七海に向かってウィンクした。くそ、やっぱり現充か。俺には一生できない芸当だ。
でも、彼のおかげで教室の空気が少し和らいだ。みんな、次の自己紹介を待っている。
しかし、七海の表情はまだ晴れない。
ここで、俺が動くべきなのか?
いや、もう彼女は俺の推しアイドルじゃない。なのに、なぜ助けなきゃいけないんだ。
その時、自分でも予想していなかった行動を取ってしまった。
「あの……」立ち上がり、思ったより落ち着いた声で話す。「田中健太です。さっき自己紹介しましたが……一つ付け加えさせてください」
深く息を吸い込む。
「僕も……月夜七海さんのファンでした」
教室が静まり返る。全員の視線が俺に集中している。七海もだ。彼女の目が少し大きくなり、驚きと――何か読み取れない感情が浮かんでいる。
「アイドルだって人間です。失敗だってあります」続ける。声はだんだん強くなる。「それに、ここで彼女に会えて……光栄です」
そう言い終えると、背中が汗でびっしょりだ。
頭を下げて席に着く。誰の反応も見られない。特に七海の。
自己紹介は続いていくが、もう俺の頭には入ってこない。
なぜこんなことをしたんだ?もう彼女のことは気にしないと決めたのに。あのアイドル追いかけていた日々は終わったはずなのに……
チャイムが鳴り、急いで荷物をまとめる。一刻も早くこの居心地の悪い場所から逃げ出したい。
しかし、教室のドアを出ようとした瞬間、声をかけられた。
「田中さん」
固まる。ゆっくりと振り向く。
七海が立っている。背後の窓から差し込む陽光が、彼女を金色に縁取る。想像より小柄で、シンプルな白いシャツとジーンズ姿。ステージの濃いメイクはないが、それでも美しくて、心臓がバクバクする。
「ありがとう」彼女はかすかに笑った。「さっきは……助けてもらって」
喉が詰まり、ただ無言でうなずくだけ。
「覚えてるよ」突然、彼女が言った。真っ直ぐに俺を見つめる。「あなた……握手会に毎回来てくれたファンでしょ?いつも真ん中あたりに並んで、手作りの応援ボードを持って」
衝撃が走る。覚えている?人混みの中の、取るに足らない俺を?
「覚えて……いるの?」声がかすれる。
七海は笑った。あの、数々のポスターで見た笑顔。でも今は、俺だけに向けられている。
「もちろん。あなたの応援ボード、特別だったから。いつも星と月が描いてあって……私の名前みたいで」
眩暈がする。あの熱狂的なファン時代に引き戻された気分だ。
しかし現実が俺を引き戻す――今や俺たちは同じ大学の同学年なんだ。ごく普通の大学生同士なんだ。
「どうして……」躊躇いながら尋ねる。「どうしてここに?」
七海の笑顔が少し薄れる。教室を見回し、まだ数人が残っているのを確認する。
「ちょっと……静かなところで話せる?」
校舎の隅にあるベンチに座る。桜の木に囲まれているが、今は花の季節ではない。それでも木々の葉が十分なプライバシーを与えてくれる。
七海はベンチの端に座り、俺は慎重にもう一方の端に腰かける。適度な距離を保つ。
「実は……」七海は自分の指をいじりながら話し始める。「去年、早稲田には受かってた」
目を見開く。やはり。
「でも……辞退したの」彼女は顔を上げ、ステージでは見たことないような脆さをたたえた目で俺を見る。「アイドルを五年やってた。中学からずっと。毎日仕事か勉強で、友達もいない、自分の時間もない……疲れたの」
風が吹き、木の葉がさらさらと音を立てる。まるで彼女の告白のBGMのようだ。
「普通の大学生活がしたかった。普通に授業を受けて、友達を作って……だから、誰も私を探しそうにないこの大学を選んだ」苦笑する。「学費がべらぼうに高いけど」
黙って聞いている。複雑な感情が渦巻く。あのステージで輝いていた月夜七海にも、こんな悩みや葛藤があったんだ。
「だから……」七海は急にこっちを向き、手を合わせた。「お願い。私のことを内緒にしておいてくれない?まだたくさんの人に正体を知られたくないの。少なくとも今は」
彼女の目が潤んでいる。子鹿のようなその瞳で懇願される。心臓の音が聞こえそうだ。
「わ、分かったよ」ろれつが回らない。「でも……遠藤君にはもうバレてるみたいだけど」
七海は顔をしかめた。「あの現充か……大丈夫、口が軽そうな人じゃないし」少し間を置き、「それに……あなたなら信頼できる気がする」
木漏れ日が彼女の顔に揺れる。ふと気付く――今隣にいるのは、遠い存在だったアイドル「月夜七海」ではなく、普通の女子大生「姫野七海」なんだ。緊張すると指をもじもじさせ、嬉しいと目を輝かせ、将来に不安を抱く……
「あ、そうだ」七海は何かを思い出したようにカバンからスマホを取り出す。「連絡先、交換しない?だって……あなたはこの学校で初めての友達だし」
友達。
その言葉が頭の中で反響する。まさか彼女と友達になる日が来るなんて。
「い、いいよ」慌ててスマホを出すが、取り落としそうになる。
七海はクスクス笑った。「握手会の時みたいに緊張してる」
顔が火照る。こんなところまで覚えてたのか……
連絡先を交換し終え、七海は時計を見る。「もう次の授業に行かなきゃ。ありがとう、田中さん……いや、健太さん?」
「健、健太でいい!」
「じゃあ……またね、健太」
手を振り、去っていく彼女の後ろ姿を、ぼんやりと見送る。まるで夢を見ているようだ。あの壁一面にポスターを貼っていたアイドルが、今は同学年の女子学生で、俺の名前で呼んでくれるなんて。
スマホが振動した。新しいメッセージだ。
【差出人:七海】
【今日は助けてくれてありがとう。PS:あなたの描いた応援ボード、本当に素敵だった。一つ、今でも持ってるよ(^▽^)】
画面を見つめ、口元が自然と緩む。もしかしたら、この高額な私立大学も、思ってたほど悪くないかもしれない。