第十七章 星が輝く時
公演当日、東京は小雨が降っていた。
僕はZepp Tokyoのバックステージの楽屋に立ち、七海が化粧鏡の前でイヤーモニターの位置を何度も調整しているのを見ていた。彼女はシンプルな白いワンピースを着て、髪は緩くまとめ上げ、ほっそりとした首筋が見えている。鏡の中の彼女は眉をひそめ、指が絶えずテーブルを叩いていた。
「緊張してる?」僕は彼女の後ろに立ち、両手を彼女の肩に置いた。
七海は深呼吸をした。「五万人のスタジアムよりも緊張するわ」彼女は振り返り、僕の手首を掴んだ。「お母さんの方は……」
「介護士さんからさっきメッセージが来たよ。もう客席に着いたって」僕は小声で慰めた。「リハビリセンターがわざわざ車を出して送ってくれたんだ」
七海の目が輝いた。「本当に?彼女、何も言ってなかったのに……」
「君を驚かせたかったんだよ」僕は笑って彼女の前髪の乱れを直した。「娘の初めてのソロ公演を、自分の目で見たいってさ」
七海の唇がかすかに震え、目元が瞬時に赤くなった。彼女は慌てて顔を上げ、涙でメイクが崩れるのを防いだ。「馬鹿……そんなことされたら、もっと緊張しちゃうじゃない……」
ドアの外からスタッフのノック音が聞こえた。「姫野さん、開演三十分前です」
七海は勢いよく立ち上がり、危うく僕の顎にぶつかりそうになった。「私のギター!さっきチューニングするって言ってたのに……」
「もう済ませてあるよ」僕は彼女の落ち着かない肩を押さえた。「ジャン=リュックが直々にチェックしてくれた」
七海は瞬きをした。「あなた、いつの間に……」
「君が五回目のイヤーモニターチェックをしてる間にね」僕は彼女の顔を両手で包み込んだ。「七海、準備は万端だ。君はただ、君自身でいればいい」
七海は目を閉じ、額を僕の胸に押し当てた。「健太……もし私が失敗したら……」
「そしたら一生笑ってやるよ」僕は小声で言った。「でも、そんなことありえないって君も分かってるだろ」
七海はぷっと吹き出し、肩の緊張が少し和らいだ。彼女は突然つま先立ちになり、僕の唇にそっとキスをした。「ありがとう……今日の全てに」
そのキスは彼女のリップグロスの淡い甘い香りがして、瞬く間に過ぎ去ったが、僕の心臓は速く鼓動した。僕が何か応える前に、七海はもう化粧台の方へ駆け寄っていた。「あ!口紅、直さなきゃ!」
僕は彼女の慌ただしい様子を微笑ましく見て、ふと気づいた――舞台がどれほど大きく、観客がどれほど多くても、今の七海は、僕がよく知る、緊張してどうしていいか分からなくなる、あの女の子のままなのだと。
観客が続々と入場し、僕はステージの袖から客席が次第に埋まっていくのを見ていた。最前列のVIP席では、玲子さんが車椅子に座り、介護士がそばでクッションを調整していた。彼女の左腕は依然としてあまり動かなかったが、その眼差しは明るく、真剣に舞台を見つめていた。
照明が暗くなり、客席のざわめきが次第に静まっていった。司会者の短い紹介の後、七海はゆっくりと舞台へ歩み出た。スポットライトの下、彼女の輪郭はくっきりと柔らかかった。
「こんばんは」彼女はマイクに向かって小声で言った。その声は少し震えていた。「姫野七海です」
華やかな自己紹介も、練られたオープニングトークもなく、七海は直接ギターを抱え、最初の歌――『明けの星』を始めた。これは夜明けの歌、暗闇の後に再び見つけた光についての歌だった。
公演が進むにつれて、七海の状態はますますリラックスしていった。『漫画家さんへのラブレター』を歌う時、彼女の視線は照明を突き抜け、僕に落ちた。歌詞は顔が赤くなるほどストレートだったが、七海は非常に堂々と歌い上げ、まるで全世界に彼女の気持ちを宣言しているかのようだった。
「次の曲は……」七海はギターを置き、ピアノの前に歩み寄った。「新曲で、『回復日記』といいます」
前奏が始まり、それはシンプルながらも心を打つ旋律だった。七海が「今日、あなたはついに再び私の名前を呼んでくれた」と歌った時、客席から突然、小さな声が聞こえた。「ななみ……」
会場は一瞬静まり返った。七海の手が鍵盤の上で止まり、その視線は声の源を探していた――それは玲子さんだった。彼女は、あまり動かない右手を苦労して持ち上げ、唇を震わせて繰り返していた。「な……なみ……」
七海の涙が瞬時に決壊した。彼女は立ち上がり、マイクに向かって小声で言った。「この歌を……私の最も勇敢な母に捧げます」
彼女が再び座って歌い始めた時、その声には今までにない力が宿っていた。この歌は待つことと希望についての物語を語り、那些な些細に見えてもかけがえのない進歩を描いていた。客席では、多くの人がそっと涙を拭っていた。
公演が終わりに近づいた時、七海は突然準備していた曲目を止め、マイクに向かって言った。「実は……今夜は特別なゲストがいます」彼女の声は優しかった。「彼がいなければ、私はおそらく永遠にここで歌うことはなかったでしょう」
スポットライトが突然僕に当たり、僕はその場に固まり、どうしていいか分からなかった。七海は微笑んで続けた。「田中健太さん、ステージに上がっていただけますか?」
客席から拍手と口笛が沸き起こった。僕はどうしていいか分からず舞台へ歩み寄り、スポットライトの熱で頬が熱くなった。七海は僕にギターを差し出した。「音楽教室での最初の約束、覚えてる?」
僕はギターを受け取り、その指がかすかに震えた。「君が教えてくれるって……」
「今がその時よ」七海はいたずらっぽく瞬きをした。「簡単よ。C、G、Am、Fの四つのコードを弾くだけでいいから」
彼女は観客の方を向いた。「皆さん、私の彼氏のギターデビューを、どうか温かく見守ってあげてください」
客席から善意の笑い声が起こった。七海の指が弦をそっと滑り、『星のかけら』の前奏が始まった――あの、彼女の人生を変えた歌を。僕は不器用にリズムについていった。間違いだらけだったが、七海の歌声がその不完全さを完璧に覆い隠してくれた。
サビの部分を歌う時、七海は突然止まり、マイクに向かって言った。「この歌は……かつての私のアイドル時代の代表曲でした」彼女は深呼吸をし、「でも今夜、私は全く新しい方法でこの歌を表現したいと思います――もはや月夜七海としてではなく、私自身、姫野七海として」
彼女は再び歌い始めた。今回はテンポを落とし、技巧を簡略化し、一つ一つの言葉に感情を込めていた。彼女が「たとえ星屑になっても、あなたのために輝くから」と歌った時、七海の視線は客席の母親をかすめ、そして僕に落ちた。その目には涙が光っていた。
最後の音符が消えると、会場は一瞬静まり返り、その後、雷鳴のような拍手が沸き起こった。七海は深くお辞儀をし、汗が彼女の髪の先を額に貼り付けていた。彼女が身を起こした時、僕には彼女の目の輝きが、どんな舞台照明よりも眩しく見えた。
公演が終わった後、バックステージは祝福に駆けつけた人々でごった返していた――レコード会社の重役、メディアの記者、音楽評論家……七海は中心に囲まれ、様々な称賛や質問に礼儀正しく応対していた。僕は隅に立ち、彼女がそつなくこなす様子を見て、ふと気づいた――彼女はもはや、カメラを恐れる少女ではないのだと。
「田中さん?」背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると、玲子さんの介護士が車椅子を押してやってきた。「姫野さんがお会いしたいそうです」
玲子さんの顔色は数日前よりもずっと良く、左半分の顔にはまだ少しこわばりが残っていたが、眼差しははっきりとしていた。彼女は介護士に封筒を僕に渡すよう合図した。
「これは……?」僕は不思議に思いながら受け取った。
玲子さんはかすかに微笑み、苦労して言った。「あ……け……て……」
封筒の中には古い写真が一枚入っていた――幼い七海が舞台に立ち、可愛らしい衣装を着て、小さなマイクを手にしている。写真の裏には、色褪せたインクでこう書かれていた。「七海、初舞台、5歳、『ちいさな星の願い』を歌う」。
「あの子は小さい頃から歌うのが好きで……」玲子さんはゆっくりと言った。一言一言が、まるで全力を尽くしているかのようだった。「でも、今になってようやく……本当に自分の声で歌えるようになったのね……」
僕は慎重に写真をしまった。「おばさん、今夜は体調はいかがですか?」
玲子さんは人々に囲まれている娘に目を向け、その目には誇りが満ちていた。「満……足……」
その時、七海がついに人垣から抜け出し、小走りでやってきた。「お母さん!来てたなんて、どうして教えてくれなかったの!」彼女は車椅子の前にしゃがみ込み、母親の手を握った。「公演、どうだった?」
玲子さんはあまり動かない右手で娘の顔を優しく撫でた。「完……璧……」
七海の目元がまた赤くなった。彼女は僕の方を向き、「健太……サプライズ、手配してくれてありがとう」
「僕だけの功績じゃないよ」僕は笑って玲子さんを指さした。「お母さんが、どうしても生で見たいって言ってたんだ」
七海は母親にしっかりと抱きつき、肩をかすかに震わせた。玲子さんは娘の背中をそっと叩き、旋律を口ずさんだ――それは『星のかけら』の冒頭部分だった。
ジャン=リュックが突然ドアの前に現れた。「七海ちゃん!社長が重要なお客様に君を紹介したいそうだ……」
七海は名残惜しそうに母親から離れた。「すぐ戻るわ」彼女は立ち上がり、少し躊躇った後、突然僕の耳元で囁いた。「終わったら帰らないで……話があるの」
僕は頷き、彼女が慌ただしく去っていく後ろ姿を見つめ、心臓が理由もなく速く鼓動するのを感じた。
打ち上げは近くの高級レストランで行われた。七海は主役としてメインテーブルに座り、僕はバンドメンバーと一緒に座っていた。大輔は絶えず僕に酒を注いだ。「先輩!今夜は最高でしたよ!七海先輩の歌も、先輩のギターデビューも!」
美咲は笑って付け加えた。「客席はみんな大熱狂でした。ツイッターでは『星七カップル』がトレンド入りしてましたよ」
僕は気まずそうにビールを一杯飲み干し、視線は無意識にメインテーブルの方へ向かった。七海は社長や数人のプロデューサーに囲まれ、顔にはそつのない笑みを浮かべていたが、その視線は時折僕の方へ向けられ、何か僕には読み取れない感情を帯びていた。
宴会が半ばに差し掛かった頃、僕のスマートフォンが震えた。七海からのメッセージだった。【屋上。今すぐ。】
僕はそっと席を立ち、エレベーターでレストランの最上階へ向かった。屋上のドアを開けると、夜風が顔に吹き付け、七海が手すりの前で僕に背を向けて立っていた。街の灯りが彼女の後ろに広がっていた。
「抜け出してきたのか?」僕は彼女のそばへ歩み寄った。
七海は答えず、直接僕に封筒を差し出した。「開けてみて」
封筒の中には一枚の航空券が入っていた――パリ行き、片道、来週の水曜日の便。
「これは……」
「ジャン=リュックが私のために掴んでくれたチャンスよ」七海の声は少し震えていた。「パリのオランピア劇場での新人ショーケース……もし成功したら、ヨーロッパツアーの契約に繋がるかもしれないの」
僕の指が航空券を強く握りしめた。「そ……それはすごいな。おめでとう」
七海は僕の方を向き、夜風が彼女の髪を乱した。「でも、一つ問題があるの……少なくとも三ヶ月は離れることになるわ」
僕は深呼吸をし、無理に笑顔を作った。「ビデオ通話できるじゃないか。時差もたった七時間だし……」
「健太」七海は僕の言葉を遮った。「あなたに聞きたいの……私と一緒に行ってくれる?」
僕は呆然とした。「何だって?」
「ジャン=リュックが言ってた……あなたの漫画はどこでだって創作できるって」七海の目が夜の闇の中でキラキラと輝いていた。「それに、ヨーロッパの出版社はあなたの『守護星』にすごく興味を持ってるって……」
パリ。三ヶ月。ヨーロッパツアー。これらの言葉が僕の頭の中で爆発し、すぐには消化できなかった。
「僕は……」僕は苦労して口を開いた。「七海、これは君のチャンスだ。僕は……」
「どうしてダメなの?」七海は一歩近づいた。「締め切りのせい?家賃のせい?それとも……」彼女の声は低くなった。「あなたは根本的に、自分の居心地のいい場所から離れたくないんじゃない?」
その言葉は、まるでナイフのように僕の胸に突き刺さった。そうだ、僕は変化が怖い、未知が怖い、この慣れ親しんだ土地を離れるのが怖い。だが、それ以上に怖いのは――七海の重荷になることだった。
「僕はただ……君の足を引っ張りたくないんだ」僕は最終的に認めた。「君は音楽に集中すべきで、僕のことなんかじゃなくて……」
七海は突然僕の襟を掴み、引き寄せた。「馬鹿」彼女の声音は詰まっていた。「今夜、どうして私があなたを無理やりステージに上げたか、分かる?」
僕は首を横に振った。
「だって、私たちが初めて会った日から、あなたは私の音楽の一部だったからよ」七海の涙が月明かりの下でキラキラと光った。「あなたがいなければ、舞台に立っているのはただの抜け殻……『月夜七海』という名の幻影に過ぎないの」
夜風が彼女の髪を僕の顔に運び、懐かしいシャンプーの香りがした。遠くでは、東京タワーの灯りが雨上がりの空気の中でひときわ鮮明に見えた。
「三ヶ月……」僕は小声で言った。「パリは美しい街だね」
七海の目が輝いた。「約束してくれるの?」
「条件付きだ」僕は彼女の顔を両手で包み込んだ。「ペンタブレットは持っていくし、毎日最低四時間は仕事をする。君は恋愛でリハーサルをサボったりしちゃダメだ」
七海は涙ながらに笑った。「交渉成立ね!」彼女は僕の腕の中に飛び込んできた。「それと……明日の車、予約したの。一緒に鎌倉へ海を見に行きましょう?お母さんが、一日は自分でリハビリできるって……」
僕は彼女を強く抱きしめ、彼女の心臓の鼓動が僕のと次第に同期していくのを感じた。この都会の屋上で、星の光と街の灯りの証人のもと、僕たちはまた一つ、人生を変える決断を下した。
前途にどんな風景が待ち受けていようと、少なくともこの瞬間、僕たちは互いを、そして満天の星空を手にしていた。