第十五章 旅立ち前の嵐
七海の初のミニアルバム『平行線』が発売された日、渋谷タワーレコードのガラス張りのショーウィンドウは彼女の巨大なポスターに変わっていた。
僕は店の外の歩道に立ち、ポスターの中の七海を見上げていた――彼女はシンプルな白いシャツを着て、白黒の鍵盤を背景に立ち、その眼差しは澄みきって力強かった。ポスターの右下には、目を引くキャッチコピーが印刷されていた。「アイドルからシンガーソングライターへ、姫野七海の真実の声」。
スマートフォンが震え、七海からのメッセージが表示された。【ポスター見た?恥ずかしい……あんなに大きなサイズにするなんて!】
僕は笑って返信した。【君に似合ってるよ。今どこ?】
【会社で取材攻めにあってるの。もう五社目……喉がカラカラよ。夜に会える?】
返信しようとしたその時、背後から聞き覚えのある声がした。「これは田中先生じゃないですか?」
振り返ると、『週刊文春』の記者、佐々木が立っており、カメラはすでに胸の高さに構えられていた。僕は無意識に半歩後ずさったが、シャッター音はもう鳴っていた。
「奇遇ですね!」佐々木は職業的な笑顔を見せた。「彼女さんの応援ですか?」
僕は無理に頷き、立ち去ろうとしたが、彼は早足で追ってきた。「姫野さんが来月、小規模なツアーを始めるそうですね?彼氏として全行程に同行されるんですか?」
「すみません、取材は受け付けていません」僕は歩調を速めた。
佐々木は執拗に食い下がった。「実はあなたたちが『契約恋人』で、姫野さんのイメージチェンジのための話題作りだという噂があるんですが?」
その言葉に僕は思わず立ち止まった。佐々木のカメラがすぐに僕の表情に向けられた。「どうやら噂だったようですね?では、お二人が交際を始めた具体的な時期を教えていただけますか?彼女がグループを辞める前ですか、それとも……」
「もういい加減にしてください」僕は声を潜めた。「僕たちの関係は、あなたたちのゴシップのネタじゃありません」
佐々木は意に介さず肩をすくめた。「有名人ですからね、多少の代償はつきものです」彼は名刺を差し出した。「もし気が変わったら、いつでもご連絡ください。読者は『元アイドルの私生活』に非常に興味があるんですよ」
僕は名刺を押し返し、振り返りもせずに地下鉄の駅へ入った。電車が動き出すまで、まるで狩人に狙われたような不快感はなかなか消えなかった。
七海からまたメッセージが来た。【言い忘れてた!お母さんが今日、体調がいいから、アルバム発売のお祝いに私たちと夕食を食べたいって。七時に来れる?】
僕は時計を見た。【問題ないよ。】
電車が代々木駅を通過する時、スマートフォンが突然鳴った。発信元は七海の母親の主治医、田中医師だった。
「田中さん?」僕は電話に出た。胸騒ぎがした。
「突然のご連絡で申し訳ありません」医師の声は職業的な落ち着きを保っていた。「姫野さんが先ほど、一時的な意識混濁と言語障害を起こされました。軽い脳梗塞の再発が疑われます……」
僕の指がスマートフォンを強く握りしめた。「今の状況はどうなんですか?」
「すでに安定していますが、娘さんに会いたいと強くおっしゃっています。姫野さんの今日のスケジュールを考えると……」
「すぐに七海に知らせます」僕は彼の言葉を遮った。「お母さんが危篤だとは伝えないでください」
電話を切り、僕はすぐに七海の番号にかけた。七、八回コールした後、電話に出たのは彼女のマネージャーの高橋だった。
「田中さん?七海は今、『ローリング・ストーン』の独占インタビュー中です。何かご用件ですか?」
「彼女のお母さんが入院しました」僕は簡潔に言った。「すぐに彼女に来てもらう必要があります」
高橋は数秒間黙り込んだ。「……今出ると、残りの三社のメディア取材が全てキャンセルになります。アルバム初日のプロモーションが……」
「彼女のお母さんが脳卒中かもしれないんですよ!」僕はほとんど叫び出し、車内の数人から訝しげな視線を浴びた。
高橋はため息をついた。「分かりました。でも、七海に伝えてください。今夜八時のNHKのラジオ生放送は非常に重要で、社長が直々に手配したものだと……」
僕は彼が言い終わる前に電話を切った。三駅後、僕は地下鉄を飛び出し、タクシーを拾って七海の会社へ直行した。
ルナ・レコードの受付は僕のことを覚えていたが、それでも礼儀正しく行く手を遮った。「申し訳ありません、田中さん、七海さんはただいま……」
「どいてください」僕の声は大きくなかったが、その口調に彼女は半歩後ずさった。「彼女のお母さんが病院で、危ない状態なんです」
受付係は少し躊躇った後、内線電話を取った。数分後、エレベーターのドアが開き、七海と高橋が早足で出てきた。七海の顔には完璧なメイクが施されていたが、その眼差しは動揺していた。
「健太、お母さんが……」
「今すぐ病院へ行こう」僕は彼女の手を引いた。「田中先生が、容体は安定してるけど、家族がそばにいる必要があるって言ってた」
高橋が隣で軽く咳払いをした。「七海、八時のNHKのことを忘れるなよ……」
七海は激しく振り返った。「高橋さん!それは私の母ですよ!」
高橋は両手を挙げた。「分かっている。ただ、社長が特に指示したことを君に思い出させているだけだ……」
「時間通りに行きます」七海は彼の言葉を遮った。その声は震えていたが、断固としていた。「でも今は、母に会いに行かせてください」
タクシーの中で、七海はスマートフォンを強く握りしめ、指の関節が白くなっていた。僕は彼女の肩を抱き、その体がかすかに震えているのを感じた。
「大丈夫だよ」僕は小声で慰めた。「前回も、ちゃんと回復したじゃないか」
七海は首を横に振った。「違うの……今回は突然の発作だったの」彼女の声は詰まっていた。「朝、電話で話した時は元気だったのに……私の大好物のビーフシチューを作ってくれるって言ってたのに……」
病院の廊下は記憶よりも長く感じられた。僕たちは早足で病室へ向かったが、角を曲がったところで看護師に呼び止められた。
「姫野さん?」看護師は声を潜めた。「お母様は先ほどお休みになりました。もう少し待ってからお入りください」
七海は唇を噛みしめた。「お母さんは……容体はどうなんですか?」
「CT検査では広範囲の出血は見られませんでしたが、左半身の運動に少し障害が出ています」看護師はカルテを差し出した。「言語機能への影響が大きく、現在は簡単な単語しか話せない状態です」
七海はカルテを受け取り、その指がかすかに震えた。僕は彼女の後ろに立ち、診断書に書かれた「脳梗塞再発」という刺すような黒い文字を見た。
「治……治りますか?」七海の声はほとんど聞こえなかった。
「リハビリが重要になります」看護師は婉曲に言った。「でも、ご存知の通り、このような再発の場合は……」
彼女は言い終えなかったが、その意味は明らかだった。七海の肩ががっくりと落ち、まるで全ての力を奪われたかのようだった。
「少しだけ……顔を見に行ってもいいですか」七海は小声で言った。「起こさないようにしますから……」
看護師は少し躊躇った後、頷いた。七海はそっと病室のドアを開け、僕は廊下で待つことにした。
ドアの小窓から、七海が母親のベッドのそばに跪き、肩をかすかに震わせているのが見えた。玲子さんは静かに眠っており、左半分の顔が少し垂れ下がり、呼吸は穏やかだが重苦しかった。
二十分後、七海は赤い目をして出てきた。その手には一枚のメモが握られていた。
「お母さん、少しだけ目を覚ましたの……」彼女は僕にメモを差し出した。「これを私に書いてくれたの」
メモの文字は歪んでおり、まるで全力を尽くしてようやく書けたかのようだった。【仕事へ行きなさい。待ってるわ。】
「NHKの生放送に出るようにって、強く言うの」七海の声音は途切れ途切れだった。「明明、まともに話せないのに、まだ……」
僕は彼女を抱きしめ、熱い涙が僕のシャツを濡らすのを感じた。「どうしたい?」
七海は僕の胸に寄りかかり、長い間黙り込んでいた。「分からない……先生が、できるだけ早くリハビリを始める必要があるって……でも、ツアーは来月から始まるし、アルバムのプロモーションも……」
彼女の声は次第に小さくなり、最終的には声にならない嗚咽に変わった。僕はそっと彼女の背中を撫でたが、どう慰めていいか分からなかった。これは七海が初めて直面する、仕事と親情の直接的な衝突であり、完璧な答えなどなかった。
「七海」僕はついに口を開いた。「君がどんな決断をしようと、僕は応援するよ」
七海は顔を上げ、涙で潤んだ目で言った。「もし……もし私がツアーを延期したら?」
「じゃあ、延期しよう」
「でも、バンドも会場も、宣伝も全部手配済みよ……」七海は首を横に振った。「それに、ジャン=リュックもわざわざフランスから来てくれてるのに……」
僕は彼女の顔を両手で包み込んだ。「七海、聞いて。これは君の選択だ。会社のでも、バンドのでも、ジャン=リュックのでもない」
七海は深呼吸をし、突然スマートフォンを取り出して高橋に電話をかけた。「高橋さん、今夜のNHKの件ですが……」彼女の声音は驚くほど穏やかだった。「申し訳ありませんが、母の容体が安定するまで、全てのスケジュールをキャンセルさせていただきます」
電話の向こうから高橋の興奮した声が聞こえてきた。たとえ少し離れていてもはっきりと聞き取れた。七海の表情は次第に固くなっていった。「はい、ツアーも含めて……いいえ、違約金は気にしません……はい、そういうことです」
彼女は電話を切り、肩の力が抜けたようだった。「私、やったわ」
僕は彼女を強く抱きしめた。「お母さんも理解してくれるよ」
七海は首を横に振った。「理解してもらう必要はないの。これは私自身の決断だから」彼女は涙を拭い、「今、お母さんにこの良い知らせを伝えに行かなきゃ」
その時、病室のドアが突然開いた。看護師が慌てて出てきた。「姫野さん!お母様の血圧が急に上昇して、先生が今……」
七海の顔色が瞬時に真っ白になり、病室へ駆け込んだ。僕は後を追った。玲子さんが苦しそうに眉をひそめ、モニターの数字が狂ったように跳ね上がっているのが見えた。医師と看護師がベッドの周りに集まり、素早く点滴と酸素を調整していた。
「お母さん!」七海は母親の手を掴んだ。
玲子さんはかすかに目を開け、唇が震え、何かを言いたそうにしていた。七海は身をかがめ、母親の唇に耳を寄せた。
数秒後、七海は身を起こし、その目には衝撃の色が浮かんでいた。彼女は僕の方を向き、「お母さん……『ツアーを諦めるな』って……」
医師が僕たちに下がるよう合図し、緊急処置を始めた。七海はその場に呆然と立ち尽くし、手の中のメモが床にひらりと落ちた。僕はそれを拾い上げ、裏にもっと乱雑な文字で一行書かれているのを見た。【私の夢はもう叶ったわ。あなたの夢を追いなさい。】
モニターの警報音が次第に静まり、玲子さんの血圧は安定した。医師は安堵のため息をついた。「一時的に大丈夫です。でも、安静にしてください」
七海はベッドのそばに跪き、そっと母親の手を握った。「お母さん……私……」
玲子さんは弱々しく娘の指を握り返し、口元を努力して歪め、不格好ながらも温かい微笑みを見せた。
夕方、七海は病室の外の長椅子に座り、届いたばかりのアルバムのサンプル盤を手にしていた。表紙の彼女は自信に満ちた笑顔を浮かべており、今の疲れた彼女とはまるで別人だった。
「私、どうすればいいんだろう……」彼女は小声で尋ねた。それはむしろ自分自身に問いかけているようだった。
僕は彼女の隣に座った。「正しいも間違いもない。君にしかできない選択だよ」
七海はアルバムのページを開き、歌詞カードを見つめた。「この歌……どの曲も選択と成長について歌ってる」彼女は苦笑した。「まさか試練がこんなに早く来るなんて思わなかった」
廊下の突き当たりから、高橋とルナ・レコードの社長が早足でやってきた。社長は五十代半ばで、スーツをきっちりと着こなし、表情は厳しかった。
「七海くん」社長は開口一番言った。「君の状況は理解しているが、ツアーを延期すれば莫大な損失が出る。会社は君のお母さんのために最高の介護士を24時間体制で手配することもできる……」
七海は顔を上げた。「社長、母は先ほど危うく……」
「分かっている、分かっている」社長は彼女の言葉を遮った。「だが、考えてもみたかね、君のお母さんが一番見たいものは何かを」彼はアルバムを指さした。「君の成功だよ。彼女は君を音楽家として育てた。重要な時に君が諦めるのを見るためじゃない」
七海の指がアルバムの端を強く握りしめた。社長は畳み掛けた。「妥協案がある――東京と大阪の公演は残し、他は延期する。そうすれば君は毎週お母さんの見舞いに帰ってこれる」
高橋が隣で付け加えた。「NHKの生放送もまだ間に合います。電話での出演に切り替えて……」
僕は七海の表情が確固たるものから次第に揺らいでいくのを見ていた。社長の一言一言が、彼女の弱点を正確に突いていた――母親への罪悪感、音楽への執着、約束の重視。
「一晩、考えさせてください」七海は最終的に言った。
社長は頷いた。「明日の朝十時までに決めなければならない。さもなければ、会場の予約金が全て無駄になる」彼は僕の方を向き、「田中さん、七海くんにとって最も親しい人として、君も彼女の将来を考えてあげてほしい」
彼らが去った後、七海は顔を両手で覆った。「彼は、私のお母さんへの罪悪感を利用してる……」
「でも、君も彼の提案を考えているんだろう」僕は小声で指摘した。
七海は顔を上げ、その目には苦痛の光が揺らめいていた。「だって……彼の言う通りだもの。お母さんはきっと、私が諦めることを望んでない」彼女は僕の手を掴んだ。「健太、もしあなただったら……」
「僕は君の代わりに決断はしないよ」僕は力強く言った。「これは漫画の筋書きじゃない。あらかじめ用意された正解なんてないんだ」
夜の帳が下り、七海は病院で夜を明かすと言い張った。僕がコンビニでサンドイッチとコーヒーを買って戻ると、彼女は母親のベッドのそばでうつ伏せになって眠っており、その手にはまだあのメモがしっかりと握られていた。
玲子さんは目を覚ましており、僕が入ってくるのを見ると、かすかに頷いて合図した。彼女の左の顔は依然として少しこわばっていたが、眼差しはずっとはっきりとしていた。
「おばさん……」僕は小声で挨拶し、温かいお茶を差し出した。
玲子さんは震える右手で、眠っている七海を指さし、そして廊下の外を指さした。僕は彼女が二人きりで話したいのだと理解し、慎重に車椅子を彼女のそばへ押した。
廊下の突き当たりの休憩エリアで、玲子さんは震える手で筆談ボードにゆっくりと文字を書いた。【彼女は行くべきよ。】
「本当ですか?」僕は小声で尋ねた。「七海は、おばさんのことをとても心配しています」
玲子さんは書き続けた。【私の病気はすぐには良くならないわ。彼女のチャンスはもう二度と来ないかもしれない。】
月明かりが窓から差し込み、筆談ボードの上の、歪んでいるが力強い文字を照らし出した。玲子さんはさらに書いた。【私を助けて、彼女を説得して。彼女はあなたの言うことを聞くわ。】
僕は首を横に振った。「それは僕が決めることではありません。七海自身が選ぶ必要があります」
玲子さんは僕を長い間見つめ、突然理解したような微笑みを見せた。彼女はゆっくりと最後の一行を書いた。【だからこそ、あなたは彼女に必要な人なのね。】
病室に戻ると、七海はもう目を覚ましており、母親の枕を直しているところだった。僕たちを見ると、彼女は無理に微笑んだ。「お母さん、もう休んだ方がいいわ」
玲子さんは娘の手を握り、苦労していくつかの音節を口にした。「行……歌……て……」
七海の目に涙が瞬時に溢れた。「でも……」
玲子さんは首を横に振り、ベッドサイドテーブルの上のアルバムを指さし、そして窓の外を指さした――そこには、一輪の明るい月が高く空にかかり、周りには無数の星が輝いていた。
僕はふと玲子さんの意図を理解した。七海がどちらの道を選ぼうと、それはまるで星がそれぞれの軌道に沿って運行するようなものなのだ。絶対的な正しさも間違いもなく、ただ異なる輝きがあるだけなのだ。
七海は母親の膝に顔をうずめ、肩をかすかに震わせた。玲子さんは娘の髪を優しく撫で、途切れ途切れながらも優しい旋律を口ずさんだ――それは『星のかけら』の冒頭部分だった。
この静かな病室で、月光と星明かりの証人のもと、一曲の歌が三世代にわたる人々の夢と選択を結びつけた。そして明日、七海は人生で最も重要な決断の一つを下すだろう――母親のためでも、会社のためでもなく、ただ彼女自身のために。