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第十四章 レコーディングスタジオの日々と夜


ルナ・レコードのレコーディングスタジオは、東京・渋谷の目立たない古いビルの最上階にあった。七月の陽の光が大きな窓から容赦なく差し込み、コントロール卓のボタンを金色の縁取りで照らしていた。僕は隅のソファに座り、ガラスの向こう側の七海を見ていた――彼女は大きなモニターヘッドフォンをつけ、楽譜に向かって最終調整をしているところだった。


「もう一度、サビから始めよう」ジャン=リュックの声がスピーカーから聞こえてきた。フランス語訛りの強い英語だった。「今回はテクニックを忘れて、歌詞だけを感じてみて」


七海は頷き、目を閉じた。前奏が始まり、彼女の指が無意識にマイクスタンドを軽く叩いてリズムを取っていた。「見えない遠くで、私たちの軌跡はとっくに交差していた」と歌った時、彼女の声がかすかに詰まった。


「ストップ」ジャン=リュックが通話ボタンを押した。「七海ちゃん、集中力が途切れてるよ」


七海は目を開け、その視線はガラスを通り抜け、僕のところに落ちた。「ごめんなさい……十分休憩してもいいですか?」


ジャン=リュックは彼女の視線を追い、僕の方を見て、はっとしたように言った。「Ah, je comprends!(ああ、分かったよ!)」彼は大げさな降参のジェスチャーをした。「若者たちよ、行ってきなさい!でも、十分だけだよ!」


七海は顔を赤らめてレコーディングブースから飛び出し、僕の隣に座った。額には細かな汗が滲んでいた。


「うまくいかない?」僕は水筒を渡した。


彼女は首を横に振り、一気に半分ほど飲んだ。「うまくいかないんじゃなくて……うまくいきすぎてるの」彼女は唇を噛みしめた。「ジャン=リュックが、私の声には『リアリティ』があるって言うんだけど……」


「だけど、何?」


「だけど、あの歌詞……」七海の声は次第に小さくなっていった。「全部あなたのために書いたものなの。こんなに大勢の人の前で歌うなんて、まるで……」


「公開処刑?」僕はからかった。


七海は楽譜で僕の腕を叩いた。「真面目な話をしてるのよ!」彼女は深呼吸をした。「昔アイドルだった頃は、会社からもらった歌を歌ってたから、感情は偽装できた。でも今は……」


今、彼女は自分の物語、自分の感情を歌っており、プロの音楽家たちの厳しい視線に、ありのままを晒していた。その脆さが、彼女をどうしようもなくさせていた。


僕は彼女の手を握った。「じゃあ、僕だけに歌うつもりで。ブルーノートの時のようにね」


七海の指が僕の手のひらでかすかに震えた。「でも、今回は正式なレコーディングなの……アルバムに入れるんだから……」


「それがどうしたんだ?」僕は小声で言った。「本当の感情こそが最高の音楽じゃないのか?」


七海は一瞬言葉を失い、それから突然近づいて僕の頬にキスをした。「時々、本当に疑っちゃうわ……あなたはこっそり何か口説き文句の訓練でも受けたんじゃないかって」


「独学だよ」僕は彼女の耳の先が赤くなるのを見ながら笑った。「あと八分だ」


七海はすぐに立ち上がった。「お手洗いに行ってこなきゃ!」


彼女が慌てて去っていく後ろ姿を見ながら、ジャン=リュックが僕のそばへぶらぶらとやってきて、コーヒーを差し出した。「Elle est incroyable.(彼女は信じられないほど素晴らしい)」


僕はコーヒーを受け取ったが、どう答えていいか分からなかった。ジャン=リュックは続けた。「ほとんどの歌手は『声』を見つけるのに数ヶ月かかるのに、彼女はたった三日でそれを見つけた」彼はコーヒーを一口すすり、「だが、問題もそこにある……彼女は本当の感情をさらけ出すことをあまりにも恐れている」


「アイドルの訓練のせいです」僕は説明した。「五年もの間、彼女は全てを隠すことを学んできたんです」


「Vous êtes sa clé.(君が彼女の鍵だ)」ジャン=リュックは意味深長に言った。「あの歌詞……彼女は君を見ている時が一番上手に歌えるんだ」


僕の耳が熱くなった。ジャン=リュックは大きな声で笑い、僕の肩を叩いた。「心配するな、君を一日中レコーディングスタジオに閉じ込めておくつもりはないよ……もっとも、そうすれば確かに効率は上がるだろうがね」


七海が戻ってくると、レコーディングの進捗は飛躍的に向上した。ジャン=リュックが言った通り、彼女がテクニックを忘れ、表現することだけに集中すると、その声はかえって信じられないほどの感染力を持った。僕はコントロールルームで、その魔法のような過程の一部始終を見守った――一曲の歌が、未熟さから完璧さへ、技術から魂へと変貌していく様を。


「最後のトラックだ!」夕方六時、レコーディングエンジニアが宣言した。「『漫画家さんへのラブレター』、テイク12!」


七海は深呼吸をし、その視線はガラスを通り抜け僕をまっすぐに見つめた。前奏が始まり、今回彼女は楽譜を見ず、目を閉じて、何かを思い出しているかのようだった。彼女が「電車であなたの肩に寄りかかって眠った午後」と歌った時、口元がかすかに綻び、「あなたが病気の時に私が作ったあの不味いお粥」と歌った時、コントロールルームにいた全員が笑った。


最後の音符が消えると、レコーディングスタジオは数秒間静まり返った。ジャン=リュックが最初に沈黙を破った。「Parfait!(完璧だ!)」彼は興奮して手足をばたつかせた。「これこそ音楽だ!これこそ芸術だ!」


七海は安堵したようにヘッドフォンを外し、額と首筋には汗がびっしょりとかいていたが、その目は驚くほど輝いていた。彼女はレコーディングブースから飛び出し、まっすぐ僕の腕の中に飛び込んできた。「やったわ!」


僕は彼女の髪から漂う、汗の匂いと混じり合った淡いシャンプーの香りを感じた。それはとてもリアルで鮮やかだった。この瞬間の七海は、舞台で光り輝く彼女とはまるで別人だった――ただ、挑戦を終えて興奮している普通の女の子だった。


「おめでとう」僕はそっと彼女の髪の先にキスをした。「未来のシンガーソングライターさん」


七海は顔を上げ、その目には複雑な感情が揺らめいていた。「ありがとう……今日の全てに」


レコーディングスタジオを出る頃には、夕陽が渋谷全体を金色に染めていた。七海は突然立ち止まり、空を指さした。「見て、金星が出てる」


僕は彼女の指さす方を見上げた。夕暮れの空に、一番星がすでに輝き始めていた。


「知ってる?」七海は小声で言った。「日本では『明けの明星』って呼ばれるけど、西洋では……」


Venusヴィーナス、愛と美の女神だね」僕は彼女の言葉に続けた。


七海は驚いて瞬きをした。「いつそんなこと勉強したの?」


「ある漫画家が、キャラクターの星空の背景を描くために、一晩中天文学の知識を詰め込んだんだよ」僕は笑って認めた。


七海は僕の手を軽く握った。「じゃあ、金星にはもう一つ名前があるって知ってる?」


「何?」


「明けの明星よ」彼女の声は優しく、しかし力強かった。「だって、いつも一番暗い時に現れて、夜明けの到来を告げるんだから」


僕は呆然とし、突然彼女が何を言いたいのかを理解した――未来がどれほど不確かであろうと、僕たちは互いの明けの明星になるのだと。


帰りの電車の中で、七海は僕の肩に寄りかかって眠っていた。その手には、今日のレコーディングのデモ音源がまだしっかりと握られていた。窓の外では、東京の灯りが星の川のように流れていた。僕はそっと体勢を整え、彼女がもっと心地よく眠れるようにし、心の中で密かに一つの決意をした。

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