序章
「あれ、森下じゃん?」
「お、田中か。久しぶり」
「どうしたんだよ、大学行くのか?」
「見て分かんだろ」
「そっかそっか。で、大学はどこの?」
「それは……」
俺は言いたくなかった。辛うじて合格したのは、学費が二万円以上もする、ごく普通の私立大学だなんて。
「まあ、それはいいとして、お前まだ月夜七海追っかけてんの?」
「その話はやめろ」
月夜七海は、俺が高校時代に一番好きだった人気アイドルだ。でも、今はもう好きじゃない。
理由は単純。高校の時に月夜七海に夢中になりすぎたせいで、ろくに勉強もしなかった。その結果、今の俺は、こんなごく普通の学費の高い私立大学にしか入れなかったからだ。
「そっか、もう時間ねぇな。お前も早く行けよ、電車乗り遅れるぞ」
「あ、やべ、忘れてた。じゃあな」
くそっ、間に合った。危うく大学初日から遅刻するところだった。
「すみません!」
どうやら他にもギリギリで駆け込んできた人がいるらしい。それにしても、この澄んだ女の子の声、どこかで聴いたことがあるような……高校三年生の時にずっと聴いていたような、とにかく、すごく聞き覚えのある声だ。
いや、まさか、な?
そんな期待と不安がないまぜになった気持ちを抱えながら、俺は好奇心に駆られてそちらを見てしまった。
嘘だろ。本当に月夜七海だった。
普段のライブ衣装とは違う、普通の服装だったけど、これだけ長い期間、彼女を追っかけていた俺が間違えるはずがない。
彼女もスーツケース持ってるってことは、大学に行くのか?
いや待て、月夜七海って大学生だったか?
まずい。俺の記憶、相当混乱してるぞ。かつて一番好きだったアイドルの個人情報すら忘れてるなんて。
いや、別に大学生だったとして、それがどうした。
この電車の行き先には、大学なんて山ほどあるんだ。まさか、同じ大学ってことはないだろ。
それに月夜七海の成績はすごく高いはずだ。まさか、俺と同じ、学費が二万円以上もする普通の私立大学になんて……来るわけないよな?
しかし、現実は残酷だった。
俺と、かつて一番好きだった人気アイドルは、今、他の新入生たちと一緒に、これから四年間通うことになる大学の門へと向かっていた。