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君は知らないままでいて

作者: 花楓


長い髪を持ち上げて、背中に付けられた大きな傷を鏡に写した。


おびただしい血を滲ませて赤く染まった包帯はもう使い物にならない。

些か乱暴な手つきで取り去ると、白い背中にぱっくりと裂けた傷が姿を表した。肌の裂け目部分に通された糸が寸分の狂いもなく藍真の傷跡を縫い止めているが、それでもまだちらりと見える生身の自分の肉。


そうして初めて自分が大怪我をしたことを自覚した。痛みも感じる。動く度にずくずくと肉が蠢くような感覚で、剥き出しの神経の束を擦られているかのようだった。

新品のガーゼと包帯を取り出し器用に傷を隠していく。


しかし、藍真は思う。


どうでもいい。


藍真は至って冷静である。

もう任務から帰還して丸1日以上は経っているので、正常な思考はできているはずだ。


帰還する為に用意された船の中での記憶は朧気だ。正直自分が何をしていたのかも覚えていない。

ただ一つ、この世でたった一つの小さな体のぬくもりが失われないようにと必死にこの腕にかき抱いたことだけは、今でも鮮明に思い出せた。


「………ヘーシオ」


少女の名前を口にする。


止められなかった。

飛び立って意思天体に襲いかかる彼女を止められなかった。

意思天体は彼女一人で相手にできる訳がないとわかっていたのに。

地上で呼び掛けても必死に手を伸ばしても、彼女には届かなかった。


その結果、ヘーシオは箒鳥座の地上からの攻撃にて小さな体を貫かれた。


墜ちる。


その体が地面に叩きつけられるのを防ぐ為に鞭を投げ出し、背中の痛みに耐えながら彼女と地面の間に己の体を滑り込ませて受け止めた。

ぬるついた生暖かい彼女の血が、藍真の手を染め上げていく。


半狂乱になりながら、それでも腕の中にいるこの小さな命の灯火が消えないように彼女の名前を叫び続けた。


僅かに残っていた理性が藍真の頭の片隅で囁く。


一蓮托星。


気づけばヘーシオに一蓮托星をしようと提案していた。

これが彼女の命を繋ぎ止める唯一の方法だと、藍真は藁にも縋る思いでヘーシオの唇に己の眦を近づけて涙を吸わせた。

そして最後の理性を振り絞って、彼女の持つ星の力を使って傷を塞いだのだ。

藍真に手にあったのは黄金の林檎。

見よう見まねではあったが、何とか成功してよかったと、心底ほっとした。


はっきり思い出せるのはそこまでだった。


彼女は現在病室にいる。

傷は藍真が塞いだものの、血液が大量に失われていた為、問答無用でフートラム天文台の医療病室に押し込まれた。すぐに集中治療へとまわされたので、幸い命に別状はなかった。


藍真はというと、帰還後、治療の為にとヘーシオを職員に腕から取り上げられた時に暴れだしていたらしい。

おおよそ人間の言語ではない言葉で叫び続け、ヘーシオを奪い返そうと医療班をなぎ倒していたそうだ。

あまりの暴れっぷりに藍真は職員に取り押さえられ、鎮静剤を何本か投与されたとか。

曖昧なのは藍真にその記憶がないからである。


実際意識が戻ったら病室のベッドの上で拘束具をつけられて寝かされていた。

さらに眠らされている間にこれ幸いと背中の傷も手当てされており、藍真は嘆息した。


藍真の退院が認められ、真っ先にヘーシオの元へと面会に行ったのだが、職員に怯えられながらまだ面会謝絶だと追い返され、渋々此度は事務所に戻ってきたのである。


たった1日の任務だったが、まるで長期間の任務に当たっていたような錯覚に陥る。

カレンダーと時計を確認する。

あの任務が終了してから、まだ2日しか経過していなかった。


聞くところによると、今回の捕縛任務であるが、死闘の末、無事成功。捕獲対象は生きたまま捕獲され、研究にまわされるそうだ。


どうでもいい。


任務に赴いた職員たちは、肉体のみならず、精神的にも深い傷を負った。

半狂乱になりながら震える者、痛みに顔を歪めながら手当てをされる者、苦悶の表情を浮かべながら途方もない医療行為に追われる者。


どうでもいい。

どうでもいい。

どうでもいい。


「どうでもいいんだ。君以外どうでも。」


鏡の中に写った自分もそう呟いた。


本心だった。


ヘーシオに出会って、彼女に全て捧げると勝手に誓った日から、藍真は変わった。

博愛の心はただ一人の執着に。

菩薩のようだと称され、人々に安心を与える笑顔はいつしか彼女に向ける黒い澱みのような想いを隠すための能面に。


「ヘーシオ………エンジェル・ラダー………」


彼女の名前を呼ぶ。

応える者はいない。

それでも藍真にとっては世界一大切な音の響きであることに間違いなかった。


「愛してる、君を愛してる」


彼女に伝えまいと隠していた本当の言葉がぼろりと溢れ出た。


藍真の世界にはたった一人、ヘーシオがいればそれでいい。

彼女が生きて、笑って、幸せになれる世界。それが藍真の求める世界の在り方だ。

故に藍真は何もかも捨てられる。彼女以外のものは藍真は捨てることができた。自分の命でさえも、藍真は捨てられる。


だからこそ、藍真はヘーシオをここから連れ出したいと考えていた。


意思天体との戦闘で君が傷つくくらいなら、こんなところすぐに飛び出して、君が傷つかないところへ連れ出したい。

違う国に住んでもいい。旅をするのもいい。

君が幸せに生きられる世界に。


しかし、現実には叶わないことを知っている。


彼女の周りにはたくさんの人がいる。

彼女にとって大事な人が。

その縁を無理矢理引きちぎってまで、ヘーシオを連れ出すことは、藍真にはできない。


彼女が大切にしているものを傷つけることは藍真の本意ではない。たくさんの人に囲まれて幸せそうにしている彼女のあの笑顔を曇らせることは藍真の願いではない。


ならばどうすればいい。


答えは一つだった。


洗面台に備え付けられたハサミを取り出す。


治療の為にと背中に張り付いた髪の毛を取るために幾分かすかれてしまった自分の長い髪を乱暴につかむ。

頭上高くに結わないと引きずってしまう長い髪だ。


ざくり。


刃が藍真の艶のある髪を裁断した。


ざくり、ざくり、ざくり。


一定のリズムで切られていく髪は無慈悲にもそのままべしゃりと床へ落ちていく。


丁度背中の傷が隠れる長さまで毛先が来たことを確認すると、藍真は床に落ちた髪を拾い上げてゴミ袋へと投げ入れた。


洗面台から出て、ソファに投げ出された紙袋を掴んで中に入っていたものも広げた。


真っ白な外套。ブルーグリーンの鮮やかなアオザイ。

どちらも背中側が裂かれて、布は血を吸って大部分が赤黒く変色していた。


ざくり。


手に持ったままだったハサミを、今度は自分の洋服へ入れた。


小さく切り刻んで、硬いところは手で引き裂いて。

残骸と化した布と今まで自分が嵌めていた革の手袋も先程のゴミ袋へまとめて放り込む。


クローゼットを開いて取り出したのはクラシックブラックのドルマンスリーブシャツ。

その上からブラックのケープスリーブのジャケットを羽織る。スキニーとストレッチブーツを身につけて、最後に髪を結い上げる。

高さはいつも通り、しかし毛先は肩の辺りでゆらゆらと踊っていた。


ふと、裁判官時代を思い出した。

黒一色に揃えられたあの姿。

何者にも染まらない、黒。

己の信念を貫き通す為に纏う黒は、藍真の決意を確固たるモノにしていく。


「ヘーシオ、愛してる。この世でたった一人、俺のこの悠久の生命の中でたった一人。俺の一等星。だから俺は君の理想の主人になる。文字通り完璧な主人に。俺の全てをかけて君を守るよ。」


いつもの穏やかな笑みを浮かべる。

おぞましい修羅の如し激しい想いを悟られぬように。

誰もが見惚れるような慈愛の微笑を浮かべて、藍真は自分から切り離した残骸の入ったゴミ袋を掴み、事務所の外に配置されている廃棄物置き場へと押し込んだ。


君は何も知らないままでいて。

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