心の脆さ
── 6月7日 6時10分 橘柊和 ──
夢を見た。
思い出したくもない昔の記憶。
前に見た夢より少し後。
当時は母と私、護の三人暮らし。
お父さんを失い、保険金などで家計はまだ余裕があったけど、それでも専業主婦だった母は職に就き、毎日病的なまでに仕事に精を出していた。
心配はしたけど、その時点では特に問題はなかった。
私もその頃には既に一人で料理くらい作れたし、護も五年生で軽い手伝いは出来るくらいに成長していた。
家の事は私と護で支えられたし、表面上は仲良しの家族、そんな調子で毎日過ごしていた。
母の様子がおかしくなったのは、父の死から半年ほど経ってからだった。
──ある日、母が護を突き飛ばした。
……と言っても、階段などの高所からではなく、その時住んでいた家の一室での事。
護が何かしたわけではなかった。
母を驚かそうと悪戯したり、怒らせるような悪いことをしたわけでもない。
ただ、いつも通りの日常の一幕。
私と話していたところを唐突に、横からドンッと。
その時は私も護も何が何だかわからなくて、急いで泣きそうになってしまった護を庇い、自分でも何をしたのか分かってなさそうな具合に茫然としていた母に対して、動揺と怒りのままに問いかけた。
けど、その時は母は言い訳をぶつぶつ呟くだけで、私もこちらを睨んだ後にその場を去ろうとする母の後を追えるほど強くなくて。
後日、このままじゃダメだと思い直した私が再度母に強く問い詰めると、その日はしっかりと、激しく怒りを言葉にされた。
『あなた達が、いつまでも子供のままだからっ‼ 姉弟で好きとか……いつまでも子供っぽいこと言わないでよ‼』
それを聞いたとき私は、母はどうしようもなく疲れてしまったのだと、そう思った。
母一人に子二人、そんな環境でも幼稚なままに見える私達にイラついたのではなくて母を憔悴させたのはもっと他の理由で……そして、その理由こそ、私の想いにあるのだと、肌で感じて。
後々になって、母の日記を見つけた私は、それが当たらずとも遠からずだと知ってしまった。
そして知ってしまったから、自分の幼稚さを許せなくなった。
当時の私は理不尽な加害者だった母に逆上されたことに憤るばかりで、むしろ『私が護を守らなければ』と使命感さえ覚えて……結局私は言われた通りに変わろうとすることなく、護の事を想い続け──
その結果、最終的に母は壊れ切ってしまった。
私の過ちが、母を寝たきりの状態にまで追い込んだ。
まあ、それでも母のしたことは許されることじゃないし、全部が全部私のせいだとは言わないけど。
あの人は私達のバカさ加減に呆れたわけじゃなかった。
子供の育児に疲れておかしくなるような人じゃなかった。
ただ、私たちが──ように──えて、──て仕方なくて。
そんな自分を気持ち悪いと思う嫌悪と、どうしても堪えきれない──で心がぐちゃぐちゃになって、それなのに私たちは最後まで変わらず──のように──……。
……母が壊れていった理由を知って私は、自分の想いがあってはならない、到底許されないものだと刻み込まれた。
救えるはずだった、もっと母の事を見て理解しようとしていたらあんなことにはならなかった。
でも、現実にはそうできなかった。
結果私は、色々なものが怖くなってしまった。
護を過剰に心配するようになったし、他人のストレスに敏感になった。
面倒ごとは避けたいから距離を取らなくてはと思いつつ、誰かが困っていたら手を貸さずにはいられなくなった。
だって、そうしないと母のように壊れてしまうかもしれないから。
周りの誰かが壊れてしまうことが、自分なら助けられたのにと、そう再び思ってしまうのが怖くてたまらなくなってしまったから……。
私の火傷は、護を守った誇りの傷であると同時に、私の罪の証でもある。
鏡を見るたび、刷り込まれる。
私の想いはあってはならないものだって。
最近の私は、それを忘れかけている。
姉弟のラインを踏みつけて、あろうことかその一線を超えることを望んでいる。
先日飛鳥さんに言われてぞっとした言葉を思い出した。
また私は、母を追い詰めたあの時を繰り返している。
よりによって『姉弟なのに夫婦に見える』なんて、二度と思われちゃダメなのに。
私と護は姉弟だ、この前宣言して見せたとおり。
私は護のお姉ちゃんだ。
これまでも……これからも……!
──…………。
目が覚めた。
護に起こされることもなく独りでに。
けど、だからこそそういう時は最悪の目覚めだ。
夢の内容はしっかりと憶えていた。
忘れたくても忘れられない、そんな私にとって沢山ある負の記憶の一つ。
夢でも私の体はしっかりと拒否反応を示していた。
まだ暑いわけでもないのに寝汗がびっしょりだ。
時計を見ると6時15分。
二度寝という気分でもなければ、すっきりと目が覚めたわけでもない気持ちの悪い最悪なコンディション。
いつも通りなら護は起きてる。
けど、今顔を合わせて話をするにはちょっと嫌な夢を見すぎてしまった。
万が一にも影響は与えたくない。
……着替えがてら、ちょっと外を歩いてこよう。
久しぶりに早朝の散歩だ。
晴れた早朝の澄んだ空気は、気分転換にもってこいだからね……。
──…………。
散歩の道中、偶然にも加賀さんを見かけた。
彼女とは偶然が本当に多い、そのどれもが見られたくないところを見られるシチュエーションばかりなのであまり嬉しくはないんだけど。
けど、今回はどうやらそれも逆なのかもしれない。
何があったのかは知らないけど、加賀さんはいつもと違って俯きながらトボトボと歩いて……いや、そんなマヌケな感じではない。
もっと、悲惨な……死人の様な生気の感じられない歩き方だ。
あるいは機械的と言ってもいいかもしれない。
ただ、足を前へ前へと運んでいるだけで、表情も相まって意気消沈という言葉がよく似合う状態。
加賀さんには似合わないその様子に、思わず声を掛けてしまった。
「あれ、加賀さん?」
「……え?」
加賀さんは少し驚いた顔をして私の顔を見つめていた。
私がここにいるのが不思議でしょうがない、そんな顔だ。
それからお互いにここにいる理由を尋ね合うと、驚きも薄れていった加賀さんはやっぱり覇気の無い顔に戻ってしまった。
その顔を見て、私は加賀さんにかつての母を重ねてしまった。
もちろん夢の影響だ。
『加賀さんも、今すぐにでも壊れそうで危ういな』……って、そんな風に思ってしまった。
だから、少し無理矢理手を貸すことにした。
そうでもしないと、無関係な私は何も出来ずに、また壊れるのを見ているだけになってしまうような気がしたから。
最初は戸惑っていた加賀さんだったけど、私の言葉を素直に受け止めてくれるようになった。
けど、その上で遠慮された。
どうやら一人で何とかしないと意味が無い、繊細微妙な状況らしい。
そういう時は下手に迂闊なことはしない方がいいと、同じようにややこしい問題を抱えている護で学んでいた。
辛そうな顔をして頑張ると言う加賀さんを見ていると、本当に私には何も出来ないのかと少し悩んだ。
私にとって一番辛いシチュエーションは、大切な人が苦しんでいるのに何も出来ないでいる状況だ。
今までは護や飛鳥さんがその大切な人で、周りの人に手助けをするときがあっても、それは手を貸さなかった先のことを考えて怖くなってしまったからだった。
こんな風に言うと冷たく聞こえるかも知れないけど、別に大切だから助けようと言う気持ちがあったわけじゃない、あれは人として当然な範疇の親切心とか、そういう動機。
けど……今回は違うような気がする。
不慮の事故とも言える出会いで、不本意にも私のことを知られてしまい、それからなんだかんだ不思議な縁があって少しずつ加賀美咲という人について理解を深めていって、その過程で彼女に恩を受けることもあった。
もちろんまだまだ護や飛鳥さんとは比べものにはならないけど、少なくとも私はおそらく、加賀さんのことを大切に思い始めていた。
だから、少しだけ彼女が辛そうにしているのが耐えられない気持ちがあった。
いつもなら、ここまで否定されたならしょうがないとあっさり諦めている所だけど、今回だけはもう少しだけ粘ってみることにした。
その結果、私は加賀さんと約束を交わした。
それを果たすときは来ない方がお互いのためになる、そんな保険のような約束。
加賀さんが壊れてしまうその直前になったら、私が彼女を守るための契りだ。
その約束に、私は介錯なんて言い方をしたけど、この言葉には二つの意味がある。
一つは、切腹した人間を楽にするために首を切って楽にすること。
そして、もう一つこそが今回の私の意図する所。
付き添って世話をすることで、楽にしてやること。
私は、加賀さんが一人ではどうしようも無くなったときに、付き添って後始末の手伝いをすることにした。
きっと、私の事が必要になるのは、それほどまでに後が無い状況まで追い詰められてしまった時だけだから。
約束を結んだときには、彼女は少しだけ明るさを取り戻していた。
私の想いが素直に受け止めてもらえた事に安堵し、気が抜けていた。
だから、軽口の応酬でつい『友達』なんて言ってしまったのかも知れない。
──友達。私がまだ、護を好きだと周りに言いふらしていた頃には、沢山いた存在。
同級生なり、近所の子供なり、私は素でも当時からそれなりに社交的だったから、そういう存在には困らなかった。
けど、中学に上がる前に母のことがあって、自分の想いを否定するようになると、途端に周りの視線が過剰なまでに気になるようになった。
幸い中学は飛鳥さんの実家の近くに引っ越した関係で、元の小学校の同級生は一人もいない私立中学に入学することになって、やり直すのには苦労しなかった。
私は学校にいる間、自分を取り繕うことにした。
周りの人から出来るだけ好意的に見られるように意識して、でも本心を悟られないよう、また面倒事に巻き込まれないよう距離を取りつつ(結局人助けはしてしまうから予定より近づいてしまったけど)、そんなふうだから、友達と呼べる人も気づけば一人もいなくなっていた。
あ、いや、この前強引に友達にさせられた人もいたけど。アレは例外だ。
とにかく、それで良かった。
私には護がいればそれ以上は無かったし、十分すぎるほどに幸せな毎日を過ごしていたから。
けど、加賀さんはそう思っていた私の懐にいつのまにか入り込んでいた。
それがずっと違和感だった。
心を閉ざしているのに、気づいた時には内側にいる。
少し距離をとろうとしても、油断したら背後を取られている。
けど、そんな気味の悪いはずの存在が、知れば知るほどいい人で。
大切な人の想いが籠った弁当を笑わずに共有してくれた。
自分だって落ち込んでいたのに、私を気遣ってモンブランを分けてくれた。
私の素を知ったのに、それから改めて仲良くなりたいと言ってくれた。
認めざるを得ない。
私は、もうすでに加賀美咲を友達だと認めていた。
しばらくぶりの、それも今までに無いタイプの友達に私はどう接すればいいのか分からなくて、前に護が言った通りの不器用さを発揮してしまう。
考えても気の利いたやり方は見つかりそうになかったので、この前の先輩の教えに倣い、その後は私のしたいように背中を押した。
あっさりと、『加賀さん』は『美咲』に、友達になった。
でも、だからこそ、私は美咲の行く末が心配になってしまう。
意地を張り続けたいと願う美咲を応援する気持ちと、人の心の脆さを知っているからこそ危惧する気持ち。
明るさを取り戻した顔で学校へと歩いていく美咲の背中を見ながら、私は本当に送り出しても良かったのか、少し後悔にも似た気持ちに駆られていた。




