希望の芽
── 6月7日 6時45分 加賀美咲 ──
行かなくては。
それだけが頭の中を支配していた私は、朝の自主練に向かうため通学路をひた歩きつづけていた。
例え自主練でも、一日だって欠かすことは出来ない。
私は、もう選択してしまったのだから。
私の選択は、周りの皆に影響を与えた。
一年が中村に暴言を吐かれるようになったのも、小宮先輩がスタメンの座を奪われたのも、全て私の行動が原因なんだ。
でも、いくら考えても、あの時中村から二宮先輩を庇ったことを後悔することは無かった。
あれは、誰が何と言おうと正しい選択だった。
結果がどうなろうと、あの選択は間違いではなかった。
開き直ろうとしてるわけではない。
正しい選択だったから、私を責める周りが間違ってると言いたいわけではない。
ただ、あの時取れる選択肢が一つしかなかったのなら、私にはその選択の責任を取る道しか残されていないというだけの話だ。
楽しくなかろうと、意味を見出せなかろうと、前に進むしかない。
これまでとやることは何も変わらない。
これ以上溝が深まろうと、恨まれようと、私は僅かな期待に応え、悪意に抗うためにも、相応しい実力をつける以外に道はない。
だって、私にはもう元の楽しくバスケしてただけの自分に戻ることは出来ない。
それを許してくれる環境は、既に変わり果ててしまったのだから。
「あれ、加賀さん?」
「……え?」
足元を見て歩き続けていたら、ふと私の名を呼ぶ声がした。
ずっと聞いていたいと思うような透き通った声。
思えば、学校で迷子になったときも、中村に目を付けられた時も。
私が落ち込みそうになった時は、いつもこの声を聴いているような気がする。
「……橘、さん? え、なんで、ここに……」
「私? ああ、ちょっと嫌な夢を見て早く目が覚めたから、少しだけ気分転換に散歩でもと思って。加賀さんこそ制服だけど、もう登校するの?」
よく見たら橘さんは制服ではなくスポーツ用のジャージ姿だった。
嫌な夢を見て散歩……ね。
本当に私と橘さんには運命と錯覚しそうなほどの縁がある。
今まで一度も朝にばったり会う事なんてなかったのに、よりにもよって今日みたいなタイミングで……。
「私は、部活の自主練で」
「へえ、こんな時間から? もしかしてそれって毎日やってたりするの?」
「うん」
「頑張るね、さすがバスケット少女だ」
「……うん」
「……いや、その割には、なんか楽しくなさそうな顔だね」
「…………」
こんな時ばかりは、橘さんの洞察力にも困ったものだ。
今の私の事を知ったら、優しい橘さんなら、きっと心配してくれてしまう。
部活とは無関係な橘さんを巻き込みたくない。
「ううん、そんなことないよ。私はただ……朝早くてちょっと眠たいだけだから」
「ふ~ん? 眠たくて、ね」
私がそう誤魔化しても、橘さんは怪訝そうな顔のまま。
私の方に一歩ずつ近づいてきて、下から私の顔を覗くように観察してきた。
そして、そっと私の方に手を伸ばしてきて――
ピトッ。
手のひらを私の額に当ててきた。
「えっ⁉ な、何、急に⁉」
「熱はない、か」
「熱って……私、別に体調悪いわけでもないんだけど……」
「でも、風邪ひいてるのかなってくらいにはしんどそうな顔してるけど」
「だって……それ、は」
結局心配させてしまった。
この件は橘さんは一切関係ないのに……。
頬の火傷痕に手を当てた橘さんは、少し考えるように黙り込んだ後、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「憶えてるかな……私前に言ったよね? 『この礼はいつかする』、『困ったことがあれば相談に乗る』ってさ」
「別に私は……」
「私が力になりたいの。遠慮しなくていいよ。加賀さんが困ってることがあるなら、なんでも相談してほしい。たとえ私には関係のない話でも」
私が遠慮しようとしても、それを一切聞き入れない強引な姿勢でこちらに手を差し伸べてくる橘さん。
少しだけ戸惑いつつも、その手を取ることは容易には叶わない。
「橘さんにしてもらいたいことは、別に……」
「遠慮してるよね? 私、多分加賀さんが思ってるより結構何でもできるよ? アドバイスとかじゃなくて明確な手助けが必要だったら、多少強引になるけど、いくらか助けになれると思う」
押しの強さはひたすらに勢いを増し続ける。
橘さんはたしかにすごい人だ。
この前は情けない所を見たけど、それでも本当に全部何とかしてしまうんじゃないかなんて思ってしまうほどに。
周りの人間を惹きつける力も、自分の思惑を実現させるための計画を立てる力、それを正確に実行する力を持っている。
仮に、中村に目を付けられたのが私ではなく橘さんだったなら、一年生や小宮先輩に恨みを買うこともなかっただろう。
それどころか、今頃は中村もバスケ部からいなくなっていたかもしれない。
時々気が緩んで、なぜか私相手によく恥ずかしい所を見られてるし、時々隠し子だとか変な噂は出回るけど、それでも未だに橘さんの素を知る人は同学年では私だけのようだし、橘柊和の名はどんどん周囲に浸透していってる。
なぜ素を隠しているのかは知らないけど、結局優しい性格はどっちの顔でも同じようで、いろんな人の力になっては感謝されているところをよく見かけていた。
もしかしたら私も、橘さんに頼れば本当に何とかしてもらえるのかもしれない。
バスケ部とは全く関係のない橘さんなのに、きっと私が部活の事で悩んでるんだろうと見越したうえで、今も力になれると優しい声を掛けてくれる。
自信だけじゃなく、きっと私の力になる算段は既に幾らかついてるのかもしれない。
でも……。
「ありがとう、橘さん。でも、本当に大丈夫だから」
「……加賀さん」
「橘さんに力を貸してもらうのは、最後の手段にしておきたいんだ。きっと、今ここで頼っちゃったら、私は意地も張れなくないようになって……バスケを続ける気力が綺麗さっぱり消えちゃう気がするの……」
私が今バスケを続けているのは、自分の行動の責任を取るためとか、わずかな期待に応えるためとか、ライバルに負けたくないからとか、そういう意地みたいなものしか残ってない。
そのための努力でしか、バスケを続けようと思えなくなってしまっている。
中村が居なくなっても、バスケ部の中には遺恨が残り続ける。
そんな環境ではもう前のようにバスケを楽しむことは出来ないだろう。
例え試合中でも、昨日みたいな恨みのこもった攻撃に怯え続け、周りからどう思われてるのかなんて不安がなくなることはない。
私とバスケをつないでいるのはもう意地しか残っていない。
なのに誰かに少しでも甘えてしまったら、張りつめていた糸が少しでも緩んでしまったら、きっと私はもう……。
「そっか……ちょっと出しゃばり過ぎたかな」
「ううん、心配してくれるのは……すっごく嬉しいから」
「心配ね……」
「……?」
何に引っかかったのか、橘さんは俯いて顔を曇らせる。
私、何か間違ったことを言ったっけ……?
「一つだけ、約束してほしいの」
「約束?」
「私の力を借りないといけない状況なんて来ない方が良いんだろうけど、でも、本当に耐えられなくなったら無理せず頼ってほしい」
「…………」
「人って……思ったよりも簡単に壊れちゃうものだから」
そう寂しそうな表情を浮かべる橘さんはどこか遠い目をしていて、私と誰かを重ねて見ているようだった。
「この前のお礼の気持ちも、加賀さんを心配してる気持ちも嘘じゃないよ。けど……私は、これ以上周りの人が壊れていくのを見ていられないだけなのかもしれない」
「それって……」
少しだけ垣間見えた橘さんの過去。
しかし橘さんは、それ以上何も教えてくれなかった。
私の目をまっすぐに見つめて、強い意思を余すことなく伝えようとしてくる。
「だから、迷惑とかそういう心配なら本当に無用だから。私は、私のためにも加賀さんに力を貸すの」
あくまでも利己的なものだと念押して、優しい橘さんは私に助けを求めやすくなるように言い置いてくれた。
「……うん。そこまで言うなら、分かった。もし、私が一人で頑張るのが限界になったら……その時は、遠慮なく助けてもらうことにするね」
「うん、私、借りを作ったままの状況って嫌いなの。だからそうしてくれると助かる」
「そっか」
「でも、その……なんて言えばいいか分かんないけど……応援してるよ。もし駄目になっても私が介錯してあげるから、頑張って」
「介錯、か。うん。それ、なんかいいかも」
橘さんは利己的だっていうけど、本当にそうなら応援なんてしてくれないだろう。
借りを返したいだけなら、私には失敗して貰わないと困るはずだから。
……介錯、か。
もし全部駄目になっても、その時は楽にしてくれる人が居るんだって思えば、不思議と前向きになれるような気がする……。
捨て身のポジティブでも、今の私にはありがたい活力だ。
「その時が来たら、よろしくね」
「来ないことを願ってるよ」
「姿勢が一貫しないね?」
「借りは返したくても、そのために友達が不幸になってほしいなんて思わないでしょ」
他愛もない軽口だったはずの応酬は、けれど私の胸にストンと刺さる。
一言、私が望んでいた一言が今……。
「……友達?」
「……え?」
「今、そう言わなかった?」
「あれ、うん。確かに……言った、かも?」
橘さんは、自分でも不思議そうな顔をしていた。
友達は、橘さんから前に保留されたままだったはず。
橘さんの口から漏れ出てきたこれは、その答えと受け取ってもいいんだろうか。
「ふふふっ」
「まあ、私の勝手な言葉なんて気にしなくても……」
「ううん、嬉しい」
私と橘さんは、いつの間にか友達になれていた。
ああ、こんな状況なのに、普通に嬉しくなっちゃうじゃん……。
自分にも不意打ちをしてしまった橘さんは、ほんのり恥ずかしそうに頬を染めていた。
「まあ……そっちが良いっていうんだったら……私は別に……」
「うん、じゃあ今日から正式に友達かな」
「……別に、前からそうだったんじゃないの? 今のこれは、確認しただけで」
「ふふっ、橘さんって可愛いね」
「はぁ? 今の私のどこが可愛いっていうの?」
「さあ? 私もなんとなくそう思っただけだから」
くすくすと笑う私に、橘さんは「訳わかんない」とあきれたように呟いていたけど、次第に私につられるように笑いだした。
笑いあうのが収まり出した頃、橘さんから一つ提案を受けた。
「この前教えてもらったけど、友達は下の名前で呼び合うものらしいよ」
「別にいいけど……誰に教えてもらったの?」
「私より頭の良さそうな人」
「じゃあ、間違いないね」
「うん」
橘さんより頭がいい人がそういうなら、仕方ない。
私達もその教えに倣うべきだ。
「貴方の言葉で、またちょっとだけ頑張れそうだから……もしその時が来たら、介錯はよろしくね、柊和」
「分かったよ、頑張れ美咲」
「うん」
新しくできた友達と話していたら、いつの間にか七時は過ぎていて……。
自主練なんだから決まった時間はないけど、遅刻と呼んでもいい状況。
数十分前の自分なら、一度の遅刻も許せないほど自己嫌悪に陥っていそうなくらい必死だったけど……でも、今はもう違う。
少しくらい良いかと思えるだけの余裕はあったけど、待たせている相沢に悪いとだけは思ったから、私は気持ち速足で歩いて登校した。




