橘姉弟の幸せな一時 前編
── 6月4日 21時00分 橘護 ──
夜のゆったりとした時間。
食後の片付けも終わって、既に風呂も上がっていた僕は寝る前に少し勉強をしようと、リビングで教科書とノートを広げていた。
「…………」
勉強は苦手ではない。
集中するのも、頭を使うことも、やればできる。
ただ、理由がなければ率先してやろうとは思わなかった。
家事のように姉さんや飛鳥さんのためになるならともかく、自分のためだけではモチベーションにならない。
なら、なぜテストが先週終わったばかりのこのタイミングで勉強しているのか。
それは、実に単純で、ある意味不純とも呼べる動機だった。
静かな部屋で、一人黙々と問題に取り組む。
数学は苦手な方ではあるけど、弾き出した解がきっちり正解していたときは気持ちがいい。
連続して問題を解いていくたびに、少しずつ集中も深まっていった。
えっと、次の問題は……
「ん~……? 図の角の大きさ……」
「わぁ~~っ‼︎」
「〜〜~~っ⁉︎」
課題に取り組んでいたら、急に背後から両肩を掴まれ、耳によく馴染む声がゼロ距離から大音量で響いてきた。
「あっははは! いい反応! びっくりした?」
「気配を消して後ろに立つの本当に止めてよ、心臓に悪いっ……」
「ふふ、飛鳥さん直伝の気配断ち。全然気づかなかったでしょ」
「気づかなかったのは僕が集中してたせいだと思うけど……」
誰かと迷う必要もない、姉さんだ。
姉さんの言う気配断ちというのは、冗談っぽく聞こえるけど割と真面目な技術だ。
海外を練り歩く飛鳥さんは護身術に長けていて、僕達もその技術をみっちり教えてもらったことがあった。
護身術でさえ、姉さんが僕とは比べ物にならないスピードで吸収していたのが印象的な思い出だ。
「な~んか無防備な状態だったから意地悪したくなって」
「家でくらい安心して無防備でいさせてほしいんだけど……」
落ち着いて勉強も出来ないじゃないか、そう思って責めるような視線を向けるけど、姉さんはいたずらっぽく笑うだけだった。
さっき風呂から上がってきたばかりで、背後、しかも間近にいる姉さんからは、くっついていなくてもぽかぽかと少しだけ熱を感じる。
やっぱりちょっと落ち着かない。
「なにしてたの?」
「見ての通りだよ」
姉さんが肩越しに机をのぞく。
僕の背中から身を乗り出す形なので顔がすぐ横まで来ていた。
「勉強? 偉いけど、何でまた急に? 中間テストはもう終わったはずでしょ?」
「それはそうだけど、時期が時期だから」
「だから、テストではないんでしょ?」
「僕、もう中三だよ」
「え、まさかもう受験勉強してるの?」
「もう」という言葉がもつ可能性を感じる会話だ。
「三年の春から始めるのは別に普通じゃない?」
「え~……私は直前にちょっとしかやってないよ」
「それは姉さんが元から合格圏内だったからでしょ……」
姉さんって僕みたいに家で勉強しなくても、授業聞いただけで内容は十全に理解できちゃうからなぁ。
いつもは誇らしいはずが、今ばかりは少し羨ましく思う。
「ていうか、推薦貰えたから受験勉強もほとんどいらなかったんだけどね」
生活態度も模範生だった姉さんだ。
いくらでも合格の道筋はある。
受験が難所なんて思いもしなかったんだろうな。
「護だって推薦狙えるでしょ? 普通に成績良いし」
「どうだろう。僕より頭のいい人も狙ってるし、競り負けるかもしれないから。どっちみち勉強はしておいて損はないでしょ」
僕は姉さんと違って飛び抜けて成績がいいわけでもなければ、特別何かが秀でているわけでもない。
成績がそこそこいいのも、テスト前はちゃんと勉強しているからだ。
「真面目だねぇ」
「絶対落ちるわけにはいかないからね」
「……護も私と同じとこ受けるんだもんね」
「うん、そうだよ」
私立水仙高等学校。
姉さんの通う、僕らの家から比較的近所にある学校だ。
といっても、地元ではそこそこの名門扱い。
受験だって難易度は易しくない。
姉さんならともかく、僕の頭では勉強を疎かにしていると合格は難しいだろう。
「それって、私がいるから?」
「志望理由がってこと?」
「……うん」
やけに神妙な表情で聞いてくる。
ふむ、志望動機か……。
「まあ、それもなくはないけどね」
「な~んかしょっぱい答え……」
僕が肯定したけど、姉さんは面白くなさそう顔をしている。
なくはないなんて言わず、素直にそうだよと言っておけばよかったんだろうか。
志望理由ならそれも合わせて二つあるんだけど、気恥ずかしくてなぜか遠回しな言い方になってしまった。
僕もまだまだ子供という事だ。
「家から近くないと困るんだよね。家事があるから通学に時間がかかると不便だし」
「動機が主夫なんだけど……」
「帰りに買い物して帰ってこれるのも魅力的だよね。電車通学だと移動時間もあるから生鮮食品は難しくなるし」
学校と家からそう遠くない位置にスーパーや駅があるのも良かった。
必要になるものは大抵揃うし、労力もかからない。
「やだぁ~……この人全然かわいくなぁ~い」
「心外だなぁ。姉さんのためでもあるのに」
僕の家事のモチベーションは家族のため、飛鳥さんは一年の三分の二以上は海外にいるからほとんど姉さんのためと言ってもいいくらいだ。
なんというか、それでは結局志望動機のほとんどが姉さんのためになっているけど、まあ、別に問題はないか。自然なことだ。
「ふ~ん……ならまあ、周り周って私のためってことなら、一肌脱いであげますかね」
「ん?」
「あ、えっちなこと期待した?」
「全く」
それで文字通り一肌脱ぐ方を想像するのは異常者だけだ。
流石にそんな発想はない。
「可愛くない……って言いたいけど、よくよく考えたら「そうだよ」って言われた方が困っちゃうか」
「だよね?」
「とにかく、私が言いたいのは、私直々に勉強見てあげるってこと」
「あ、普通に嬉しい」
勉強のモチベーションがあると言っても、義務感だけでは限りがある。
姉さんに見てもらえるなら勉強はいくらでも望むところだ。
それに教えるのも上手いんだよね、姉さん。
天才は感覚で理解するから教えるのが下手って前にどこかで聞いたけど、姉さんの場合そういったこともない。
要点をまとめて教えてくれるし、問題を間違えても原因を把握して、どこをどう改善すればいいかすぐに教えてくれる。
本当に何をやらせてもそつがない。
「姉さんに教えてもらうのが一番捗るよ」
「当たり前でしょ? 護に教える分には家庭教師より効果があるって胸張れるくらいだよ。私は護専属だからね~」
僕の事は一番理解してくれると姉さんは胸を張る。
そんなことで自慢げにしてくれるのがすごく嬉しかった。
「じゃあ、はじめますか。夜の個人レッスンを……ね!」
「…………」
「あの、護……? せめて、せめてなにか……」
「…………」
「~~~~っ」
「そんな顔赤くするくらいなら、最初から馬鹿なこと言わなきゃいいのに……」
頭は良いのに残念な姉さんだった。




