『大人になる準備』
それからしばらく、二人で時間を忘れて話をしていると、少し気にかかることがあった。
それは本当に何気ない一言、それも全く話の流れからして至極自然な一言がきっかけだった。
「全く……このブラコンは」
「違いますが」
「は? 何をいまさらそこで否定することがあるんだい?」
「違うものは違うんです、私はブラコンじゃありません」
何やら妙な反応だ。
自然とまるで友達同士のような会話の中に急に異物の様な反応が混じった。
私は少し詰めてみる。
「ブラコンじゃない姉は弟からもらったぬいぐるみをそこまで大切にはしないよ」
人形一つにあそこまで大泣きしておいてブラコンじゃありませんなんて、どうしてそんな分かり切った嘘を吐くのだろうか。
まさか自分だって本気で言ってはいないだろうに。
「……これは別に、大切なのはそうですけど。でもブラコンではありません」
「…………?」
違和感を感じた。
なぜ橘さんは急に意味の分からない意地を張りだしたのか。
なにか、地面を掘っていたら、宝箱らしき固い感触にぶつかったときのような手ごたえを感じる。
これは橘柊和という人間を知るにあたってとても重要なポイントだと、私の勘がそう囁いていた。
掘り進めずにはいられない。
私は橘柊和について以前よりずっと興味が湧いていた。
「ブラコンというのは、弟が好きな姉の事を指すんだよね?」
「……そうだと思いますが」
橘さんの定義を確認すれば肯定が返ってくる。
まず基本的な認識からお互いにずれがあるという訳ではないようだ。
「なら、君は弟が好きじゃないと?」
「好きですけど……そういう好きではありません」
「そういう好きって、家族愛から逸脱した……例えば恋愛感情とか?」
「…………」
顔を朱に染め、目を逸らしてこくりとうなずいた。
その反応をはまるで恋する乙女そのものだった。
……なんて分かりやすい。
いや、さすがにあからさますぎるだろう。
けど、なぜ急にこんなにも不器用な反応を……?
何もかも不可解だった。
もしかして演技で私を騙そうとしてるのではと疑うくらいだ。
「私には君が弟にそういう感情を持っているようにしか思えないんだけど」
「ち、違います! 私は本当にそういうんじゃ……」
必死に、けどどこか自信なさげにそう反論する橘さんだけど、私にはやはりそうとしか思えなかった。
「……これだけは伝えておく。たとえそうだったとしても、私は君を軽蔑したりしないと約束する。そういう思いとは実にままならないものなんだなくらいには思うけど、それだけだよ。それからここで君が口にしたことは口外しないとも約束する」
確かにリスキーな発言になる。
私は橘さんに害意を為すつもりは毛頭なくとも、彼女にそれを信じてもらえるかは別だ。強制力を持たないので約束してもあまり意味はないが、私には悪感情は無いと知ってほしかったので、口約束だけでもこの場で誓っておく。
そう、意味のない口約束だ。
それでも、橘さんに首を振られた時は軽くショックだった。
「……私は違うと言っています」
「なぜ? やっぱり私が信用できないかな?」
「そうじゃありませんよ! 私は本当にそうじゃないってだけで……」
誰が見たって分かり切った事実を頑なに否定する橘さん。
彼女ならもっと上手く誤魔化せるはずなのにここまであからさまなことも、頑なに否定するのに自分の言葉に自信をもてていないところも、全てに納得がいかない。
だから、できるだけ切りたくない切り札でも切ることにした。
「…………」
「こういうのは卑怯かもしれないけど、橘さんは私に恩を返すって言ってたよね」
「……っ!」
「それなら、今ここで私の質問に答えてほしい。君は、どうしてバレバレの嘘で弟さんへの想いを否定するのかな、それに、甘んじてブラコンであることだけでも認めておけば、それ以上のことを私が知る余地はなかったのに、なぜ頑なに認めないのかな」
私の無神経で無慈悲な頼みに橘さんは顔を歪める。
「どうだろう、教えてもらえないかな」
私に対する軽蔑かとも思ったけど、どうやらただ純粋にこの件に対して追い詰められていることへストレスを感じているらしい。
「……それは、できません」
「……そこまで……そうか、なら無理に聞くつもりは……」
「けど、八重樫先輩への恩に背きたくないのも本当です。だから……話せることだけでよければ、それで許してくれませんか」
妥協案だ。
橘さんには絶対に譲れないなにかがあったらしい、そこを無理にほじくり返してまで聞くのは流石に私にもできない。
元からどうしても無理と言われればそこで引くつもりだったので、私としては大きすぎる譲歩だった。
「……ああ、もちろんだよ」
「なら、それで」
「ごめんね、こんな詰め寄り方をして。言い訳のつもりじゃないし、説明したって正当な理由にはなりえないとわかっているけど、私は君の事がもっと知りたいと思ってしまったんだ」
橘さんの『違う』と否定するときの寂しそうな顔を見てしまったら、どうしても無視することは出来なかったんだ。
「……気になりますよね。私、この事だけは突っつかれるとボロが出ちゃいますから」
橘さんのような人に出会ったのは初めてだったので、少し自分でも行動が変になっている自覚はある。浮足立つというか、いつもの自分の様な冷静で合理的な判断が出来ていない。
そして橘さんの方も私と同じで様子が普通じゃないが、ちゃんと自覚はあるみたいだった。
橘さんは伝えられること情報を頭でまとめているのか、少し考えこんだ。
それから、彼女が最初に見せた動きは、あの護君お手製の人形をつまみ上げて見せることだった。
「これは、私にとって大切なモノなんです。護が私を想って、怪我をしてまで作ってくれたぬいぐるみで、私はこれを、護から受け取った私への好意の証だと捉えています。ああ、それはもちろん、姉への好意だと分かっていますよ」
その話は熱く語ってもらったのでもう知っていた。
もう一度説明を受けると、やはり少し熱が入りすぎているように思えたけど、橘さんの特別な感情を念頭に入れておけば改めて納得のいく反応だった。
あくまで本人は否定しているが。
それに、それがなくとも純粋な家族愛だけでかなりの熱量ではあるので、もしかしたら特別な感情抜きに、あれだけ熱く語っているのかもしれないが。
「護は、よくそういったプレゼントをしてくれるんです。お小遣いを貯めてプレゼントしてくれたハンカチも、学校の授業で描いた家族全員の絵も、小さい頃は毎年誕生日に送ってくれた手紙も、全部大切にとってあります」
少し勘違いしそうになるけど、橘さんが特別な感情を護君に向けていたとしても、それは彼女が向ける感情の全てではない。姉として弟に向ける、一般のそれより想いが大きいだけで他は何ら変わりない姉弟としての想いも持っている。
今彼女が顔に浮かべているのはいやらしさなど微塵も感じない、家族愛にあふれるごく自然な姉としての優しい笑顔に見えた。
「それらは全部、私にとっては護から受け取った大切なプレゼントであると同時に、『大人になるため』の『準備』なんです」
「準備……大人になるため……?」
キーワードだ。
それらは私にするための言葉にしてはあまりにも抽象的すぎる。
なんでもそつなくこなす彼女が分かりやすい説明使う言葉としては、不適切だ。
『大人になる』
『準備』
つまり、これらの言葉には彼女だけの意味が込められている。
彼女の思想や、信仰、そういったものが用いる言葉を選ぶ際に影響し、『大人になるための準備』というキーワードが弾き出されたという事。
「私、いつまでたっても子供のままなんです。周りには大人びて見えるっていわれるけど、それは表面だけで、私の家は両親が早々にいなくなったので表面だけはしっかりものを取り繕う必要があったから、大人になるのは強制的な変化でした」
あまりにもさらっと言うので耳を疑ったが、彼女には両親がいないらしい。
亡くなったとは言っていないので、まだ生きているのかもしれないが、それでも家庭環境はそれなりに深刻だろう。
「でも、それでもいつまでたっても中身は幼稚なまま変われませんでした」
「君が幼稚……?」
確かに、どこか子供じみて見える瞬間はあるものの、基本的に橘さんは冷静沈着で隙が無く、達観した視点も能力も、周りから大人びて見えると評価されるだけある人物だと観察して判断した。
橘さんと幼稚という言葉は私には結びつけることが出来なかった。
「昔、中身だけじゃなく表面もまだ子供だった頃に、私が『護と結婚する』なんて言ったら、母に強く怒られました。『お前はいつまで子供っぽいことを言ってるんだ』って」
「いつまでって……何歳ぐらいの話なの?」
「……小六までは言ってました」
言いづらそうに羞恥に顔を染めて打ち明ける橘さん。
「割と、最近だね? 私はもっと小さい頃の話かと……」
「う、うるさいです……! その時はまだ子供だっただけですから!」
顔を赤らめて肩を弱くたたいてくる。
子供っぽい動作で、痛みもまるでなかったのでちょっと可愛かった。
それと、さっきの『今も中身は幼稚なまま変われていない』という言葉を踏まえれば、それはつまるところ『今でも護君が好きという事に変わりはない』という事になるんじゃないだろうか。
好きじゃないと否定するには余りにも致命的なミスだけど、どうせ根拠のない否定が帰ってくるのは分かっていたのでツッコみはしなかった。
……本当に人が変わったようにボロが出てるな、橘さん。
「とにかく、母にも叱られたんですけど、私はずっと変われないままでした」
やはりだ。
変われない、それの意味するところは一つだ。
橘柊和は弟への想いを振り切れていない。
「……私は、今から限りなくふわふわとした実体のない話をします。これから私が話す内容が何を指しての話なのか、私自身訳分かっていませんし、八重樫先輩も何の話だと思おうが勝手ですが何も指摘せず聞いてください」
そう前置きを置いてから、橘さんは話を切り出した。
私に説明をすることと、自分の気持ちを認めないこと、それらを両立するための苦肉の策だ。まあ、本当に体裁だけで意味はないが。
「私、未だによく分かってないんです。どうしてこの感情が駄目な感情と否定されるのかって、今でも本当は疑問に思ってるんです」
「橘さん……」
それはもはや特別な想いを認めているようなものだ。
けど、あくまでこれは何を指しているのか明らかになっていない実体のない話だ。
そういうテイで話を聞いている。
私は確信を得てもそれを指摘しない。
「周りから変な目で見られるのも経験しましたし、そういうのが社会的にとか、倫理的にダメって調べて学びました。そういった経験や学びのもと、ずっと悩み続けて、どれだけ考えても、結局は納得なんて出来ませんでした」
私は黙って話を聞いた。
そうなればもはや彼女の独白だ。
私の中で今この時間は、いつのまにか私が知るためという目的から、彼女の毒を吐き出させるためのものに変化していた。
それが功を奏したのか、彼女は今日出会ったばかりの私に、本来なら誰に聞かせるにしてもあり得ないほど彼女の深いところまで語ってくれた。
少しでも私への信頼が話してくれた理由になっていたら嬉しいけど、彼女は話し始めた途端に堰を切ったようにあふれ出した想い、その勢いを自分でを止められないだけなのだろう。
勢いに呑まれる橘さんの独白は段々と早口になっていたが、唐突に話を止めて、一つ息を吸った。
勢いのままには話せない、覚悟の必要な話をしようとしている。
「……でも、私がそんな風でいつづけたから、これだけは詳しく説明できませんけど、私は護から母親まで奪うことになりました。母があの日寝たきりになってしまったあの出来事は、私の想いが無ければ初めから起きえない事故でした」
「…………っ!」
決定的だった。
橘さんの想いは、その時に『あってはならない想い』として彼女の身に刻まれたのだ。
悲劇が自分の想いによって起きたというトラウマによって、橘さんの中で弟に対する『特別な想い』は、それがどれだけ大切で、何がダメとは理解できないままでも、『忌むべき想い』と強制的に書き換えられた。
橘さんが納得がいっていないにも関わらず、形だけでも想いを否定し続ける矛盾した心理は良く理解できた。
そして同時に、まだ明かされていない『大人になる』と『準備』、これらに込められた橘さんだけの特別な意味もようやく見えてきた。
『大人になる準備』とは橘さんにとって……。
「私は、出来るだけ早く幼稚な想いを振り切って、『大人にならなきゃ』いけないんです。人形も、手紙も、絵も、ハンカチも、すべては私が一人になっても平気でいられるようにって『準備』なんです」
自分の想いに悩み続けた彼女が最終的に決定した、橘柊和が為すべき『最大の課題』という訳だ。
「それこそが、弟のために姉が果たすべき最大で当然の変化なんです」




