親子の距離 前編
「で?」
「「…………」」
「何か、言うことがあるのなら聞くけれど」
「「すみませんでした……」」
母さんの病室にて。
備え付けの椅子に座った僕と姉さんは、自分のベッドに腰かけた母さんに向かって頭を下げた。
ちなみに、先のトラブルで濡れたベッドも母さん自身もタオルで拭いて既にある程度乾いている。
「まったく……私が怒ってもいいものなのかも微妙なんだから、説教なんてさせないでほしいわ」
「変な所に苦情が入った……」
「気にし過ぎと言われても否定はできないけれど、無視することもできない問題でしょう……そしてそれは私だけでなく、二人も同じだと思っていたの。間違っても、事前に連絡もなくあんな気軽に病室に入ってくるだなんてありえないって……間違っていたのは、私だったようだけど」
「怒ってる……?」
「怒っているわけではないけれど……正しくは『戸惑っている』かしら。私もまだ内心では冷静でいられないだけで……」
そう口にした母さんの視線は、少し遠慮気味に僕の方へと向けられた。
「その……柊和だけならともかく、護はあの夜にここを出て行って以来だったから。まさか、何の前触れもなく二人揃って顔を合わせることになるとは思っていなかったもの」
「うん……そう、だね。あの日のことは、色々と悪かったと思ってるよ」
「あの日も、内心今と同じくらい驚いていたの。それと比べれば今日は……血まみれじゃない分、まだ上等なのかもしれないわね」
僕の頭に巻いてある包帯の方を見ながら、母さんは苦笑した。
あの時のことは……今思い返せば正気ではなかったと自分でも思うので、掘り返されると少し恥ずかしいんだけどな。
「あの日あったこと、それから今日までのこと、それと私が眠っている間にあったことも……大雑把ではあるけれど、大体は飛鳥ちゃんから聞かせてもらったの。あまりにも急ではあったけれど……こうしてまた話をすることができたのは、心から嬉しく思うわ」
「……うん。僕も、またこうして母さんと話ができてうれしいよ。本当に、昔のままの母さんに戻ってるんだって、直接確かめられたから」
少し怖くはあったけれど、恐れずにデリケートな話題を持ち出す。すると、母さんは申し訳なさや後悔などが入り混じる、複雑な困り顔を浮かべてみせた。
「あの夜、既に一度伝えたけれど……護、本当にごめんなさい。私はあなたにも柊和にも、償いきれない程の恐怖と苦労を強いてしまった」
そう言いながら、今度は母さんの方から頭を下げられてしまう。やっぱりその姿からは膨大な自戒や後悔の念が伝わってくるけれど……それでも、あの夜に比べればどこか痛々しさは薄れているような気がした。
「……僕からは、あの夜に伝えた通りだよ」
そんな母さんに、僕は以前とほぼ変わらない答えを返すことにした。
「僕はやっぱり、姉さんを傷つけたことだけは許すことができない。油を放った母さんも……それと、庇われることしかできなかった、自分自身も」
「護……」
「それでも、他ならぬ姉さんが許すと言うから……それなら、僕の怒りも飲み込むんだよ。それに僕が倒れていた間に姉さんとはもう、しっかり話して和解してるんでしょ?」
それなら、僕がそれ以上怒り続けるつもりなんてなくて……そんなことよりも、もっと大きく僕の中で膨らむ感情があって。
「……今日、ついさっきのことだよ。姉さんから母さんを驚かせようって言われて、本当は少しだけワクワクしてたんだ」
「え……」
「姉弟で母さんにイタズラを仕掛けてみるなんて、今まで一度もしたことがなくて──」
その昂りは、初めての挑戦に期待したり、幼い背徳感に胸がくすぐられたせいというのもある。
ただ、なによりも……。
「そんな子どもみたいな真似を、また母さんにできるようになったことが、凄く嬉しかった」
子どもの時のように……また、母さんと親子のような距離で接することができることが、自分でも意外な程に嬉しかった。
そして同時に否定できなくなってしまった。
僕にはまだ、母さんに対する情がなくなっていないことを。
「だからね……いつまでもそうやって後ろめたい表情ばっかりされると、やっぱり悲しいよ」
「あぁ……」
「水に流そうとまでは言えないよ……けどそれでも、母さんも僕らと同じように思うところは飲み込んで、また昔みたいに僕らに接してくれたら、嬉しいな」
「……っ」
僕の言葉を、母さんがどう受け取ったのかは、わからない。
ただ一度拭いて乾かしたのに、また溢れる涙でしとどに濡れてしまった頬を見れば……どんな形であれ、届けることはできたのだと、理解できた。
「……あの夜の言葉は、撤回する必要があるみたい」
「……言葉って?」
「護は、やっぱり歩さんに似たのね」
「あ……」
「今の護は、歩さんと同じ優しい笑みを浮かべているもの」
『──今の護は……歩さんと重ならないの』
『どちらかと言えば、昔よりずっと私に似た気がするの』
『どうしようもなく最低に堕ちた、あの時の私に』
……あの夜、僕は母さんからそう言って心配されてしまった。
昔の母さんのように、傷ついて、心を損ねて、もうこのまま消えてしまおうと考えた僕だったけれど。
それでも、今はもう──問題ないみたいだ。
母さんから見ても、あの父さんに似ているのなら……と。
心から、そう思える。
「その笑顔を見て今の私は……心から安心している」
「そっか」
「あの人と護が重なって、安心……できるようになったのね……」
「…………」
母さんはそう呟きながら、『安心できるようになったこと』に安心していた。
それがどれだけ尊いことなのか理解できる僕と姉さんは、母さんが自然に泣き止むまで、静かにその時を待ち続けることにした。




