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不器用な姉弟は傷を舐め合う、舐め合う舌はちょっとざらつく  作者: 桜乃マヒロ
旅行と祭りと壮行会と

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202/616

好き、大好き

 姉さんはそれほど時間を掛けずに階段を下りて戻ってきた。


 僕は姉さんがいない間もピクリとも動かず徹底して寝たふりに努めていたので、先ほどから一ミリも動いていない。いかに鋭い姉さんといえど、これで怪しまれることはないだろう。

 まあ、姉さんの目的が荷物の回収だったなら、このままリビングを出て僕に構うことなく戻っていくだろうけど。


 ……その前に起きて謝りたい気持ちも、寂しくて爆発しそうな気持ちも歯を食いしばって我慢する。

 今は駄目だ。

 今は姉さんの事は全て美咲さんにお願いしたはずだろうに。

 もう僕は二度と間違えるわけにはいかないんだ。

 このまま黙って寝たふりをし続けろ。


 心の中で自分自身を叱咤しながら堪える。

 堪える……も、階下に降りてきた姉さんが動く気配が一向にない。


 なんだ……? 

 もしかすると静かすぎたから気付かなかっただけで、本当はもう出ていったのかな?

 俯きで寝たふりをしているせいで音以外の情報が無い。

 だから、怖くて顔を上げられない。


 どうする?

 どうせ元からボーっとしようと思ってたんだし、あと一時間くらいはこのまま寝たふりして──。


「…………」


 ……いや、いる。

 それもどういうわけか、近づいてきている。


 足音を殺してるんだろう、ほとんど音はしない。

 でも、僕が神経を張り詰めて注意していたからようやく分かったけど、微かにこちらに向かってくる気配がした。


 一歩、二歩……ゆっくり、けど確実に近づいてくる。

 そして、近づけば近づくほどにプレッシャーも跳ね上がる。

 俯きながらも閉じた目をさらにぎゅっと力強く瞑る。


 どうして思った通りにいってくれないんだ。

 用件は荷物を持ち帰る事じゃなかったのか?

 姉さんが何を考えているのか分からない。

 もしかすると僕じゃなくキッチンに用でもあるのかと思ったけど、そうではない。

 間違いなく僕目掛けてまっすぐに歩いてきている。


 丁度プレッシャーが限界まで吊り上がった頃、姉さんは僕の背後に位置取っていた。

 階段を降りてここに来るまで決して音を立てず、ただ真っ直ぐに。

 声も漏らさず、この静寂の中、呼吸の音すらごく僅かにしか漏らさない。


 しかし、姉さんは完璧に僕の背後を取ってから、しばらく動くことはなかった。

 背後で僕みたいにボーッとしているわけないけど、身動き一つとらないまま時間が過ぎていく。


 ……それから数十秒経過。

 僕の困惑が天井知らずで高まり続け、いっそ全ては勘違いで、本当は姉さんはもうこの場にいないんじゃないかなんて思い始めた頃だった。


「…………あれは?」


 それまでそこに存在するという認識があやふやになりつつあった姉さんが、急に声を出すことによって一気に輪郭がはっきりしたものだから、僕はもう飛び跳ねんばかりにびっくりした。

 内心はそんななのに、それでも実際に体はピクリとすら動かさなかった自分を今日初めて褒めてやりたい気持ちになる。


 姉さんの声は何かを見つけた時のような、そんな口調。

 僕か、それともこの部屋か、どこかに異変があったのか。まさか僕が起きてることに気付いたのでは……そんな心配は完全に杞憂だった


「火……傷……?」


 姉さんが見つけたのは、僕の手にある怪我から数日経った後の火傷痕。

 姉さんに心配はかけまいと今日までは気付かれないように隠し続けてきたけど、今は火傷のことまで気を回す余裕はなかったので無防備に晒してしまっていた。


 まぁ、見た目は少し爛れているけど、この程度の軽い火傷ならすぐ治るし、今更見つかっても取るに足らない些事だろうと、僕の方はあまり気にすることはなかった。


 しかし、姉さんにとっては決して、取るに足らない些事などではなかったらしい。


「私は……なんでこんなことさえ……っ」

「……?」


 ──最初は、自分の耳を疑った。


 確かに泣きそうな声に聞こえたけれど、勘違いだ。

 まさか姉さんが泣くなんて、たったこれだけのことで……あり得ない。


「ふっ……く、うぅう……」

「……!」


 しかし、そんな断定もすぐに否定されてしまう。

 姉さんは、まるで抑えきれなくなったかのように、急に嗚咽し始めた。

 僕は唐突な異変になんとか声を漏らすことはなかったけど、それでも頭の中が疑問符で一杯だった。


 なぜ、どうして急に?

 火傷は……確かに僕等に取って特別な意味を持つけど、だからってこの程度の火傷で泣くようなことはありえない……はずだった。

 しかし、姉さんは現に火傷を見つけて苦しそうに泣き始めてしまった。


 困惑と同時に、頭では慰めなくていいのかなんて疑問が思い浮かぶ。

 けど、姉さんを慰められる言葉なんて……僕の中には一つも見当たらなかった。


 既に上限に達したと思っていた僕の困惑は、しかしすぐにそうでは無かったと思い知ることになる。


「ごめんね……ごめんね、私なんかがお姉ちゃんで……‼」


 ……反射的に『そんなことない』と声を荒げそうになった。

 でも、それまで硬直していた体と深刻な域に達した混乱は理性の味方をしてしまう。

 僕の体は咄嗟の脳の指令伝達を無視して、寝たふりの姿勢を維持した。


 だが、衝撃はまだまだ終わらない。


「……!?」


 姉さんが、唐突に僕の右手にそっと触れてきた。

 火傷は刺激しないように、優しく、そっと。

 そうして自分の胸まで僕の手を引っ張っていった姉さんは抱きしめるようにして僕の右手を抱えた。


「こんな火傷もその他の全ても……、全部私のせいなのに……っ、気づいてあげられなくてごめんね……っ、ごめ……っ」


 抱き抱えられた手に姉さんの涙がポロポロと零れ落ちてきた。

 泣き咽ぶ姉さんは上手く言葉を発することすら満足に出来ないほど苦しそうで、それをこんな近くにいながら聞いていることしかできない自分が恨めしかった。


 例え僕が寝たふりを止め、慰めようとして姉さんを抱き締めても逆効果かもしれない。だって、美咲さんから何か理由があったことは教えてもらったけど、それでもハグを拒絶された事実に変わりはない。それなのに日も跨がないうちからリベンジしたって無理に決まっている。


 本心と理性が強烈に反発しあっている。

 姉さんに尽くすことこそ僕の本懐だった。

 しかし今は、何をすることが姉さんのためになるのか僕にはまるで分からない。


「大好き……本当に愛してるの……‼︎」


 ──本当にわからないのか?


「抱きしめたいよっ、私も……! でも、それでも、どれだけ願っても、それをしたら、もう……‼︎」


 姉さんの言葉は中途半端な所で終わる。

 美咲さんの言う通り特別な事情が姉さんにはあったらしい、けど、それがなんなのかまではすんでのところで口にしなかった。


 ……それでも、姉さんも僕を拒絶したことを後悔していたことが、疑いようもない形で知ることができた。

 今日僕が生徒会室で求めた言葉を、図らずも今になってようやく聞くことが出来た。

 そうして僕はようやく心から安心することができるようになった……はずなのに、どうしてか拭いきれない違和感が胸に残り続ける。


「こんな火傷、護を庇えなかったならもう意味なんて無いよ……! ただ醜くて、汚くて、悍ましくて……惨めだよぉ……」


 姉さんに一番言わせたくなかった言葉を耳にしても、それでもここで身動き一つ取らずにいることが、本当に僕にとっての正解なのか?


 ──動け。

 ──動くな。


 その二つの言葉に僕の心は掻き乱されて、けど、どうせもう何もわからないなら、僕は……。


「助けて……護……っ」

「…………」

「いつでも撫でるって……言ってくれたから……っ」


 僕の心が完全に片方へ傾きそうになった時、最後の選択肢を姉さんから与えられた。

 姉さんは僕の右手を頬に強く押し当て、隙間を完全に無くそうとする勢いで密着させる。

 まだ僕達が日常にあったころ、時折していたやりとりを模倣するかのように、真似にしてはあまりにも痛々しすぎる形で。

 震える姉さんの両の手も、声も、僕の手を伝う涙も。

 それだけ重なっていれば、僕にはもう選択肢など無いに等しい。


「……え」


 ──頬に押し当てられた僕の手のひらは、触れた姉さんの火傷痕をゆっくりと上下に撫でていく。


 押し当てられるまでも涙を流し続けていたから、触れたそこはすでに濡れてしまっていて。

 それを全て拭い取るように、ゆっくりと、丁寧に。

 僕を救ってくれたその証を、心から慈しんで、労るように。

 醜くも、汚くも、悍ましくも無いと、姉さんにも分かってもらえるように、願いを込めて。


「私は……護の必死の頼みを聞いてあげられなかったのに……」


 言葉を使わずに、僕は姉さんを必死に慰める。


「なんで……なんで護はそんなに優しいの……?」


 これまで僕を追い詰めていたのは、他ならぬ僕自身で……そんな愚かな僕をこれまで救ってくれたのは、姉さんの優しさだったから。


 姉さんの涙を拭いきった頃、姉さんから伝わる震えがいつの間にか収まっていたので、静かに手の動きを止めて、再び寝たふりを続ける。


 ただ、返事をするように手を動かしたことはもちろん、ここまでの事があっても起きていないというだけでも不自然だ。

 もはや今更すぎる、いつも通りの姉さんならとっくに気付いているだろうから、ほとんど形だけの抵抗だ。とはいえ今の姉さんは普段通りとは言いがたいので、もしかしたら勘違いしててくれないかなぁ……なんて、ほんの少し期待はしているけど。


 色々な無理はありつつも、それでも僕は再び眠りにつく。

 そうして再び動かなくなった僕の手に、姉さんはゆっくりと頬擦りをしてきた。

 勘違いかも知れないけど……頬から伝う感触が、感謝や愛しさに溢れているように感じられて、『僕はただ撫でることしか出来なかったのに』なんて、少し微妙な気持ちになってしまう。


「大好き……嫌ったりなんか……するわけ、ないよ……」


 ようやく落ち着いた姉さんの口からも、そんな言葉が飛び出してきた。

 もうすっかり分かっていたつもりだったけど……今の方が、混乱もない分、すっと胸に届いてくる。


 その時、ふと気付いた。

 僕も、いつの間にか涙を流していたことを。


 姉さんが辛そうにしているのに何も出来ない自分を悔やんだあの時か、はたまた心から望んでいた言葉を姉さんの口から聞けたあの時か、それとも、姉さんが僕を愛してくれていると確信できた今この瞬間か。

 それがいつから流れていたのかは分からないけど、少なくとも、今流しているのは悲しみの涙で無いことだけは確かだった。


 それからもう少しだけ頬擦りを続けていた姉さんは、もう満足したのか割と早いタイミングで僕の手を元に戻した。本当はもう少しだけでいいから姉さんに触れていたかったなんて、そんな寂しさを憶えてしまったのはどうしても仕方の無いことだろう。


 これから、姉さんはどうするんだろう。

 目的は未だに分からないけど、まだ何かすることでもあるのか。

 それともいつの間にか目的は果たしていて、今すぐ帰ろうとするのか。


 ……ここまでしたなら、どうせだしもう少しここにいてくれていいのに、なんて。

 そんな風に思ってしまうのも……不可抗力だろう。


 ……それにしても、また姉さんが動かなくなってしまった。

 今は僕の手も離して、また僕の背後に立つ形になったはずだけど……まだ何か用が──


「……!?」


 その時、いきなり僕の背中に柔らかい感触と、いい香りがする何かが倒れ込んできた。

 できるだけ負担を掛けないようにする気遣いは感じられたけど、みっちりと密着して……特に肩の部分に、二つ……なん……え?

 一体、姉さんはどれだけ僕を振り回せば気が済むのか。

 ようやく落ち着きつつあったのに、またも僕を混乱の坩堝に突き落とした。


 しかも、僕の理解が追い付く前に、僕の背中に倒れ込んできたそれは、ゆっくりと僕の腹部に手を回して、いわゆるバックハグのような姿勢をとる。

 あまりのことだったから、他に可能性はあり得ないのに『まさか幽霊なのでは?』なんて、ありえない可能性を疑って半信半疑でいたけど、この段階でようやく確信する。


 ──姉さんが、僕に抱き着いてきた。


 ついさっきの口調だって自らを戒めるように否定的で、僕から求められても拒絶したのに、いったいこの短時間でどんな心境の変化があったというのか。

 あまりに急すぎる、しかし抱き着く力も、密着具合も時間が経つにつれてどんどん強く、高くなっていく。


 これは……なんだ、知らない?

 今までと同じで抱擁には変わりないはずなのに……なんでこんなに違うんだ……?

 向き……後ろからだから?

 とにかく……凄く、ドキドキする……。

 これは……こんな──


「っ?」


 強烈な違和感……いや、ゾクゾクとした怖気にも近い感覚が走る。

 耳……なんだ、耳元のすぐ近くに……何かが寄ってきて……。

 顔……姉さんの?


 なんで──


「……好き、大好き」


 ──ぎゅうぅぅぅぅぅ……。


 言葉とともに、姉さんの腕が更に強く腹部を締め付けてくる。

 少し荒い呼気が相変わらず耳元すぐ近くから聞こえてくる。

 僕の鼓動は、痛いほどに胸を強く打ち付けるように高鳴り続ける。

 密着して熱くなったからって、それで納得してくれるだろうか、僕、きっと今……全身真っ赤になってるに違いない……。


 僕って今、もしかしたら眠ってるのかな?

 そして今起こっている全ては僕の見ている夢なんじゃないかな?


 恐怖を覚えるほど未知の感覚、ふわふわと浮かぶような心地がしてまるでない現実感、ジェットコースターなんか比じゃない程に、頭の先からつま先まで痺れるような衝撃が走っていく衝撃。


 姉さん、本当に僕が眠ってると思ってるんだろうか?


 一切言及しないけど、こんなのもう僕を起こさない様にとか、そんなことは少しも考慮されてない……!

 もしかすると姉さんよりも、僕の方が僕が眠ってる可能性を信じてるかもしれない。


 視界が塞がれたままだから、香ってくる匂いも、鼓膜に心地よく響いてくる音も、触れるすべてが柔らかい感触も、僕に入ってくる情報の全てが姉さんで構成されている。

 そんなだから、姉さん以外のことを何も考えられなくなってしまう。


 今さっき姉さんの口にした『好き』は、果たして今までの『好き』と同じ言葉なんだろうか。

 僕には……どうしても違う言葉にしか聞こえなくて……。

 この変化は一体なんなのか……あまりにも未知すぎて、そして刺激的すぎて。

 

 望むべきものなのか分からない。

 望んでもいいものなのか、分からない。


 どうしてこうなった?

 僕は……何より姉さんは、一体どうしてしまったんだろう。

 分からない、知らない、知るのも怖い。


 なのに、僕は抗うことが出来ないで……。

 まるで雷や幽霊に怯えて布団に籠る幼子のように、ただ殻に閉じこもり、眠ったふりを続けることしか出来なかった。

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