護だって思春期だもんね
── 9月5日 17時00分 橘護 ──
日の光に照らされ、干された洗濯物を取り込まんと庭に出たある晴れた午後。
日光で温かくなった洗濯物はいい香りを放っている。
洗濯物もあらかた取り込み終えたその時「ゴツン」という音が耳に届いた。
閑静な住宅街で、この微妙な時間ではたまに通る自動車の走行音はおろか、場合によっては人の足音ですら聞こえてくることがある。
そんな住宅街で響いた異音に、すわ何事かと音の発生源に顔を向けると同時に声が聞こえてくる。
「イッ、タ……あ、ごめんなさい!」
視界が捉えたせいか、声が届いたせいか、ほぼ同時だったのでどちらが理由かは定かではないけど、音の正体はすぐに把握できた。
姉さんが電柱に激突していた。
そして電柱に向かって慌てて頭を下げていた。
なんで電柱に謝ってるんだ?
結構大きな音がしていたから心配になって声をかけようと思ったけど、姉さんは電柱に下げていた頭を上げてあちこちに視線を移動させ始めた。
何をしているんだろう?
そんな考えにとらわれて、一瞬声をかけることを失念していた。
「姉さん?」
「…………!」
呼びかけた声でようやく僕がいることに気が付いた姉さんはこちらにゆっくりと視線を移動させる。その動作はまるでさび付いたおもちゃのようにゆっくりで、ギッギッという音すら聞こえそうだった。
その様子を見てようやく思い至った。
ひょっとして、僕は見てはいけない現場を目撃してしまったんじゃないか?
さっきあちこちに視線を向けていたのは、自分の恥ずかしい所を誰にも目撃されなかったか確認していたんじゃないか?
じゃあ今声をかけたのは明らかなミスでは?
「……いつからみてた?」
声が若干だけど、怯えたように震えている。
それを見て確信した。
やっぱりさっきのは姉さん的に恥ずかしいシーンだったんだ!
「え……と、たった今気づいたばかりだよ? 電柱の前で立ったまま動かないから何してるのかなって」
思わず僕はそんな嘘をついていた。
これは悪手だ……。
口にしてすぐに悟ってしまう。
つい慌てて口から出まかせを言ってしまったけどこんな穴だらけの嘘が姉さんに通用するわけがない。
ほら、姉さんの顔がみるみる赤くなってくじゃないか!
「あ~~、そっか、いや、ちょっと考え事に耽ってボーッとしちゃって」
ああ、僕の嘘に乗っかってくれちゃった……。
ごめんね姉さん。姉さんが恥ずかしいなら、いっそなかったことにした方がいいと咄嗟に思っちゃっただけなんだ。本当に……。
「はは、そっか、今朝もそんな感じだったね」
愛想笑いも乾いたものになってしまった……。自然にふるまえない自分が恨めしい。
それにしても、姉さんが考え事に耽るのはよくあることだけど、
最近の姉さんの考え事といったら仕事のことぐらいだったと思ったんだけど。仕事と私生活は切り分けている姉さんが下校中に、それも電柱にぶつかるほど熱中するとなると何かあったのかもしれない。
そういえば今朝呼び出されたといってたっけ。
「……護、少し話、いいかな」
姉さんは少し声のトーンを落として僕に確認を取る。
……口止めされる?
「イヤ、ホントに何も見てないって」
「そうじゃなくて」
口止めではなかった。
つい焦ってしまったけど、よくよく考えたら僕相手なら「言うな」の一言で事足りる問題だった。
「ちょっと大事な話」
「……大事な話?」
姉さんは僕を一心に見つめている。
やっぱり何かあったんだろう、だとしたら僕がすることは簡単。
姉さんのためになることをするだけだ。
──…………。
「護~~っ‼」
ついさっきまで不安げな表情をしていた姉さんの顔は一変し、満面の笑顔で僕に飛びついてきた。
「ああ護‼ うちの護は日本一いい子だなぁ‼ 私にとっても護は世界一可愛くて宇宙一愛しい自慢の弟だぞ~~っ!」
僕の頭を抱えるように抱きしめた姉さんはそのまま叫びだす。
感情が爆発してるのか思いの丈をありったけぶつけてくれる。
こういうことはたびたびある。
僕が不安になっても立ち直れるのは、姉さんのこの素直さのおかげだ。
姉さんにはつくづく助けられてばかりだ。
「あはは! 姉さん、ちょっと苦しい!」
「かわいい護にはいっぱいぎゅうしてやる!」
苦しいと訴えているのに姉さんは抱き着く力を強めてくる。息は苦しくなったけど、代わりに姉さんの温かさが強く伝わってくる。
……ああ、嫌われていない。
嘘偽りない愛情が感じられる。
暖かい……。
「私より護が凄い所なんていっぱいあるんだから! 掃除も洗濯もいつも欠かさずにやってくれてたし! 料理なんて護のご飯以上に美味しい物は存在しないし!」
姉さんは嘘をついてない。本心からそう思って言ってくれる。昔は本当に何一つ敵わなかったけど、姉さんのためにと今まで頑張ってきたことは、少しづつ自信を持てるようになってきていた。
「そっかぁ、そんなに喜んでもらえてるなら報われるなぁ」
きっと姉さんがその気になればいつかは追い抜かれてしまうのかもしれないけどそれでも僕は気にならなかった。
これだけ姉さんに喜んでもらえてるだけで十分すぎる。
「それで、そんな自慢の姉さんが僕に何の話なの?」
姉さんが素直に頼ってくれるなんて滅多にないことだ。
できる限り力になってあげたい。
惜しいけど僕を抱いていた腕が緩くなって二人の間にすこし距離ができる、とはいってもすごく近いけど。
そして僕の両肩に手を置いた姉さんはまっすぐに見つめられる。
「それなんだけど、さっき詩葉先輩とお話ししてきて、護にも手伝ってほしいことがあって」
「姉さんの支えになれるなら、なんでも言ってよ」
遠慮しないで頼ってほしい。
僕の願いは通じたのか、姉さんの顔は安心よりも嬉しそうな色が強い。
「うん、あのね……護。私の生徒会の役員になってほしいの」
「生徒会? 姉さんの?」
「うん、私の生徒会」
なんでも来いという姿勢ではあったけど予想だにしていなかった答えにどう返していいのかわからなくなって確認してしまった。
「分かった、なるよ」
でも答えは肯定以外にありえない。ましてや姉さんの生徒会で支えになれるというなら躊躇うことはない。
しいて言うなら家事の都合でいくつか気になるぐらいだ。
「………………」
そんな僕を見て姉さんは嬉しいけど素直に喜べないみたいな、そんな難しい顔をして黙り込んでしまう。
「何も聞かずに即肯定しちゃって……」
「え?」
つぶやいた言葉は僕に聞かせるつもりじゃななかったんだろう、小さな声だったけど僕の耳には確かに聞き取れた。
けど意味が呑み込めなくて返事ができないでいると姉さんは話を進めてしまう。
「護も忙しいんだから、そんな急いで決めなくていいの! まずちゃんと説明するから、場所を移そう。ちょっと長くなるから私お茶淹れるし、座っててよ」
そう言った姉さんの視線はいつもご飯を食べるときに使う足の長いテーブルに視線が向けられている。
「お茶なら僕が淹れるよ?」
「私がお願いする立場なんだからこれぐらいはいいの!」
なんだか駄々っ子みたいな言い方をして姉さんが台所へ向かう。
「そっか、じゃあお願いするね」
それぐらいのこと僕がやるのにとは思ったけど、意地を張ることでもないかと考えて譲ることにした。
淹れるといってもまだ九月が始まったばかりで熱いお茶より冷たいお茶が好まれる程度には暑い。
僕たちが幼かったころはもう涼しかった覚えもあるんだけど、異常気象はここまで影響している。
姉さんはあらかじめ僕がパックから煮だしておいた麦茶と氷をグラスに入れて二人分持ってきた。
「おまちどーさま」
「ありがとう」
姉さんは僕の対面の椅子に座って麦茶をすこし口にした。
「それで、姉さんの生徒会にって話だったよね。たしか今朝、会長さんに呼び出されたって言ってたけど」
まあ順当にいけばそこで相談されたんだろう。
「そう、詩葉先輩から生徒会長やってみないかって相談されたの」
「というか、受けるんだね」
姉さんだって忙しいのに生徒会長なんて大変そうな仕事を受けるなんて、正直意外だった。
これ以上の負担が心配ではあるけど、姉さんが生徒会をやりたいというならその分僕が支えればいい話でもある。
珍しく家事以外で姉さんの役に立つ機会だ、やっぱり僕としては断る理由がない。
「ん……あ~うん、詩葉先輩には借りがあるからね、今より忙しくなるだろうけど、できるなら受けたいなって」
「? ……そっか」
なんか一瞬違和感があったような……。
まあそれはいいとして、八重樫会長と姉さんに親交があったのは知っていたけど、姉さんが借りとは、ますます意外だった。
でも、姉さんにとって生徒会長になってまで返したい借りなら、相応に大切なことだったんだろう、僕が異を唱えることは無い。
そもそも言っても聞かないだろうしね。
結構頑固なとこあるし。
「それでね、生徒会を引き受けるにしても詩葉先輩みたいに少数精鋭で、ってなると私には仕事もあるから、いろいろ大変でしょ?」
確か今の生徒会は会長の八重樫詩葉先輩と一年生の女子で全員だったはず。最初はもう少しいたけど、なんか色々あって今の二人以外やめたらしい。
あれ? 一年の女子ってたしか僕と……。
「それでね、役員はしっかり集めようと思って。まずは護がいてくれたらすごく心強いな~って思って」
……へえ、そっかぁ。まずは僕なんだ、すごく心強いんだ。
そこまで言ってくれるなら? まあ、全然なるけどね、役員くらい。
姉さんはやや上目遣いでこちらを伺ってくる。
おそらく天然だと思う、交渉事は得意でも、そういう甘える駆け引きは苦手な姉さんだ。
「それで、どうだろ──」
「勿論、御受けさせていただきます」
「わ、うん。すごいやる気だね」
しまった、少し前のめりになってしまった。
姉さんに頼って貰えるだけでも嬉しいのに、そのうえあんな僕に刺さること言ってくれたから思わず……。
「あ、えと、うん。やっぱり僕の答えは変わらないよ。姉さんの力になれるなら喜んで引き受けるから!」
「そっか、ありがとう。ならよろしくお願いするね、護」
「うん、こちらこそよろしく」
これで大事な話は一通り終わったかなと思ったけど姉さんの話はまだ終わっていなかった。
「あのね、護。それで生徒会を引き受けてくれた護に一つ相談なんだけど」
「え? な、なに?」
すこし気を緩めていた僕は予想外の流れに少しひるんだ。
……まさか今度こそ口止めか?
「今の護の家事の負担を考えると、放課後に生徒会の予定まで入っちゃうと少し無理があるでしょ?」
「え……どうだろう? 確かに少し大変かもしれないけど……」
「だよね! 大変だよね!」
始めに怯んでしまった僕はいまだ状況をつかめないままでいた。
「? うん、大変ではあるかもね?」
「で、私のお願いで護に無理を強いるのはちょっと私耐えられそうにないんだよね……。でも生徒会長になる身としては護にはどうしても私の右腕としてほしい人材なわけ!」
嬉しいことを言ってくれる。のに、なんだか話の展開が落ち着かない。
今にも望まない言葉が出てくるような予感がする。
「え、え、うん。あ、ありがとう?」
「そこで! 家事を私と分担してほしいの!」
「……分担?」
やっぱり、こういう予感は当たりやすい。
「そう、今は護が全部やってくれてるから、私のお願いを聞いてもらう代わりに私にも家事を負担させてほしい」
「それは……」
僕が姉さんのために出来るのは家事くらいしかないのに、もし、それを、しなく、なったら……。
姉さんは、本当に何でもできる。だから家事も分担するようになったら僕よりすぐに上手くやるようになる。
それ自体はかまわない、劣等感なんて感じたりしない。
「分担……って、どういう具合に考えてるの?」
……でも。
——家事すらしなくなった僕なんて、姉さんにとって必要ない存在になるんじゃないのか?
そんな、冷静に考えればまずありえない恐れに、あり得ないとわかっていながらも耐えられないほど怯えてしまう。
「……! うん、いままで護にほとんど任せっきりだったから、家事をを当番制にするか担当する家事を分けるかして全体の半分づつ位に分けられたらーー」
「それは駄目だよ」
姉さんが話し終わるのを待てずに断言する。
ああ、本当にダメだ。それは、耐えられない。
僕のために提案してくれてる姉さんに対して、自分勝手な都合で否定する自分に胸は痛む。ごめんなさい、姉さん。でも、それでも……。
「生徒会の仕事はまだよくわかんないけど、会長になる姉さんの方が忙しいだろうし、それに仕事はまだ続けるんだよね?」
「……そうだね、やめるつもりはないかな」
「なら半々にしたら姉さんに負担が集中しちゃうよね」
負担を強いている状況に耐えられないのは僕も同じだ。
けど姉さんはまだ諦めていない。
「でも、護に仕事を任せるのは私のわがままだから……」
「受けるのは自分の意思だから。それは僕の責任だよ」
わがままでも、頼ってくれるだけで嬉しいんだから、そんなこと本当に気にしなくていいんだ。
「でも……」
姉さんは渋い顔をしているけど、畳みかけるように僕は提案する。
「……だから、分担するなら、姉さんに掃除でいくらかエリアを任せるからそれで十分だよ。それだけやってくれるだけで生徒会の役員になるのに十分な余裕が出来るから……」
「嘘だよね。たったそれだけで十分っていえるほど余裕が出来るはずない」
姉さんはバッサリと切り捨てる。やっぱり誤魔化せなかった。僕が姉さんを騙すなんて百年早いみたいだ。
確かに言われた通り、全体で見ればそんなに仕事量が減るわけではない。
生徒会を始める事を思えば割には合ってないだろう。
「そんなこと……ないけど」
「あるよね?」
一音ずつ間を開けて聞いてくる。迫力が……。
「そんなこと…………」
姉さんは僕の目をじぃっと見つめてくる。睨んでいるわけではなくても伺うような視線もそれはそれで辛い。
「あり……ます……」
「だよね!」
押し負けた僕を見て姉さんは満足げにうなずく。ご満悦だ。
「だったらさ! 掃除に加えて、私が自分でしたいことが一つあるから、それも私の仕事ってことにしてよ」
「……したいこと?」
「そう、したいこと」
なんだろう? 姉さんは別に家事が好きって訳ではなかったと思うから見当がつかない。
料理……は出来るはずだけど好きなイメージはなかったな、というか多分今なら僕の方が上手にできると思うし。
買い物……にしても料理をするなら僕がやった方が都合がいいし……あとは……。
「私、さっきも思ってたんだけどさ」
「さっきも……?」
さっき……洗濯物を畳んだけど、それがしたい事?
「別に変なこと意識してるわけじゃないんだけどね? ほら、私たちももういい加減子どもって歳じゃないんだしさ……。自分の下着とか、そういうのまで、護に洗濯させてていいのかなぁ……って……」
すこし恥ずかしそうに頬を赤らめて、上目遣いにちらちらと僕を伺い、自分の主張を伝えてくる姉さん。
「その……ね? ちょっと……恥ずかしいなぁ、って……」
…………?
………………!
……………………?
…………………………っっっ⁉
その言葉が秘めるあまりの威力に、僕は一瞬で消し飛びそうな感覚に陥った。
えええぇぇ、あ‼︎ え? そうだったの⁉ え? 今更?
え、あ、いやでも、そっか!
引っ越してすぐのまだ小さい頃から僕が洗濯をずっとしてきてたからすっかり慣れてたけど、この年頃になるとやっぱり恥ずかしくなるものなのか⁉
えええぇぇ⁉
姉さんがぁ⁉
あ、いや、それは失礼だ。
「だから、そういう事情もあるわけで……。できれば、これからは私の仕事ってことにしてもらえない、かな?」
まずい、まったくの予想外で頭の整理がつかない!
「そ、そうだったんだ……。ごめ、ごめんね? 今まで、その、気が付かなくって……」
「護は何も悪くないよ! 私が何も言わなかったのが悪いんだし……」
「いや! そんなことないから! 恥ずかしかったろうにそんな相談させてごめんだし!」
今更過ぎないかとかやっぱり納得しきれないところはあったけどそんなこと気にしてられないくらいには一杯一杯だった。
「次からは姉さんに全部任せるから! 洗濯とかそういうのは! だからそれで分担は完了でいいよね! ね!」
「うん! ありがとね、護!」
分担が決まって、本来なら感謝するのは僕の方なんだろうけど、姉さんは喜悦の表情を浮かべて感謝してくる。愉悦の表情にも見えたのは気のせいだったのだろうか。
「これがちょろかわいい……? こういうのも悪くないかも……」
何か呟いていた姉さんの言葉は残念ながら聞こえなかったけど、なんだか聞こえなくてよかったという気もしていた。