懐かしきブラジル
なにかを想像してみようと念じてみても、なにも出てこないんだから。おれのアストラル体も大したことないな。そりゃまあおれだし。おれがなぜ駄目なやつなのか。なぜおれはいま自分を納得させることのできない状況に追い込まれているのか。おれはちょっと雑に生きてきすぎたのだと思う。まあどっちでもいいやで生きてきた結果だ。これが。まだ間に合うだろうか。もう手遅れだろうか。
おれにしてはずいぶんといいところまでたどり着いた。ここまで時間はかかってしまったが。なにか、もう少しだ、という予感がある。もう少し手を伸ばせば、届きそうな……。でもこのもう少しって感覚が永遠に続きそうな気もする。おれに残された時間があとどれくらいなのかもわからない。
すべてがあやふやで、夢の中で、不定形なやつを殴りつけて、まるで手応えがないことに焦りと恐怖を感じている。いまはこうしてぐにゃぐにゃしているだけのこいつが、次の瞬間にも、おれに襲いかかってくるかもしれない。いや。くる。だってそんな理由でもないと、おれは殴ったりはしない。おれはこいつに酷い目に合わされたんだ。ものすごく傷ついたんだ。とても悲しい思いをしたんだ。そうでもないと、説明がつかない。おれはなにも傷つけたくなんかない。暴力を振るうのも、振るわれるのも、恐ろしいことだろう。それでも暴力を使わなければいけない状況は確かにある。その状況を作り出したのは、おれではなく、こいつだ。でもこいつは、ぐにゃぐにゃと……いつまでもぐにゃぐにゃと……。拳は確かに当たっているのだけど、まるでなにも……。こいつは一体なんなんだ。
自分の叫び声で目を覚ました気がする。相当大きな声を出したことが、喉の感じでわかる。部屋は薄明るく、曇り空みたいな光がカーテンの隙間から漏れていた。カーテンを開いて確認したら、よく晴れていた。全身に汗をかいていて、布団から出たら、そいつが一気に冷えて寒くなった。布団から出た勢いで、パジャマを脱ぎ散らかし、そのまま風呂場に行って、シャワーを浴びながら小便をした。ずいぶん長い小便だ。シャワーのお湯の中に、薄黄色の透明なラインが一本、元気な曲線を描いている。シャワーのお湯とおれの小便が交じり合い、あやふやな色のまま排水口へと吸い込まれてゆく。シャンプー、トリートメント、身体を洗うのを済ませて、排水溝の掃除をする。絡まった髪の毛を、使い古しの歯ブラシでスパゲッティのようにすくい取り、洗面所にあるゴミ箱にぱさっと入れて、排水溝のゴム管のぬめりを、使い古しの歯ブラシでこそぐ。気が済んだら、もう一度全身をシャワーで流して、湯を止めた。こういう描写が小説をつまらなくしている。誰も知りたくないことだし、知らせなくたっていいことを、おれは書いている。バスタオルで水滴を適当に拭き取って、ヘアオイルを無駄に長い髪の毛になじませて、ドライヤーで乾かす。また新しい白髪をみつけた。生まれて初めての白髪を見つけたのがつい何か月か前で、それからもう五本目だ。老いはもう止められない。止めているつもりはなかったし、止める気もなかったのだけど、それはまだ自分の老いが実感として襲いかかってきていなかったからであって、いざ自分の老いを目の前にしてみると、おれはあっさり絶望した。ここから老いはますます加速していくのだろう。なんて恐ろしい。ひとたび目にしてしまうと、いままで気づかなかった細かいことが、ありありと見えてくる。目尻のしわ、こめかみのシミ、目では見えづらいが、触るとはっきりとわかる肌の細かいブツブツ、そして白髪。鏡に映るおれの顔は、いつにもまして不気味だった。顔色は悪く、目の周りはなぜかどす黒く、無精髭が密度なく。ついにおれは風呂上がりでさえ、老いを隠せなくなってしまったというわけだ!
風は吹く。いつか風向きは変わるだろう。おれは風を読むことができない。小説だってまともに読めているのか怪しいもんだ。
なにか気紛れな親切心を起こして、知らない誰かに親切をしてやった。挙動不審ぎみに礼を言われた。そんなにびびることねえじゃねえか。それとも不要な親切だったか。大きなお世話だったのかもしれない。ただ困っているように見えたんだ。こんな気持ちになるなら、やっぱり親切なんてするものではないのかもしれない。でもどんな親切をしてやったのか、さっぱり思い出せない……。
ヴェトナム人? フィリピン人? どこの国の人だかはよくわからないけど、自転車に乗った外国人のカップルに道を尋ねられた。ほっともっとを探しているらしい。なんだってほっともっとなんかを探しているのか事情はよくわからないけど、おれに道を訊いてくれるのは外国人だけだからちょっと嬉しい。日本人は怪しい勧誘ですらおれには声をかけてくれない。寂しいじゃないか。おれだってラッセンに興味あるかもしれないじゃないか。全然ないけど。毒々しくいかれた色使い。あんなもん金を貰ったって部屋に飾りたくない。家の敷居をまたがせたくない。ディズニー系とラッセンのリトグラフを部屋に飾っているやつは、ださい以前に美意識に致命的な欠陥を抱えている。ああいうものを眺めているなら、壁紙でも眺めていた方がまだマシってもんだ。大型のジグソーパズルはああいう絵柄ばっかりで、おもちゃ売り場の中で独特の病的なヴァイブスを放っている。
ほっともっとはちょっと遠いところにあると伝えたけど、カップルはよくわからないらしく、曖昧な笑顔で首をかしげている。彼氏の腕には見事なトライバルタトゥーが彫られている。格闘家がしているような、とげとげしいデザインではなく、もっと繊細で優しい感じのするタトゥーだ。指さしながら、いいねとサムズアップしたけど、やっぱりよくわからないらしく、曖昧な笑顔のままなにも言わなかった。
向こうは片言の日本語で、こっちは片言の英語で、グーグルマップアプリの力も借りながら、コミュニケーションを無理矢理成立させて、なんとかカップルにこの辺にほっともっとはなく、ちょっと遠いところにあると理解してもらった。それでも行きたそうだったので、グーグルマップを見せながら、道を教える。
ストレート、ストレート、ディスウェイ、ずっとストレート、オーケイ? あー……セブンイレブン、ワカリマスカー? わかる、オーケイオーケイよ。セブンイレブンのあるクロスロード、クロスロード……ビッグクロスロード、ターンライト、ターンライト、オーケイ? セブンイレブンのアル、クロスロードヲターンライト、アンド……ストレートストレート……。
しかしなんでそんなに、ほっともっとに行きたいんだ。よくわからない。言っておくけど、ぜんぜん美味しくないぞ。言えなかったけど。
夏の出来事だ。夏のことは覚えているのに、直近のことが記憶から出てこない。なにか、なにか親切をしてやったのだけど……もしかしたら気のせいなのかもしれない。外国人のカップルとは、お互い笑顔で、手を振り合って別れた。知らない誰かは、挙動不審ぎみで礼を言ってきた。なんかそんなことがよくある気がする。おれは日本人ではないのかもしれない。ブラジル人にはっきりと、日本人向いてないね、と言われたことがある。サンパウロ住んだ方がいいって。でもきみのスニーカーは高級過ぎるから、あっちに持って行かない方がいいよ。そんなの履いてたら、間違いなく強盗されちゃう。もしかしたら殺されるよ。
じゃあなにを履いたらいいのかと聞いたら、サンダルでいいんだと言われた。Tシャツ短パンにサンダルでいいんだと。おれが普段しているような格好は、ボディガードがついてる金持ちのする格好なんだと。素敵な世界もあるもんだ。ブラジルね。わるかないよな。なんたってブラジル人のお墨付きだ。きみには日本よりブラジルが合っているよって。
ブラジル……高く青い空……耳をすませれば……あのころのメロディ……
情熱の音楽……笑顔で歌って……芸術的なキッス……夢のようなブラジル……
そして夢を見てる……あのころのメロディ……あのころのブラジル……
夢ではなく……確かなこと……帰るのさ……あのころのブラジルに……
あの懐かしきブラジルに……