推し恋あをによし3
推し恋あをによし2の続きです。
「え、待てよこれ足りなくねえか?」
作業の手を止め、一人が言う。そちらに視線を向けた双刃は、友人の持つスチロール板と床に広がる在庫とを交互に見て「あー」と声を発した。
「ほんとだ。」
文化祭の準備期間も中盤に差し掛かった十月中旬。二年C組の出し物である「ショートフィルム喫茶」の小道具づくりは、撮影期間の兼ね合いで佳境にさしかかっている。当然ながら出演するより裏方に徹したい双刃らオタク三人衆と陰キャ女子筆頭忍、そして友達少ない系ギャル仁江の五人は、迫りくる締め切りに追われながらひたすらに手を動かす日々を送っていた。
作業スペースはもっぱら廊下である。圧倒的に通行の邪魔だが、どこのクラスも同じように筆記用具やら衣装やらを広げているのでお互い様だ。今はスチロール板で簡易の看板を作成しているところなのだが、先に買い出しに行ったときに購入する個数を誤ったらしく、見るからに足りていない。
「これ、今日中に完成させなきゃいけないんだよね……?」
所謂女の子座りで架空の病院見取り図を下書きしている忍が言う。その通りだ。これを今日中に片付けなければ、明日から始まる映画撮影が遅延してしまう。つまり、陽キャに殺される。
「買い出し行くか……誰か手、離せる?」
藩田双刃、お世辞にも器用な方ではない。腕力はあるので主に力仕事や材料の大まかなカットなんかを担当しており、今は比較的手が空いている。買い出しにいくなら自分だろうと立候補したところ、友人らは手元を見たまま言った。
「ここだけくっ付けちゃえば行けるぞ!」
「俺はこのへん描き終わったら行ける。」
覗いた作業状況へ、双刃は顔をしかめた。「ここだけ」も「このへん」もまだ三割ほどしか進捗がない。これでは手が離せるまでに十数分はかかりそうだ。ひとりで出かけられたらいいのだが、金銭管理などの観点からひとりでの買い出しは禁止されている。非効率的だよなあ。盗んだりしないっての。
「じゃあじゃあー、あたしと行くー?」
予想外の方から挙手があり、双刃はそちらへ顔を向けた。床に寝そべってポスターカラーを走らせていた仁江が両手をついて起き上がるところだ。あっ、ちょ、そのアングルは駄目です……! オーバーサイズのクラスTシャツ着てる自覚を持って……!
ラッキースケベに動揺する双刃を今回ばかりは誰も構ってくれない。何せ皆忙しいのだ。普段人当たりのいい忍ですら、ここ数日は周囲に塩対応である。たぶん、ただ集中しているだけなのだけれど。いつもとのギャップでね……ちょっと心に来るよね……。
「じゃあ、松明……頼めるか?」
「もちー。」
「行ってくるわ」と手を振る仁江に、皆手元を見ながら「よろー」と返答する。完全にギャルの口調が伝染っているのは置いておいて、流石生産するタイプのオタクたちだ。集中力が違う。
クラス共通の文化祭用財布を取りに教室内へ入ると、衣装担当が修羅のような顔でカラフルなメイド服を手がけているところだった。あんなの着るシーンもあるのかよ、ショートフィルム。
C組の出し物、喫茶メニューがドリンク五種類しかない代わりに、ショートフィルムは十分程度のものを五種類作るという気合の入れようなのだけれど、クラスの一員である双刃も全容は把握しきれていない。シナリオは配られたが、単純に読む暇がないのだ。学校にいる間は小道具を作らねばならないし、帰宅したら予習復習と推し事が待っている。推し事を削ればいいって? 馬鹿野郎、陽キャと嫌でも絡まねばならないストレスフルなイベント事に加えてアニメ禁なんて出来るか。死んじまうわ。
「メイドじゃんやばー。かわいー。じんじんさー、あーゆーのは好きくない系?」
「え、いや……嫌いじゃないけど。」
公衆の面前で爆弾を投下されたのへしどろもどろに返しつつ、目当ての財布を手にしては逃げるように教室を出る。
「メイドさんは別にってカンジー?」
「いや何ていうか……正直、メイド服はもっとシンプルなのが好みかな。」
生足は好きだが、メイドという属性を持つならもっとクラシカルな格好をしてほしいというか……カラフルなミニスカメイドはもはや破廉恥なコスプレじゃん? いやそれはそれで好きだけど……そういう目的で見るものになってしまうと元の尊いメイドさん属性がだな……。
「あは、しーちゃんと同じこと言ってるー。あたしは黒とかより水色とかパステル系? のほーが好きだしー、スカートも短いのが好きだけどー、シンプルが好きってコもー、けっこーいんだねー。」
けらけらと笑う仁江をちらと見、仁江が着るなら何でも可愛いだろうな、と、これまでのこだわりをすべて無に帰す結論に至る。俺の推しが今日も可愛い。結局、似合えば何でもいいのかもしれない。下手にこだわらない限り、可能性は無限大なのだから。
双刃の大事な何かが壊されていく中、二人で廊下を行き、外へ出る。校庭には各学年・各クラスの生徒たちがダンスやら演技やらを練習する姿が見受けられた。文化祭だなあ。去年は完全に裏方の、それも装飾用の折り紙を無限に折っていればいい役をゲットしていた双刃にとっては、見る機会のなかった光景だ。いやその……不器用な俺のせいで不格好な装飾になったのは否めないんだけど……。
「いー天気だねー。板足んないのー、明るいうちに気づいてよかったー。」
校門を出かかったところで伸びをして仁江。すぐ近くに商業施設こそあるものの、買い物をして戻るころには確かに少々暗くなっていそうな時間帯だ。
「どっちいくー? おばちゃんの文具屋さん? ショッピングモール?」
「他のクラスも使うよな、プラ板。文具屋だと売り切れてそうだし……モールまで行くか?」
双刃の提案に、仁江は「おっけー」と笑う。俺この後、死んだりしない? 俺だけに向けられてるんだぞこの笑顔……? ファンサありがとうございます……。
準備の進捗も考え、少し急ぎ足でショッピングモールを目指し始めた。何も言わず双刃の速度へ合わせようと仁江が半ば小走りになったのに気づき、歩調を緩めたところで「あ」と小さな声。
「やば、スマホ置いてきちった。」
「え、珍しいな、命の次に大事なやつを。」
以前本人がそう言っていた。双刃の言葉を受け、仁江は大げさにため息をつく。
「マジあり得ないんですけどー。せっかくゴーホーテキにいじれる時間なのにー。」
いや確かに法には触れないが、規則的にはグレーだぞ。とはいえ双刃も彼女が言いたいことは分かる。買い出しなんて実質、体のいいサボりだしな。取りに戻るとか言われたらここで待ってるか。
「まー、じんじんいるしー、スマホいじるよりー、喋るほーが楽しーからいーけどー。」
え、今、なんて言った?
「え、と。こんな陰キャと喋ってて、その……楽しいか?」
予想外の発言を受けて双刃が口にしたのは、自虐の意図も何も無い、純粋な疑問であった。彼の言葉を受けて仁江は隣を歩く双刃を見上げ、なんとも言えない表情を浮かべる。双刃の背筋が冷えた。え、なんだろ地雷か? 気づかんうちに地雷踏んだか?
「あたしは楽しーよ。じんじんとお喋りすんの。でもさー、むしろじんじんがさー? あたしに絡まれんのー、やじゃない?」
嫌なわけが無いが????? と即答しかけたのを飲み込んで、双刃は首を横に振る。
「全然。嫌なわけない。」
食い気味に返すのは明らかにキモいからやめよう、と理性で即答を避けたにしては勢いよくかぶりを振ってしまった気もするけれど……だって、こんなにも可愛い推しと話すのが嫌なわけがあるか?
双刃のそんな反応へ仁江は立ち止まって目を瞬かせた。え、どうしよう。やっぱりキモかったかな……なんか……なんか言い訳を……えっと……
「……その……俺みたいなのと話してくれる奴ってあんまいなくて……女子なんて特に絶滅危惧種並に少ないし……ありがたいなって思ってて……」
しりすぼみになる双刃の言葉。嫌われたかな……と俯いては凹みかけた双刃へ、からからと明るい仁江の笑い声が届く。
「あは、よかったー。あたしこんなんだからー、トモダチしーちゃんしかいないしー、じんじんとなかよぴなれたの嬉しくてー、超絡んじゃってたんだー。でもさー、じんじんさー、女のコ苦手しょ?」
そちらを見遣れば、いつも通り機嫌良さげな仁江。さっきの意味深な表情は何だったんだろう……いや、気分か。そういうものだもんな、ギャルって。考えるだけ無駄だな。てか、なかよぴって言われたな今。嬉ぴよ。
相変わらずぐちゃぐちゃにされた情緒を押して、双刃はまさにその通りである問いへ頷く。仁江はにこにこと嬉しそうに話を続けた。
「フツーの子でも話すの大変なのにさー、あたしみたいな札付きにめちゃ話しかけられてー、めんどいなとかー、うざいなとかー、思われてないかなーって、ちょっとシンパイしてたんよねー。あたし案外ー、気ーつかうほーなわけー。」
これまで考えたこともなかった。確かに、言葉は悪いかもしれないけれど、いわゆる量産型一般女子と元ヤン不登校ギャルならば、確実に前者の方が取っ付きやすいし話しやすそうだ。いやでもさ……その他大勢と推しとなら、圧倒的に推しに話しかけられたくない? ひーしーちゃんの間に挟まってると「どけよ俺」とは思うけどさ。あ、「ひーしーちゃん」ってのは俺が脳内で勝手に纏めて呼んでる松明と姫川のことで……
「じんじん?」
反応がないのが不安だったのか、仁江からいつもより自信なさげな声をかけられて双刃は我に返った。時短のために歩道から逸れてショッピングモールの駐車場を横切りながら、ぽりぽりと頬をかく。
「いや、考えたこともなかったからさ、話しかけられるのが迷惑なんて。」
できる限り気持ち悪がられないよう、言葉を選びながら紡ぐ。
「むしろその……ありがたいって思ってる。こんなヨレヨレの制服着たロン毛野郎と、嫌がりもせず歩いてくれる人、そういねーよ。」
肩を竦めてみせると、仁江はじっと双刃を見つめたあと破顔した。
「そかそかー。よかったー。じゃあじゃあー、これからもエンリョなく絡むからー、じんじん、よろしこーっ。」
「て、手加減はしてくれ……。」
仁江から「あでもー、制服と髪型はカイゼンしたほーがいーよー」と正論をかまされつつ、二人でショッピングモールへ足を踏み入れる。
スチロール板足りなくてよかったな、と、始終心の内に思う双刃であった。
*****
「いやあ……なんとかなったな。」
「本当にねえ。」
学校祭二日前、二年C組教室。
とりあえず避けた、といった様子で乱雑に配置された誰のかも分からぬ椅子へ腰掛けては試作品のカフェオレを啜りながら、オタクくん三号と忍とは、ようやく一息ついたところであった。
つい先程、カフェの飾り付けにつかう装飾品の制作が片付き、メインであるショートフィルムの方も、ほとんどの撮影を終えて編集段階。今は編集班が足りないと判断した追加シーンを、有り合わせの役者を用いて廊下で撮影しているところである。一般通行生徒役として、自他ともに認めるモブ顔のオタクくん二号はもちろん、仁江と双刃もかり出されて行った。
「どんなシーン撮ってるんだろうね?」
「ああ、ホラーフィルムの、廊下にお化け出るシーンだよ。臨場感がないから撮り直してるんだって。委員長、張り切ってたわ。」
最近目が合うことの増えたオタクくん三号が笑うのへ、忍は少々照れを滲ませながら「そっか」と笑んだ。
ショートフィルムの五本の脚本は、クラスに忍を含めふたりいる文芸部員が中心となって作成したのだが、ホラーは忍がほとんどひとりで担当したものだ。自分の作品の映像化へ誰かが本気で取り組んでくれるというのには、言葉で言い表せない嬉しさがある。
「お、終わったみたいだな。」
「オッケー!」と明るい声が届いたのへ、オタクくん三号が反応する。忍も頷いて、大きく伸びをひとつ。
「あとは編集班と、当日の給仕のみんなにおまかせだね。」
では各々友人と合流して帰るか、と二人共に立ち上がり、インスタントなので当然ではあるのだが、試飲したからにはきちんと担当者へ「美味しかった」と感想を述べてから紙コップをゴミ箱へ。撮影中につき開けるな、と念を押されていた扉が向こうから開いたのを確認してそちらへ向かったところで、開いた扉の先からガシャンという大きな音が響いた。
「えっ、大丈夫!?」
演技を終えて教室へ足を踏み入れんとしていたホラーフィルム主演の男子生徒が声を上げ、再度廊下へ戻っていく。何事かと忍らも彼を追うと、廊下の中央に台車が一台と、そこから落ちて倒れたと見える、他クラスの大道具が目に入った。
「何だ、事故か?」
つぶやいたオタクくん三号の目の前を横切り、忍が勢いよく現場へ飛び込んでいく。喜んで野次馬するような性格でないのをよく知る彼女のそんな行動へ疑問を抱きかけたところで、彼の目に二人の女子生徒の姿が飛び込んできた。台車のそばに座り込んでいる。
「委員長と……松明?」
「ひーちゃん!」
さほどの大声ではないものの、忍があんなに声を上げるのは珍しい。藩田氏が極秘のつもりで推しているのがバレバレの「ひーしーちゃん」、確かに尊いと申し上げて差し支えないかもしれませぬな……とか考えてる場合じゃねーわ!
「おいおい怪我とか――」
してねえか、と声をかけようとした矢先。
「わ。」
「えっ。」
仁江の身体が、宙に浮いた。
突然のことへ呆気に取られているのはオタクくん三号だけでなく、その場の皆が目を瞬かせている。
「え、まっ……じんじん?」
事も無げに仁江を姫抱きにしたのは、なんと双刃である。
困惑する仁江の声だけを残し、彼はどこかへと駆け出して行ってしまった。慌てて後を追った忍を視線で追いかけ、残された生徒一同は近いもの同士で顔を見合わせる。
え、何が起きた? てか藩田氏、今の今まで拙者と同じドドドモブキャラだったじゃろ! なんだよ今の! イケメンムーブすぎんか???
「本当にごめん! 俺がちゃんと支えてなかったから……!」
「あ……ああ、そうね。気をつけて頂戴。けれど私は何ともないから、謝罪なら改めて松明さんへして。それと、長時間廊下を占有して、こちらも御免なさい。急いでいらっしゃるのでしょう。どうぞ、行って。」
混乱する脳へ、そんな声が届く。オタクくん三号が現場へ視線を戻すと、今まさに立ち上がったところの我らが学級委員長と、他クラスの男子生徒とがしているやりとりが目に入った。なるほど、どうやら彼が台車に載せていた大道具がひっくり返って、委員長と仁江とに襲いかかったらしい。
頭を下げながらも運搬を再開して遠ざかる背中を暫し眺めていた委員長は少しするとこちらを振り返り、いつものポーカーフェイスを少しだけ歪ませてはひとつ手を叩いた。
「お騒がせ致しました。私は大丈夫ですから、皆さん、持ち場へ戻るか、仕事がなければ、速やかに下校してください。」
*****
「やっ……てしまった。」
仁江を養護教諭と忍とに預けては即刻踵を返し、くぐってすぐにピシャリと閉めた扉。そこへ背を向けて廊下で一人溜息をつくと、双刃は項垂れて頭を抱えた。
保健室へ入室したところでようやく我に返った訳だが、陰キャの分際でなんという派手なことをしてしまったのかと、恥ずかしいやら、仁江に申し訳ないやら。
「姫抱きで廊下を爆走って……ギャルゲの主人公くらいしかやらねーだろーがよ……。」
いや……だって目の前であんなの見せられたらさ……パニックにもなるじゃんか……。足首捻ったぽかったし……デコから血い出てたし。
その場に誰もいないのをいいことに、独り言と脳内言い訳とを交互にしながら、重たい足取りで教室へと引き返す。しかし……さすがだったな。なんの躊躇いもなく身を呈して、それほど親しくもないであろう学級委員長を守った仁江。めちゃくちゃ格好良かった。脳内スクショ八万枚撮った。でも……痛そうだったな。
「……大事無いといいけど。」
ぼそりと呟いたところで、上りかけた階段の上方から勢いよく駆け下りる音が聞こえてきた。邪魔にならないよう双刃が端へ避けると、下りてきたのは意外な人物で。
「え、委員長?」
普段、少し急いでいただけでも「廊下は走るな」と口うるさく言うはずの学級委員長その人である。この人が走ってるところ、体育以外では初めて見たな……。
双刃がそんなことを考えているとは夢にも思わないらしい彼女は、息を切らして階下へ向かう足を双刃の目の前で止めた。双刃の視線の先で、珍しく不安そうに首を傾げる。
「松明さんは大丈夫? 藩田くん、保健室へ連れて行ってくれたのでしょう?」
この人にも真顔以外の表情差分存在してたんだ……などと失礼な感想を抱きながらも、つい見つめてしまった真剣なその眼差しから目を逸らし、双刃は頷いた。
「え、えっと……ああ。すぐ出てきちゃったからその……どんな感じかは、わかんない、けど。笑って話してたから多分大丈夫……だと、思う。」
「……よかった。」
心底ほっとしたらしく、委員長は口角を上げる。なんと、困り顔のみならず笑顔までも実装されていたらしい。確実に初めて見た。表情筋、生きてたんだな。
「一応、お礼も兼ねて様子を見に行ってくるわ。」
用事はそれだけらしく、彼女は双刃の脇を抜けて駆け下りていった。想定外の会話イベントを終えてほっとする双刃の背後から、しかし彼女は思い出したように声をかけてくる。
「ねえ、さっきの。ヒーローみたいで素敵だったわ。」
「え?」
振り返り、双刃は目を瞬かせた。振り返った彼女は、口の端に笑みを乗せている。
「後悔しなくていいって言ってるのよ。松明さん本人を含め、きっと誰ひとり、あなたの行動を非難なんてしない。」
真面目で気難しい点ばかりが目立つ学級委員長であるが、クラスの人間を一番しっかり見ているのは、やはり彼女であるようだ。双刃が見切り発車のお姫様抱っこを後悔している様子に気づいて、フォローを入れてくれたらしい。
「じゃあ、私、行くわね。」
「え、あ、ああ……その……ありがとう。」
彼女が消えた先をしばし見つめていた双刃であったが、大きく息を吐いて階段を駆け上がった。余計なことをしたために仁江が口をきいてくれなくなるのではないかと言う不安は残っているものの、なんというか……とりあえず委員長一人だけでも認めてくれたようなので、少し心が軽くなった気がする。
「……まあ、悪いことはして……ない、よな。」
後に双刃、学級委員長が「ひーしーちゃん」同担の別ベクトルコミュ障オタクであることに気づくのだが、それはまだ先のお話である。
*****
理由こそはっきりしているものの、今朝は隣席辺りが賑やかだ。双刃は耳にさしたイヤホンから無接続の虚無を聴きながら、そちらの方へと意識をかたむける。
「大丈夫だってー。そんな謝んないでー。」
お菓子の袋を差し出しては平謝りする相手へ、登校したての仁江がにこにこと応えていた。昨日廊下で起きた小さな事故の加害者が、朝イチで改めて謝罪しに来たようである。
この至近距離でもあるので聞こえてしまったところによると、念の為に昨日病院を受診した結果、仁江に大した怪我はなく、捻った足首は全治三日程度、額の傷も出血こそあったものの、軽い打撲と小さな切り傷ひとつで済んだらしい。本当に良かった……推しが無事で何より。
「じゃあじゃあー、このお菓子はもらうからー、それでチャラねー? もー気にしないことー。おっけー?」
一歩も引かない加害者からチョコレート菓子の袋を受け取り、仁江は諦めたようにそう言った。額に貼られた絆創膏が痛々しいが、調子もいつも通りのようだ。
「ほんとにごめんなさい。お大事にして。」
「ありがとー。お互い、明日は良い出し物にしよーねー。」
ヒラヒラと手を振って彼を見送ったあと、仁江は鞄だけ置いて席を離れる。今日は全ての時間において学校祭準備が行われるため、薄っぺらいそれはいつにも増して軽そうだ。
仁江を目で追った先には学級委員長がいて、どうやら中身の菓子を半分こにするようだ。そういや、怪我がなかったとはいえ、元々被害を受けたのは彼女だものな。
「いーんちょー。これ、半分あげるー。」
「え? いいえ、怪我をしたのは松明さんなんだから、貴女が受け取って。」
「いーから、いーから。もともとはいーんちょーが危ない目にあったんだからさー。ほら、手ー出すっ。」
半ば押し付けるようにして委員長へ菓子を分け、仁江は席へと戻ってきた。慌てて視線を机へ落とす双刃。昨日保健室で別れてから顔を合わせていないため、目が合うのは少々気まずい。
「え?」
視界へ転がり込んできた三つのチョコレート菓子に、思わず声が漏れた。
「さっきもらったの見てたしょー? これー、じんじんの分ねー。」
仁江の声にそちらを向いたところ、視界を彼女の手のひらが遮る。
「だーめ。」
二度目の「え」を口に出したところで、いつもより少し暗い彼女の声が双刃へ紡いだ。
「しばらくはー、あたしの顔見んの、禁止ね。」
ストレートな拒絶に、心臓が握りつぶされたような気がした。
ヒュ、と小さく喉を鳴らした双刃に気づくことはなく、下げた顔の先で、仁江は双刃の目元から左手を離す。
ああ……委員長は慰めてくれたけど、やっぱり嫌われてたか……。陰キャのくせに出すぎた真似するから……。
「え、と……その……コレ、もらっちゃ悪いわ。俺、余計なことしかしてねーし……。」
「え全然ヨケーとかじゃないし。もらって。ね。」
傷心の中絞り出すようにして放った言葉。しかし仁江が伸ばした手により、ずい、と机の真ん中まで菓子が押されてくる。
よく見ると彼女の指先にもいくつか絆創膏が巻かれていた。そうか、倒れてくるものから咄嗟に体を庇おうとしたら、両手が前に出るよな。
「えと……じゃあ、もらう。あ、ありがと……。」
「うん。あは、びっくりしたけどー、昨日はマジ助かったわー。ありがとねー。」
視界の外側で、仁江の声音はいつものそれへと戻っていた。いやさっきの今でこれは逆に胸が痛むから勘弁して……って、いやいや! 話しかけてくれるだけで感謝すべき高嶺の花を相手に、出すぎた真似をした結果だろ。何をがっかりしてるんだ藩田双刃。少し距離を置かれたくらいで、落ち込むのは推しに失礼というもの。相手がほぼゼロ距離でグイグイ来てくれることに甘えて、いつの間にかそれを当たり前と勘違いしていたでござるな……。モブの分際でメインキャラにガツガツ行く地雷ムーブをかましていたかもしれん……。いやはや、これでは痛い夢勢やガチ恋勢を笑えませ――
「……嗚呼。」
ホームルーム開始を告げるチャイムが響く。まだ担任が姿を現す様子はなく、ざわざわと話し声で満ちたままの教室。
「……今気づくのはさ……残酷すぎんだわ……。」
―― 「恋」。
肩を落とした双刃を不思議そうに眺める仁江。「どしたの」と声をかけるその一秒前、ガラガラと古めかしい音を立てて、教室前方のドアが開かれた。
「すまん、遅れたー。みんな早く始めたいだろうし、手短に連絡事項だけ伝えるな。はい、号令。」




