お返しは12本の薔薇を添えて
年長組高校一年の冬。
放課後のドーナツ店。植野香奈朶は新作のシェイクをすすりながら、幼馴染である船井尋の、もはや恒例となりつつあるのろけ話に耳を傾けていた。特に約束もしていなかったけれど、通っている高校が近いと、寄り道の先は自然と被ってくるものだ。
「今日もさあ……忍ちゃんがマジで可愛くてさあ……」
尋が最近交際を始めたという「しのぶちゃん」。実際に顔を合わせたこともなければ、写真すら見たことがない。彼女があまり写真を好まないらしい。よってその「しのぶちゃん」について香奈朶の知っている情報は尋の口から出たそれのみで、要約すると「物静かな美少女」といったところだろうか。「さすがにそれはないだろ漫画か何かかよ」という話も混ざっているけれど、まあそれはいい。恋は盲目というし、こういうのは話半分に聞き流すが吉だ。実際、尋にはそう見えているのだろうから。
「でもさ、珍しいよね。」
そんなことよりも、香奈朶には一つ気になっていることがあった。
この船井尋という男、若干ナルシシストのきらいがあることを除けば顔良し、性格良し、スポーツ万能の所謂「モテ」だ。
香奈朶にとってはきょうだいのようなものなのでしばらく気が付かなかったけれど、中学生活中盤頃から恋人が絶えないのは、つまりそういう事なのだろう。これのどこがよいのだろうか。恋人に対してほとんど体目当てのような付き合い方をするので、もし香奈朶が彼女さんたちの立場ならこれと付き合うのは絶対に遠慮申し上げたい。とはいえ、恋人ができたからと言って香奈朶を含めた友人らを邪険にするでもなし、お相手もお相手でかなりお尻が軽いみたいだし、それなら良いかと気にしないことにしてきた。
「今まで、こっちから聞かなきゃ彼女の話なんてしなかったじゃん。」
「え、そうだっけ?」
だからこそ、「しのぶちゃん」については不思議で仕方無いのだ。
こちらから尋ねてスタイルや顔に言及したことこそあれ、恋人の人となりの話など、これまで尋からは一切出てきたことがない。彼がこうして「しのぶちゃん」について自慢しまくるのはどういう風の吹き回しかと、ずっと尋ねたくて仕方がなかったのである。
「そうだよ。彼女さんのおっぱい、お尻、脚以外の話聞くの、『しのぶちゃん』が初めてだし。」
「人聞き悪いな。」
ココア風味のチュロスをかじり、香奈朶は肩を揺らした。
「嘘は言ってないよ?」
尋は右頬を軽く膨らませ、不服そうではあるが反論はできない様子。
「ねえ、同じのろけでもさ、私が聞きたいこと教えてくれない?」
「何。」
カフェオレに口をつけ、「あち」と舌を出した尋。香奈朶はワクワクする気持ちを抑えきれないといわんばかり、満面の笑みで尋ねた。
「そんなかわいい子にどうやって出会って、どうやって捕まえたのかっ。」
*****
姫川忍は非常に焦っていた。
「どうしよ……ここどこだろ……」
所謂迷子である。しかも高校入学当日の朝、入学式直前に迷子になっている。
諸事情あって高校入学と同時に一人暮らしを始めることになったのだけれど、諸々の手続きや家族の仕事の都合でようやく引っ越しを済ませたのが昨日の夕方。汗を流して一息ついたところで疲れがたたったのか気を失うように眠ってしまい、今朝のアラームに起こされた次第である。とりあえず起きられてよかった、と雑に髪の毛を一つにまとめ、新しい制服に袖を通したまではよかったのだけれど、まさかこんなことになってしまうとは。
「……右かな……さっきから追い越していく車、大抵右折してるし……」
やはり眠気を押してでも昨夜一度、学校まで歩いてみるのだった。時すでに遅し。
時計とパンフレットとを交互に眺め、忍はため息をついた。何度見てもわからないものはわからない。目的地にたどり着くために目印としてまずバス通りの呉服店を見つけなければならないのだけれど、パンフレットに記された地図の範囲外にあるこの住宅街に取り残されては、まずバス通りがどこなのやら。
「こんなことならスマホの契約も済ませてくるんだった……」
住所変更が面倒だからということで、スマートフォンの契約については今週末に母親が来てくれて、一緒にショップへ行くことになっている。要は今、忍には入学予定の富田西高等学校から届いた資料と、それより僅かに見やすい気がする、入学募集パンフレットの地図しか頼れるものがないのである。一旦帰宅しない限りは学校へ連絡を入れることすらできない。
「外で電話ってこういう時に使うんだな……ネットにしか人脈ない引きこもり、パソコンとWi-Fiさえあれば生きていけるとこあるじゃん……SNSの無料通話以外使わなかったから……」
受験の時に親へ甘えて自家用車に乗るのではなく、公共交通機関を使うのだった。そしたらせめてバス通りくらいはわかったろうに。
「やんなるな、もう……」
ぐるぐる頭を回るたらればに潰されないよう、要所要所に独り言をつぶやく。周囲に誰もいないのだ。これくらいは許されよう。
「集合時間まで三十分切っちゃった……」
方向音痴の悪い癖なのだが、焦りもあって正常な判断の下せない忍はとりあえず右へ進んでみることにした。遠くに広そうな道路が見えるので、きっとおそらく多分、正解だろう。根拠は何一つないけれど。
「そもそも入学式、今日であってるよね……?」
もう何もかもが不安になってきた。胃が痛い。同じ年頃の学生が通りかからないかと見渡すも、残念ながら通行人は一人もなかった。近くに三校も高等学校がある人口密集地に高校生がゼロということはないだろうから、もしかすると家族に車で送ってもらったりしているのかもしれない。入学式だし。そうでないと困る。「入学式、実は昨日でした」とかだったら本当に困る。
「もうやだ……こっちで合っててお願い……」
何度も資料を確認しながら進むうち、広い道路に出た。呉服店には大きな看板が出ているとのことだったが、忍の目にそれらしきものが飛び込んでくる様子はない。まずい。本格的にどこへ向かえばいいかわからない。
「戻ろうかな……広い道路の割に車通りも少ないし……ええどうしよう……」
「ねえ、もしかして迷子?」
文字通り、飛び上がった。
思わず飛び退った忍を見、背後から声をかけてきた主は目を瞬かせた後、豪快に笑い声をあげる。
「あっはは! そんな怯えなくても取って食ったりしねーよ?」
心臓が聞いたことのない音を立てている。相手の言葉は理解できたし失礼なことをしてしまったとも気付いたけれど、相手の足元を見つめたまま口をぱくぱくすることしかできない。しかし相手は忍と対極のコミュ強であるようで、そんな忍の動作を面白がりこそすれ、不快に思った様子はなかった。
「それ、西高の制服だよな? もしかして迷ってるのかなって思ってさ。」
優しい声音だ。ようやくの通行人である。しかもこちらから声をかけるまでもなく話しかけてくれた。
「あ、はいっ、えっと、そうなんです……完全に迷子で……」
ほっとして顔を上げ、一体どんな好青年かと一瞬視線を交わすと忍はすぐに視線を落とした。いや、落とさざるを得なかった。
「その地図わかりにくいよな。俺も西高受験したから見たけど、昔っから住んでなきゃこんなんわかんねーっての。」
パンフレットを見、青年はこちらへ寄り添うような言葉をくれるが、忍の方はもうそれどころではない。
着慣れていなさそうな黒いスーツを身にまとう彼は、おそらく忍とは別の私服高校の新入生であろう。自転車にまたがってリュックを背負ったその姿があまりにもまぶしくて、「逆光か?」と斜め上の感想を抱いてしまったくらいには見目麗しい。なんせ顔がいい。この世界線、実は少女漫画時空なのか……? 食パン咥えて曲がり角でぶつかるのと同じくらいとんでもないイベントに出くわしてしまったのでは……?
「俺もそっちの方行くから、近くまで乗ってかない? お互い入学式だろ、遅刻したらやばいし。」
あっ食パン衝突超えましたありがとうございましたいい人生でした。
そんなことを考えつつもどうにか「そんな、申し訳ないです」と返す。もちろん遅刻はまずい。けれどイケメンとの自転車二人乗りも、忍にとってはかなりまずい。その経験をもとに彼をまだ見ぬ他のメンズと掛け算してしまいかねない。根っからの腐女子にはあまりに美味しすぎる。
「いいから。ほら、乗った、乗った。」
いつの間に距離を詰められたのか、イケメン好青年は忍から鞄と書類をひょいと奪うと自転車のかごへ載せてしまった。忍を後ろへ乗せやすいようにか、流れるように彼自身のリュックも詰め込んでいく。前が重くなっては走りにくそうなものだけれどお構いなしのようで、こうなっては断るわけにもいかない。忍は何故か上機嫌な彼の後ろへ「し、失礼します」と一言、腰をおろした。そこで、両手を中空に余らせる。
「え、ええと。」
自転車の二人乗りなど初めてだけれど、引きこもり腐女子生活で鍛えられているので乗り方は存じている。存じているけれどそれって気心が知れている二人だからできる行為であって、初対面の相手には一体どうしたらよいのだろうか。
「あ、二人乗り初めて? 真面目そうだしそりゃそうか。ここ、つかまって。」
己の腰あたりをポンポンと示し、青年は忍へ笑いかける。陰キャがこんなにも陽の者オーラをまとう相手に触れる時点で抵抗がありまくるけれど、なにせ時間がない。もたもたしていては彼の迷惑になるので、再度「失礼します」と口にした忍は今示された位置へ手を添えた。内心はもうパニックである。あ、やっぱりそういう、そういうことになるんですかあの……恐れ多いんですがあの……えっ? 私、死ぬの?
乗っている荷台を掴んでおくよう指示すればいいようなものなのでこれは完全にセクハラなのだが、フィクションにおける薔薇色の世界以外で色恋沙汰に無縁の人生を送ってきた忍にそんなことがわかるはずもない。いつの間にやらBLすら頭の中から消え去って、ただただどぎまぎしてしまっていた。恋愛など自分には関係の無いものと信じていたから気づかなかっただけで、元々面食いなのかもしれない。
「あ、法律違反とか言いっこなしな?」
「の、乗せてもらったら、同罪ですので。」
出発しては風を切る自転車。実家は田舎の方で坂が多いので、乗ること自体が久しぶりだ。行き先が自身の来た方であることに気が付きはしたものの、それどころではないのでもうどうでもいい。方向音痴は生まれつきだ。そんなこともある。わりとよくある。
「軽いね、君。乗せてないみたい。」
忍という荷物を増やしながらも不思議と愉快そうな彼へ、「ソンナコトナイデス」ともはやスマホの音声アシストにも負けそうな抑揚でもって何とか回答する。
そうこうするうち、先程とは別の広い道路へ出た。ちょうどバスが走り抜けていったところで、これこそがバス通りであることを悟る。さっき右に曲がったところ、左に行けばよかったんじゃん……。
「あれが呉服店ね。デカいっちゃデカいけど、目立つかって言うとそうでもない看板だよなあ。」
運転の片手間に青年が指さした先を忍が見上げると、確かに大きな、しかし古く錆びた看板が掲げられているのがわかった。たとえまっすぐこちらの道へ出られたとして、この看板は見つけられなかったかもしれない。
「あれは気づかなかったかも……。」
「俺が寝坊したことに感謝してくれよなっ。歩きで通う予定のところ、ダチに置いてかれたからチャリで来たんだ。」
話を聞くほどに忍がこれまで関わったことのないタイプの人だ。陽キャにはよいイメージがなかったけれど、認識を改めなければならないかもしれない。
そんなことを考えるうち、自転車が緩やかな下り坂に差し掛かった。どこから湧いてきたのか、唐突にたくさんの高校生が視界へ飛び込んでくる。手が離せず時計は確認できないものの、皆早足に歩いていることから急ぐべき時間になりつつあるのだろう。
「追いついたっぽいな。」
そんな同輩らしき人々を追い抜いて、自転車は緩く長い坂を下る。下りきったところが分かれ道になっていて、三叉路には「七道男子高等学校」「華雪女子大学」「華雪女子大学付属華雪女子高等学校」と書かれた看板が並んでいるのが見えた。どれも右方向への矢印を掲げている。「右へ曲がります」と気取った声をくれた青年へ「はい」といっぱいいっぱいの返答をひとつ、忍はやや両腕に力を込めた。
更にしばらく走った後、よい声音をよこして青年は自転車を減速する。
「自転車が止まります。ご注意ください。」
忍を下ろしては「ガッコにばれたら困るからここまでな」と肩をすくめ、青年は道の先を指さした。
「パンフレットにもあったはずだけど、もう少し行ったらさっきの看板に書いてた学校たちがあって、西高はその先な。ちょっと見えてるあれがそう。」
そちらを見、坂を上った先にかすかに見えている校舎の影を視認する。よかった……間に合いそうだ。
「本当にありがとうございました。助かりました。」
「いいよ、いいよ。登校初日からイレギュラー起きて、緊張ほぐれたわ。」
どこまでが本当なのか、緊張などとは無縁そうな青年は忍へ鞄を渡してくれる。気の利いたことも言えない忍だが、彼は次いで先程忍から奪った書類を差し出しつつ、にこにこと笑顔だけくれた。
「あの、持ち合わせがないのでお礼もできなくて……」
「あはは、いいっていいって。かわいい子乗せられて役得だったし。じゃ、俺行くね。遅刻しないようにな。」
鞄に書類を押し込みつつおどおどしている間に、サッとリュックを背負い、青年はペダルに足をかける。
「あ……せめてお名前だけでもっ。」
「名乗るほどの者ではございませんっ。」
漕ぎだしては背を向けたまま「って言ってみたかったんだよね」と彼。そんな茶目っ気たっぷりのセリフを置いて、風のように行ってしまった。
しばらくは立ち尽くしていた忍だけれど、周囲からの奇異の視線を受けて我に返る。そうだ、そもそも遅刻しそうなのである。行かなければ。
示された通りの道順を早足に歩みながら、彼の消えていった七道男子高等学校とやらを見上げた。大きくて立派な学校だ。しかも道路を挟んで反対側にはもう一校、おそらく華雪女子大学付属華雪女子高等学校とやらが聳えている。威厳のあるたたずまいだ。私立、すごい。
「ん?」
違和感を覚え、忍は両手へ視線を落とした。指先から肘にかけて小刻みに震えている。自転車に乗っている間、変に力が入っていたせいだろうか。言うほど強い力を加えていたつもりは無いのだけれど……と、そこまで考えて。
「……まずいな、これは……」
早足のせいにしては強すぎる動悸と、鏡で確認するまでもなく紅潮した頬。高校生活初日から頭を抱え、とにもかくにもあと十分で教室に入らなければいけない。
住む場所が違う相手、雲の上の人、高嶺の花。
「はあ……不毛だ……」
そんなものへ抱いてしまった淡い恋慕を憂いながら、忍は嘆息の後、地面を蹴った。
*****
校門を出て、肌寒さに身震いした。
「しっかし、野郎からの二個だけかあ。」
男子校のバレンタインは味気ないな、と船井尋は息を吐く。我ながらそこそこモテてきた人生なので、今日ほどもらったチョコレートが少ないのは初めてのことだった。というのも、最悪なタイミングで先週、彼女に振られたところなのだ。
「ま、覆がブラウニー焼いてくれるみたいだし、いっか。」
幼馴染の飛来覆。「作ってやるから取りに来い」と連絡してきた高校入試間近の彼もまた男子だが、おちゃらけたクラスメートから「可哀想なメンズ達にアタシからプレゼントよーん」ともらったそれより、正直めちゃくちゃ楽しみである。何せ彼のブラウニーは確実に美味しいのだ。なんなら市販品よりも。
受験勉強もあるだろうから遊びに行くにはまだ早い時間だけれど、今日は部活もないし、これから美味いものをいただくのだから買い食いなんかして腹を膨らすのも勿体ない。
「……早めに行って、作るの手伝うか。」
尋は一つ伸びをすると独り言をひとつ。自宅の方向へ爪先を向けた。
「あ、あのっ。」
それは消えてしまいそうなくらい小さな声。もしも今ここを車が通り掛かっていたら、聴き逃していたかもしれない。
誰にかけられたかも分からないその呼び掛けへ気まぐれに振り返った尋は、声の主であろう少女がまっすぐこちらを向いているのに目を瞬かせた。
「え、俺?」
「は、はい。」
そちらへ向き直ると、彼女は一切運動神経の感じられないフォームでとてとてと駆け寄ってきた。長い髪をツインテールにしたかわいらしい女の子だ。西高の制服を着ている。長めのスカートに黒タイツ……うん。付き合ったことないタイプだ。いいね、めっちゃかわいい。
「えっと……その。」
「うん?」
スレンダーで身長は一五五センチくらいだろうか。尋にとっては見覚えのない子である。大人しそうな見た目通りおしゃべりは苦手なようで、目を泳がせながらこちらへ何か伝えようとしているけれど、上手く言葉にできないようだ。
バレンタインデーに女の子から呼び止められたのだから、用件はおそらく一つであろう。やった。何か知らないけど、美少女からチョコもらえそう、俺。
はやる気持ちを抑えつつ言葉の出てこないのを尋がしばらく待ってやると、彼女は意を決したように手にしていた紙袋を勢いよくこちらへ差し出した。
「い、以前のお礼に……あのっ、受け取ってくだされば……嬉しい、ですっ。」
顔を伏せたまま絞り出された声。手が震えているのがはっきりとわかる。
女子からのチョコレートだ、と認識して喜ぶ気持ちと、さてお礼とはなんぞや、と訝しむ気持ちが交錯する尋であったが、こういうイベントはいいように利用するが吉。
「えっ、お礼なんていいのに。もらっちゃっていいの?」
さも「覚えてますよ」という顔をして、うんうん頷く女の子からダークグレーの紙袋を受け取った。いいのだ。もし彼女が別人へのお礼を誤って自分に渡していたとして、もらってしまえばこちらのもの。おっぱいがもの足りないのと陰キャのにおいこそするものの、目の前に立っているのはどう見たって絶対に逃しちゃいけないレベルの美少女なのだから、なんであれお近付きになるきっかけにしてしまおうという魂胆である。いやあ、校門から続々と出てくるメンズ共からの羨望の目。気持ちのいいこと。
「ありがとう。めっちゃ嬉しい。」
いくら下半身に脳みそがついているとはいえ、こればかりは本心である。女の子からのチョコレート。心の底から欲しかった。危うく母親と香奈朶以外の女子からもらったチョコレートがゼロ個という、過去最低記録をたたき出してしまうところだった。
さて、紙袋の中をちらと覗いてご機嫌の尋は「まずお名前でも」と顔を上げたわけだが、彼女はそこで更に深々と頭を下げ。
「受け取っていただけて嬉しいです……。あの、その節は本当にありがとうございました……っ。」
踵を返し、西高の方へ戻って行ってしまった。
「あ。」
「待って」と声をかける間もなく駆け足に遠ざかった背中。走って追いかければきっと簡単に追いつけるけれども、運動音痴丸出しで必死に逃げていった女の子を、曲がりなりにもスポーツマンの自分が追いかけるのはどうかと思うので。
「まあ最悪、付和に聞けばまた会えるか。」
山椒付和。尋の友人で西高に通う幼馴染である。ここまでで既に幼馴染が三人登場しているが、周囲に子供の多い環境で育ったため馴染の人間が多く、人脈には事欠かないのがこの船井尋というプレイボーイの厄介なところ。もう手中に収めたつもりの新たな縁に胸躍らせ鼻歌を歌いつつ、帰路へつかんと回れ右をした。
「羨ましいことになってんじゃん。」
そんな調子なので、背後にぴったりと立った影になど全く気づかないわけである。
声の主、尋より十センチは低いかという身長の眼鏡をかけた少年は、露骨に飛び上がった尋の様子に肩を震わすと、見た目にそぐわぬ大人びた笑みを浮かべて見せた。
「びっ……くりした。すぐちんかよー。こんなとこで何してんの?」
「通りすがりに少女マンガみたいなワンシーンが見えたから、冷やかしに来た。」
赤磐傑。尋より二つ歳下の中学生。これまた幼馴染である。
「何、告白?」
「いや、お礼だって。見覚え無かったから人違いかも知んないけど。」
「それなのに受け取ったのかよ」と眉間に皺を寄せた良識ある弟分へ、尋は悪びれることも無くけらけら笑ってみせた。
反面教師がいるというのは人生で大変役に立つ。傑は二度、三度と頷いた。こいつのようにはならないようにしよう。
「すぐちん袋提げてっけど、買い物?」
「覆のお使い。材料買ってったら、ブラウニー代免除してくれるっていうから。」
そう、覆のブラウニーだが、タダでもらえるわけではない。労力、材料費諸々は覆の負担であるので当然、対価を要求されるのである。経験上、最低でも倍返しだ。まあ美味しいお菓子と可愛い弟分のためなら、多少の身銭は喜んで切るけどさ。
「すぐちん運んだら俺も買い物行ったことになんないかな。」
「なんないと思う。」
そんなやり取りをしながら傑が製菓店に停めていた自転車を尋が回収し、我が物顔でサドルを上げて腰かける。傑はそれを確認すると、後ろの荷台へまたがった。
「何、タダで漕いでくれんの?」
「くれんならもらうぜ、すぐちんのブラウニー。」
船井尋、一年近くも健全な男子高校生をやってきたので、かつては「怒られたら困るな」と後ろめたさのあったニケツにも既に一切の抵抗が無くなっている。怒られてからやめりゃよくね?
「ぜってーやんねー。」
「あはは。残念。」
せっかくもらったのに潰れたら事だということで、尋は持っていたチョコレートを傑へあずけた。こちらも慣れたもので、受け取って抱えたままバランスを取るくらいお手の物である。傑、クラスではわりと真面目で通っているのだが、幼馴染がこんなのばかりなので、根っこまでクソ真面目に育ちようがない。
「あれ、尋。これ手紙入ってるよ。」
「いいもんもらったなー」と茶化しつつ検分していた傑だが、しばらく坂を昇ったところで声を上げた。
「えっ、まじで?」
息を切らしつつ「読んで読んで」と尋。ラブレターなのにデリカシーのない男だなと思いつつ、そんなことは十年前から存じている傑は言われた通りに手紙を読み上げた。読み終わった後で見なかったことにしますから……許してください、さっきのお姉さん。
「えっと。『船井様。お名前につきましては、先日下校中にお友達との会話を偶然立ち聞きしてしまい、存じておりますことをご容赦ください。』」
「俺のダチみんな声でかいからなー。個人情報なんてあってないようなもんだわ。」
傑の体感、街中でやかましい高校生の集団を見かけるとその中にはだいたい尋がいる。
「やばいもんな、尋の界隈。」
他人のフリにもすっかり慣れてきた今日この頃だ。あまり騒ぐと恥ずかしいからやめてほしい。
「続けるよ。『入学式の日には、初対面にもかかわらず、迷子の私を学校付近まで送り届けてくださり、本当に助かりました。』」
「入学式……?」
はて、と尋は記憶を辿る。何せ十ヶ月も前の話だ。毎日が刺激的な陽キャにとっては、はるか昔のこと。すぐには思い出せない。
「やっぱさ、人違いじゃねーの?」
「かなあ。……入学式……入学式かあ。」
入学式の日は確か、団地の上の階に住まう友人で同い年の磯井惺と一緒に登校する約束をして、夜更かししたせいで寝坊して、無情にも置いていかれたから確か自転車で……
「ああ! あの子だ!」
突然大声を上げた尋の背後で傑がびくりと身を震わせた。思い出しては納得して、尋は「いやあそういうことね」と呟く。
「入学式の日さ、寝坊して惺に置いてかれたからチャリで向かったんだけど、迷子になってたあの子見つけてさ。拾って乗っけて、ガッコの近くまで走ったんだよ。思い出した、思い出した。」
「まじで……? てか二人乗りまでして相手の顔忘れてんのやばくない? 脳、三ビットか?」
容赦のないディスに軽く振り返り、「あの時より今日の方がかわいかったから仕方ねーだろ」と尋。だって俺の記憶が正しければあの子もっと芋かったもん。後ろに乗せようと思ったくらいだから元々かわいかったのには違いないだろうけれど、連絡先聞かなかったわけだから少なくとも「おっ」とまでは思わなかったんだろうし。高校デビューかなあ。いいね。そゆのすき。
嘆息した傑へ尋は続きを促した。信号待ちでしっかり荷台を掴み直し、傑は手紙の続きを読み上げる。
「『本日は突然このようなものをお渡ししてしまい、困惑されたかと思います。私のことですからきっと挙動不審だったでしょうに、受け取ってくださって嬉しいです。赤の他人からの贈り物ですし、気持ち悪ければ捨てていただいて一向に構いませんので……とにかく受け取っていただけただけで、私は満足です。ありがとうございます。』」
「謙虚ー。捨てねーって。ますますかわいいなあ。」
上機嫌な尋。全て読み終えては便箋を戻した封筒を裏返して、傑は彼女のものであろうサインを発見した。匿名なのかと思ったがよかった、きちんと記名がある。これならこいつにきちんとお返しさせることが出来そうだ。これだけきちんとしたお相手なのだから、もらいっぱなしになどさせるものか。
「姫川忍さん、だって。印象どおり、綺麗なお名前だね。」
「ひめかわしのぶ……しのぶちゃんかあ。お淑やかな感じがぽいな、確かに。」
二人共の住居が入った団地へ到着し、尋は自転車を停めると籠から二人分のカバン類を拾い上げ、傑からは「しのぶちゃん」からもらった紙袋を受け取った。傑がサドル位置を戻して駐輪場へ向かうのを見守りながら紙袋を開き、ペールグリーンの可愛らしい封筒から便箋を取り出す。
「ギャルとはやっぱ全然違う字書くんだなあ。」
細く小さい、でも読みやすい文字だ。うん、やっぱりかなり、グッとくる。
「ホワイトデー、ちゃんとお礼しろよ?」
にやける背後から、いつの間にか戻っていた傑に声をかけられる。尋は振り返り、双眼を三日月に曲げた。
「あは。ホワイトデーまで待つ必要とかある?」
*****
昨日とは打って変わって、今日の目覚めは最高だった。気持ちスキップ気味に朝の通学路を行き、忍は軽く伸びをする。
高嶺の花へ恋患って早十ヶ月。別の高校へ通っているとはいえ学校同士が近隣のため、見かけることの多かった彼を目で追う生活にはそろそろ限界を感じていた。ストーカーと思われでもしたら大変だと思いつつも、ついつい視線を向けてしまったり、ご友人との会話に耳を傾けてしまったり。
「ようやく成仏だ。」
昨日は心臓が破裂するかと思った。何か行動を起こさなければこのまま初恋をこじらせてしまうと思い悩んだ結果、バレンタインデーというイベントを利用することを思いついたのだけれど、勢いでチョコレートを購入してしまってから、己がプレゼントを渡すことはおろか他者へ話しかけることすらままならない人間であることに気づいたのである。買ってしまったからには引っ込みがつかない、と七男の校門で出待ちしたまではよいが、迷惑ではないだろうか、要らないと突き返されやしないだろうか、などと要らぬことばかり考えてはギリギリまで悶々としていた。
けれど、声をかけてしまえばあっけないもの。元々その優しさに惚れたのだから、無碍にされるはずなどなかったのだ。本心のところはどうだかわからないけれど、「ありがとう」と、「嬉しい」と彼は忍へ微笑んでくれた。最後に笑顔まで拝見できて、「よい恋であった」と区切りをつけることに成功したわけである。
初恋は叶わぬものと聞いていたけれど、まさか自分にここまで綺麗に当てはまることになろうとは。これまで男性との関わりなど父親と祖父くらいしか無かった忍。そこへ唐突に少女漫画もびっくりのイベントが発生してしまったのだから、恋に落ちてしまうのも道理ではないだろうか。あれ以来、三次元のイケメンにも興味がわくようになってしまった。アイドルはいいぞ。あれは夢の塊だ。
陰キャオタク女の分際で面食いだということに気づいてしまったことはかなりの衝撃だったものの、狭かった視野が広がったことには感謝している。創作を生業にしたいと目論む忍にとって、視野や世界は広ければ広いほど良いのだ。
「今日から心機一転っ。まずは積読をなんとかしなくっちゃな。」
積読の前にテスト勉強を何とかすべきだが、今は晴れやかな気分なのだ。珍しく前向きな自分自身へ水を差す必要はない。いつも声をかけてくれる呉服店の奥様へ挨拶を一つ、下り坂を駆け抜けんとした忍を、しかし今朝は呼び止めるものがあった。
「姫川さん。」
あまりに自然に呼びかけられたので、忍の方も特別驚くわけでなく声の方へ首を回す。目に飛び込んできた光景を理解するより前に、彼は自然に忍へ並んだ。
「おはよ。よかった、ここにいたら会える気がして待ってたんだ。」
「一緒に行こ」と、位置取りは当然のように車道側。反射的に目を逸らした忍の視界の隅で笑顔を向けてくる相手はなんと、昨日昇華した初恋の相手、船井尋である。
「ふ、ふな……えっ、船井くん……?」
「うん。あ、下の名前、尋ね。よろしく。」
「行こう」と促されたので混乱しつつも歩みは進める。パニック寸前の忍は正面を向いたまま目を泳がせた。沸騰しているみたいに顔が熱い。言葉は届いているが内容が理解できない。え、何これ? 夢? あとお名前「ひろ」くんなんだ……もっとキラキラしてるのかと勝手に思ってたけど親しみやすいお名前だった……偏見よくない……。
「あ、いきなり待ち伏せしてごめんな。怖いよな、こんなことされたら。」
混乱して返事はできないまでも、謝られたので首を横に振る。忍のそんな様子へ相変わらず機嫌のよさそうな笑顔をくれながら、尋は「ならよかった」と一旦正面へ視線を向けた。
「嫌がられたらどうしようかってだけ心配でさ。いやあ、よかった。ちゃんと会えて。」
「そんな。嫌なわけ、ない、です。」
「何で敬語」と笑う彼に、忍は「まだ三度目ましてなので」と、完全に語彙力を失った返答をしてしまう。けれど相手に困惑した様子はなく、「礼儀正しいなあ」と笑ってくれた。
「一緒の日に入学してるってことは十中八九同い年なんだからさ、もっとフランクに話そーぜ。」
どうしよう。肩の荷が下りたことで舞い上がって都合のいい夢を見ているのだろうか。忍は右手で太腿をつねり、痛みに顔をしかめた。どうしよう……現実だ……。でも今の痛みで、少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。
「あの……」
「うん?」
やっとの思いで二音発すると、十五センチくらい上から優しい声が降ってくる。
「声をかけていただ……かけてくれて、嬉しいんだけど……どうして、待っててくれたの?」
忍は一度息を吐いて呼吸を整えると、なんとか彼の胸元あたりを見ながら尋ねた。顔面は無理。まぶしすぎる。
「ああ、昨日お礼言い損ねたからちゃんと言いたかったんだけど、連絡先知らないからさ、単純に通学路で待つのがてっとり早いかなって思って。」
「最初はこの辺で会ってるわけだしな」と尋。どうやら忍がここを通りかかるのをずっと待ってくれていたらしい。どちらかというと登校は遅い方なので、悪いことをしてしまった。
「本当にありがとな、チョコ。美味すぎて昨日の内に全部食っちゃったわ。」
笑う尋へ「思った以上にちゃんとした人だ」と若干失礼な感想を抱きつつ、忍は顔の前で両手を振った。
「ううん、私が渡したかっただけだから。受け取ってもらえて、ありがとうは私の台詞だよ。」
それから不意に不安になって、彼の喉元あたりをどうにか見上げ、首をかしげる。
「その……気を使わせちゃったかな?」
忍としてはお礼のつもりだったけれど、自身に置き換えるといきなり何か「もの」を渡されるというのは相手に申し訳ない気持ちになってしまうかもしれない。そんな気持ちにさせてしまったのなら心苦しい。やはり慣れないことなどすべきではなかったか。
そんな忍の様子を見、尋の方は「気の利くいい子過ぎでは?」と目を瞬かせているのだが、自己肯定感をほぼ所持していない忍に伝わるはずもなく。
「ううん。今年は女の子からチョコもらえないかと思って悲しかったから、姫川さんからのチョコ本当にうれしくてさ。直接お礼言いたくなったんだ。」
尋のそんな返答にも「本当かしら」と訝しむ忍。そもそも普段恋人が絶えない様子の彼に限って、忍以外からのチョコがゼロということは考えにくい。それに彼には忍と同じ西高へ通う友人もいるはずなので、礼を言うだけならば言伝にもできそうなものだ。それをわざわざ寒い中、来るか定かでない自身を待ってまで伝えてくれたのは、やはりかなり気を遣わせてしまったのではないだろうか……? あと、今一緒に登校しているけれど、まだ見ぬイマカノさんに刺されたりしないかしら……ギャルはこわい……。
尋、何一つ嘘は言っていないのだが一つも信じてもらえていない。完全に自業自得ではあるのだが、ほんの少しだけ哀れである。
「それに、直接じゃないと言えないこともあるじゃん?」
「え?」
さて忍が思考の海へ沈みかけたところへ可哀そうな尋の言葉が届く。反射的に見上げた彼の顔がみるみる忍へ近づいて、状況を理解する前に耳元で薄い唇が紡いだ。
「俺単純だからさ……チョコもらって舞い上がって、姫川さんのこと好きになっちゃったかも。」
そこからどうやって自席にたどり着いたのか、忍には全く記憶がない。気が付いたら一時間目の授業が始まっていて、普段から真面目に授業を受けていた習慣のお陰かきちんと教科書類は机上にそろっていた。
席が一番前であるのをいいことに、忍はこっそりと机の中からスマートフォンを取り出す。メールアプリの友達一覧へ「hiro」の一行が増えているのを確認して、そっと画面を消灯すると再度右の太腿をつねった。
きちんと、痛かった。
*****
一通り尋の話を聞き終え、香奈朶は目を瞬かせる。尋本人から「しのぶちゃん」が大人しい子だとは聞いていたけれど、尋のことだからどうせ清楚「系」だろうと踏んでいたのだ。なれそめを聞く限りでは本当にいい子そうである。
「そうだそうだ、話してて思い出したわ聞こうと思ってたんだ。ホワイトデーって何渡したら喜ぶと思う? 迷ってんだよね、まだ。」
尋の質問に「そんなにいい子なら何だって喜んでくれるよ」と無難な回答をしつつ、こうなってくると香奈朶的には懸念が生じてくる。
「ねえ、尋。」
「ん?」
こいつは百戦錬磨のプレイボーイ。相手は小動物みたいな大人しい女の子。
「まさか、無理やりえっちなこととかしてないよね……?」
飲み物を吸い込んでむせた尋。ストレートに尋ねすぎなのである。いくら小声でもここ外だぞ。
とはいえ香奈朶は至って真面目。真剣な視線で問われては、尋はポリポリ頭をかいた。
「……してねーよ。まだ、ちゅーもしてない。」
絶句した香奈朶へ、尋は罰がわるそうに「あー」と低く唸る。
「嘘……一か月経つのに……?」
「そーゆーこと……。惚気多くなってんのも、さっき言われて初めて気づいた。」
香奈朶から目を逸らしては露骨に照れる尋。下半身に脳みそが付いてると思っていた幼馴染が、何ということだ。こんなに可愛い恋愛をしている。
「『しのぶちゃん』、大事になっちゃったんだ?」
「……」
にまりと笑んで、香奈朶は最後のドーナツへかじりついた。これはいいことを聞いた。そしてもう一つ気になることができた。
「ねえ。今度私にも『しのぶちゃん』、紹介してっ。会ってみたい。」
「絶対ヤダ……ここまで聞かれたからには、しばらく絶対会わせねー……。」
このどうしようもない幼馴染をひと月足らずで変えてくれた、まだ見ぬ美少女の正体だ。




