22.“H2O×2→2H2+O2”とはなんの記号だ?
「まったくしょうのないヤツじゃ……。アレクサンドラ様、大事ないかの」
昔から我が家と親しいお付き合いのあったマルティン先生は、わたくしのことを名前でお呼びになります。
「ご心配ありがとうございます。問題ございませんわ」
わたくしはマルティン先生に礼を言うと、扉を開ける先生に続いて実習室に入りました。
前の扉を入ってすぐに教壇と黒板があるところまでは一般教室と同じですが、実習室は教壇の前に結界の張られた大きな空間があり、それを囲むように机と椅子が設置されております。
そこにはレグノルトのほか、授業を受ける生徒たちがすでに座っておりました。
魔術のマスタークラスは奥許しをいただいたものだけが選択できる授業なので、人数は五人とかなり少なめです。
「さあ、それでは授業をはじめるぞい。皆、課題はやってきたであろうな」
マルティン先生は教壇に立つと無駄話をせず、すぐに本題へと入りました。
わたくしはノートに挟んでおいた課題を机の上に出します。新しい呪文が書き込まれた護符です。
この世界は火、土、水、風の四大元素によって構成されております。そして、そのエーテルに霊が宿ったものが精霊と呼ばれます。
エーテルは常に動き、拡散し、基本的に人間には認識できるものではございませんが、精霊であればその力を利用することができます。
ですが、超自然的存在である精霊には意識のようなものがあるものの、神秘の力が薄れている現代では人とは意思疎通はできないというのが定説です。
そのため、わたくしたちは神の力を宿す神代語で構成された呪文を使って精霊に命令し、自分の魔力をエーテルに変換してこの世界に“実在化”させます。
これがわたくしたちの精霊魔術の原理です。
神に祈り、そのお力をお借りする神霊魔法というものもございますが、そちらの呪文も基本的に神代語です。
ですので、魔術師を目指す場合、神代語の習得は必須となります。
もちろん護符に書かれている呪文も神代文字です。ただ、スペースに限りがあるので簡略化されております。
おかげで護符は声で唱える呪文よりどうしても威力が弱くなるのが欠点です。声の場合は言霊の波動も加わりますからね。
ただ、そのかわり、護符は術が発動するまでに時間がさほどかからず、相手に気づかれにくいという利点があります。
だから、先日のスリ防止の防御魔術などにはぴったりなのです。
少しでも護符の威力を高めるために、術者は呪文以外にも効果のある紋や記号を護符に書き込みます。
マスタークラスの初期課題は、自分の目的に合った組み合わせの呪文と記号を見つけ、新しい護符を作成するというものです。
最初は既存の護符の改良などからはじめて、最終的には自分のオリジナルの護符の作成を目指します。
実はわたくし、最初の授業ですでにスリ防止の護符を作り、初期課題の最終目的を達成してしまっております。
ただ、威力の弱い護符は魔力のコントロールも容易ですし、作るのが簡単なのです。
今はもっと威力の強い護符をつくるべく、研鑽中です。
何人かの生徒が発表を行い、わたくしの番になりました。
教壇に立ち、教室中の注目を浴びているのを感じながら、わたくしは護符を広げました。
そこに描かれているのは火球の呪文。
といっても、護符は手のひら程度の大きさです。離れた位置からは見えにくいので、同じものを後ろの黒板に板書いたします。
「火球の呪文に水の精霊の紋だと……」
レグノルトの呻くような声が聞こえます。
「“H2O×2→2H2+O2”とはなんの記号だ?」
学生たちの間にも戸惑いと驚きが広がっています。マルティン先生は食いつくように黒板の文字を見つめています。
「火球の呪文に風の精霊の力を加えると効果を高めることができるのは、皆さんご存じかと思います」
わたくしは教壇から結界の張られたスペースへと進み出て、護符に自分の魔力を流して術を発動させました。
勢いよく護符が燃え上がり、その炎は天井まで達するほどの大きな火の玉を作り出します。……ええと、ちょっと力が強すぎたかしら?
表面上は落ち着いた振りをしつつ、わたくしはすみやかに魔力を打ち切り、術を解呪いたしました。
そしてゆったりと歩いて教壇に戻り、実習室の中を見渡します。……よし、想定より火球が大きかったことは誰にも気づかれていませんわね。
「同様に、水の精霊の力を使っても、このように強い力を得ることができます」
火球の呪文は火の精霊に火の玉を作ることを命じる呪文です。
精霊は術者の魔力を火のエーテルへと変換し、火球を生み出します。その大きさや威力は呪文で定められますが、術者の魔力量にも左右されます。
今回わたくしが使ったのは、一番威力の弱い初歩の呪文。普通の状態で発動させるのであれば、火球は猫の頭程度の大きさになります。そこに水の精霊への命令も加えることで、わたくしは約十倍ほどの火球を生み出したのでした。
「水は火を打ち消すものでは?」
「常態ではそうなります。ですが、水を分解してふたつの気体にすることで、火の精霊に力を与えるものに変化させることができるのです」
マルティン先生の質問に、わたくしはH2O×2→2H2+O2の部分を指さしました。
あちらの世界では中学生ぐらいの時に習う、水の分解式です。
不思議なことですが、あちらの世界の“化学”はこちらでも通用することがあるのです。
いえ、わたくしが把握していないだけで、物理や天文学なども同じ法則なのかもしれません。
重力というものもございますし、星の形は違いますが月は一つで、暦も近しいものが使われておりますから。
「水を分解……?」
H2Oは水を表す言葉です。それを水素と酸素……H2とO2に分解します。H2OだけではOがひとつ足りませんので、H2Oを倍にして式を成立させます。H2とO2の混合気体はよく燃える燃料となりますが、先に水素に火を付けてから酸素を流さないと、爆発して大変なことになります。
――などと説明しても、きっとわかりませんわよね。
いえ、わたくしがもっと科学に精通していれば上手に説明できるのでしょうけれど、前世ではいわゆる“文系”でございましたので、基礎となる知識が足りないのです。
例えば水を電気分解すると水素と酸素に分かれるということは、中学で実験しましたので体感しておりますが、では具体的ににどういう理屈で分解されるのか、酸素や水素とは何だ、なぜその二つの気体から水という液体が生まれるのだと細かく突っ込まれると困ってしまいます。
実際、スリ防止の防御魔術の護符を作ったときは、静電気が発生する仕組みについて山のように質問されたものの、そのほとんどに答えられず、最終的に「そういうものだから」で押し通してしまいました。
「火には熱・光、風には伝達・感覚など、エーテルにはいくつかの性質がある、ということは皆様ご存じかと思います」
わたくしは頭の中を整理しながら、ゆっくりと説明をいたします。向こうの言葉をこちらの世界でも理解できるように変換しなくてはなりません。
「わたくしは、水をふたつの性質にわけて燃料とするよう、精霊に命じております。そのための記号が“H2O×2→2H2+O2”ということです」
本格的に魔術の勉強を始めたとき、わたくしは戯れに前世の化学式を護符に使ってみたのです。
それは今とは逆、水素と酸素を結合して水とする化学式でした。
驚いたことに水の精霊はその化学式に反応し、わずかな水滴ですが、その場で水を生み出したのでした。
精霊が化学式を理解するのであれば、前世にあった便利な化合物なども作れるのでは!?
ビニールやプラスチック、合成ゴムやポリエステルなど、こちらの世界でもあったら便利だと思うものはたくさんあります。
思わぬ可能性に大興奮したわたくしでしたが、すぐにそれが難しいことにも気づいてしまいました。
だって、わたくしはビニールの化学式を知りません。プラスチックも合成ゴムも……前世にあったさまざまな便利な製品が、何からできていて、どうやって作られているのか、ほとんどわからないのです。
それどころか元素記号ですら記憶があいまいです。
もしも前世のわたくしがもっと化学に興味があったなら、異世界知識を使ってのチートとやらができたかも知れませんのに……。
わたくしが“理系”でなかったことは返す返すも残念です。
「ふたつの性質とは、2H2+O2の部分のことかね」
「はい。H2Oが水という意味の記号です」
さすがにマルティン先生は理解が早いですわね……と、思ったのですが。
「なるほどのう……うむ、わからん」
先生は大層いい笑顔で、そうおっしゃいました。
黒板を見ながらさらさらと護符を作成した先生は、結界に進み出て術を発動させました。ですが、護符は小さな火球に変化しただけです。
「やはりわしでは使えんか……。相変わらず、アレクサンドラ様の術式は解析できんのう。しかし、護符はしっかり発動しておるから合格じゃな」
そう、化学式を使った護符は、今のところわたくし以外の人には使うことができないのです。
おそらく術者が術式を理解していないと、精霊もまた命令を理解できないのではないかと、わたくしは推測しております。
ただ、わたくしも水の分解の仕組みを完全に理解しているとは言い難いのに精霊が反応するのですから、水は水素と酸素に分離するということさえ術者が納得しているならば、化学式は効力を発揮するのでしょう。
「その記号はどこで知ったのです、教えなさい!」
レグノルトの甲高い叫び声が教室に響き、わたくしは眉をひそめます。
「申し訳ございませんが、それは明かすことはできません」
前世のことは言わないと心に誓ったのですから。
もっとも、そうでなくても元素や化学式をこちらの世界の人に理解できるよう説明できるかどうか……自信は欠片もありません。
「なんと! あなたは魔術の徒として私に教えを受けながら知識を隠蔽しようと」
「魔術師が己の手の内を秘匿するのは当然のことであろう。術式は公開されておるのだ。悔しければ自分で読み解きなさい」
いきり立つレグノルトに、マルティン先生が強めの釘を刺します。
魔術師の秘密主義はこういう時に役に立ちますね。
「他の皆も同じじゃぞい。魔術とは知の探求じゃ。安易に教えてもらおうとするのではなく、自らが解読せねば己の力とはならん」
マルティン先生の言葉に、生徒の方たちは揃って頷きます。……唯一、不満げにしているのが助手のレグノルトなのですから、困ったものです。
「皆、それぞれの護符は書き写したな? それではこれから他人の呪文の解析タイムじゃ。悩んだときは作成者のクセや性格なども考えるとヒントになるかもしれんぞ」
わたくしたちは一斉にノートを広げ、その後の時間いっぱい、他の人の作った呪文を解くべく頭を悩ませたのでした。
火の精霊「火球を作れとだけ命令されるより、燃料を指定して燃えろと言われた方が分かりやすい」
水の精霊「記号はよくわからないけど、水とは分離するものだ。当たり前のことだ。術者が分離しろと言ってるから分離してやるか」
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次回は水曜日昼に投稿いたします。
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