【KAC2022】俺に猫の手はいらない
[痒いとこまで手が届く! 猫の手、貸し出します。なんでも屋 猫の手]
手のひらサイズの紙が、改札出て正面の柱に貼ってあった。黄色地に黒文字が目を引く。
妙な広告だな。痒いところって、そりゃ孫の手だろ。猫の手で掻いたりしたら、血まみれになるわ。
背中に血が滲むところまで想像して、あほらし、と他所に目を移した。
「気になるなら、来てもろたら」
突然背後から声をかけられて胸が跳ねた。そいつと改札で待ち合わせてはいた。時間ぴったりでもあった。
でもいきなり挨拶もなしに近寄られたらビビる。
「……淳! いつから見てたんだよ。人が悪い」
「何や、やたら真剣な顔で見てるなぁ、思って。へー。相談無料か」
淳はスマホをかざし、広告のQRコードをスキャンした。怪訝な顔で画面の文字を読み上げる。
「バカ。やめとけって」
「……すぐ行くぞ。そこで待て。もう大丈夫だ?? なんやこれ」
淳が画面を読み上げ、こちらに向けた。
広告と同じ黄色地にマジックで書いたような太いゴシック体の黒文字が迫ってくる。
まるでどこかから見てるみたいじゃないか。
「気持ちわる。行こうぜ」
淳の腕をひくと、足元でぎゃっと声が上がった。
見ると尻尾を踏まれた三毛猫が俺を睨みつけている。
慌てて足を退けると、猫は痛めた尻尾を丁寧に舐めた。
「ははーん。まさかお前が猫の手かぁ?」
淳は目を輝かせて猫の前にしゃがみ込んだ。
そんなわけがないだろう。そう自分に言い聞かせながら、周囲を見回す。
この猫一体どこからきたんだ? さっきはいなかったはずだ。
猫は淳に背を向け、俺の正面で居住まいを正した。
「助けを必要としているのは、お前だな」
困惑している俺の足に、猫は身を擦り寄せた。
まるで子供を宥める母親のように優しく。背中を支える父親のように力強く。
なぜだろう。スルスルと体の力が抜けて、不思議と安堵感に包まれる。猫の声が心地よく響く。
「いや、俺は別に……」
「案ずるな。全てわかっている。つらかったな、もう大丈夫だ」
「おいおい、なんで普通に受け答えしてんだよ。猫が喋ってんだぞ?」
淳の頬が引き攣っている。そうだ。おかしいよ。猫が喋るなんて。でも……
「別に、いいんじゃね? ……俺、この猫が居てくれたら、なんでもいいかも」
「はあっ? お前、大丈夫か? しっかりしろよ」
「そうだ。お前はもう一人じゃない」
猫が大きな口を開けて笑う。
大丈夫だ。一人じゃない。俺は、ずっと誰かにそう言ってもらいたかった。
心の隙間をひたひたに満たしてくれる、なにかを欲していたんだ。
淳が俺の肩を掴んだ。
「ふざけて変なもんスキャンした俺が悪かったわ。おい、化け猫。なにがお前はもう一人じゃない、や。こいつはな、最初から一人じゃない。大学に来んようになっても、みんな心配しとるんやから」
「嘘つけ。ほんとは笑ってんだろ。何回もドタキャンしたもんな。今更、俺のことなんか誰も気にしてるもんか」
落ちこぼれて、対等だと感じられなくなって、自分から距離を作っておきながら僻んだ。
不安と疑心暗鬼で誘いに乗るのが怖くなって、逃げ出したくせに心が相手にしがみついていた。
こんな自分にはうんざりだ。
猫は人の大きさに膨らみ、手を差し伸べる。
「さあ行こう。私ならお前を満たしてやれる。お前の人生をくれるなら、欲しい言葉をいくらでもやるぞ」
ふらりと誘惑されそうになる俺の肩を淳が揺する。
「アホか。都合よくなんでもくれるいうやつは、根こそぎ奪っていくやつやぞ。飴ちゃんくれる言われても知らん人について行ったらいかんって子供んとき言われんかったか? 俺が何度断られても誘い続けてきたんは、お前のためだけやない。俺やって……みんなも、お互い様なんやで。なぁ、一緒におもろいこと、もっとやろうや」
鼻を膨らませて力説する淳を見つめた。なんて必死な顔をするんだ。もしかしたら、俺は一人なんかじゃなかったのかもしれない。余裕がないのは、俺だけじゃなかったのかもしれない。引け目を感じて目を瞑り、引きこもってきた俺には、淳や仲間のことをちゃんと見てきた自信がなかった。
「……猫、ごめん。やっぱり助けはいらない」
猫はかぶりを振った。
「任務は既に完了した。お代に印を頂戴」
ニヤリと笑って猫は前足を振り下ろした。手の甲に血が滲む。
「いってぇ。相談無料じゃなかったのかよ」
悪態をついて目をあげると、猫の姿は消えていた。急に改札の雑踏が押し寄せる。目の前の柱にも、なにも貼られていない。淳は頬を掻きながら照れたように目を向けた。
「痒いとこまで手が届く、か。過保護な化け猫やったなあ。……さ、いこか」
淳の手の甲にも、俺と同じ傷跡がついていた。