第六話
第六話、第七話の最初までは完全にフィクションです。ご承知ください。
あまりに実体験に沿って書くと、話の面白みが少なくなっちゃいますからね。
八月の第二水曜日、彼は太陽に光とコンクリートの相乗効果で猛暑と化した町を歩き、相棒君の家に向かっていた。
あの電話の感じ、あまりいい予感はしないな…。
普段だったら背筋を伸ばし、手を正確に振りながら歩くその道は、この日に限り彼にとって爆発の危険性が非常に高い火薬庫へ向かう死の道のように思えていた。
午後一時四十一分、彼は火薬庫に到着し、呼び鈴を鳴らす。その音はあまりにいつも通りで、今の疲弊した彼には少々恨めしく思えた。
「はい」
「こんにちはー、圭一でーす」
いつもと違い、彼は呼び鈴を鳴らした後、インターホンに向かって挨拶をした。
「あ、はーい。少々お待ちください」
そう言い、インターホンから「がっ」っという音が聞こえ、通信が終了し彼の母親が玄関の鍵を「がちっ」という音と共に開け、扉が開く。少し彼の瞳孔が開く。
「あっ、こんにちは。お久しぶりです」
「三か月ぶりくらいなのに、お久しぶりですなんて。ささ上がって、敬道は部屋にいるよ」
そういう彼女は、三か月前とは少し印象が変わっていた。どこか目がギラギラしていて、少し瘦せた。いや、やつれた。これが彼の正直な感想だった。実際、敬道の変容ぶりを見て、彼の親は大いに焦り、電話で語った以上の事をした。ゲームの時間の制限を設けたり、制限を守らなければおやつ抜きというルールを設けたり最初はした。きっとあの子ならこちらが心配していると分かれば止めてくれるだろう。そんな甘い考えだった。しかし彼が毎日制限時間を大幅に超えゲームをしたため、少し厳しすぎるかと思いながらおやつ抜きをご飯抜きに変更した。しかし彼は学校の帰りにスーパーでご飯を買ってくる事でこのルールを回避しだした。彼は優秀だった分、お金の貯金を計画的に行っており、手持ち五十万円はあった。そのため彼はそれから一ヶ月家のご飯を食べずに生活した。流石にまずいと思った親たちは部屋に突入し説得を試みたが、優秀な分逆に言いくるめられてしまい何もできなかった。最終手段としてブレーカーを落とすと、彼は激昂し、母親にビンタを喰らわすという凶行まで至り、結果として親として彼らは何もできず、どうしてこうなったと自責の念に囚われていた。そんな中突如降りてきた蜘蛛の糸。相棒とすら呼ぶ彼ならなんとかしてくれるのではないかという期待。また、親である自分達ではなく一友人がこの状況を打破できてしまったときを想像し、苛立ち、嫉妬心なども抱いていた。その膨れ上がった期待や不安が綯交ぜになった視線がこの日、彼の左半身を直撃していた。
何というか、今日は視線が痛いな。いつもはもっと温かい、ふんわりした感じなのに、今日は予測線が当てられているようだ。
そんな事を思いつつも彼は相棒君の部屋の扉をノックする。
ははっ、いつもは開け放たれてるのにな…
明らかにいつもと違うこの状況に少し緊張し力んだのが良くなかった。
「うるせぇぞ!ノックの音は最小限にしろって言ったよな!?足音聞き逃したらどうするんだよ!?」
いつもとあまりに違うその声色に彼は狼狽えた。
「た、 敬道。俺だ、圭一だ。…入ってもいいか?」
「ん?圭一か、いいぞ、扉はゆっくり音を立てないように開けよ、今最終戦なんだ」
「あ、ああ」
思考がまとまらないまま彼は言われた通りにゆっくり扉を開く。
次の瞬間、彼は絶句した。
違う…、何もかも違う…
まず感じるのは淀み切り、ファストフードや甘い香り等をごちゃ混ぜにしたような、正直衛生上最悪な臭い。次に電気が付けられず、奥の方から扉に遮られている少しの虹色と様々な色を合わせた光。そして、
「本棚が」
彼は扉を勢いよく開いた。
「お前の大事にしてたあいつらが無くなってるじゃない―」
彼の顔によく分からない物体がぶつかる。
この油っこい感じ、ファストフードのフライドポテトだ。
「大きな音立てんじゃねぇ!負けたじゃねぇか!絶対勝てたのによぉ!どぉしてくれんだよぉ!」
人に食べ物を投げる、まず、ファストフードを食べている、目が悪くなるような暗さ、大事にしていた物を多分捨てている。この本人を取り巻く様々な情報。そして彼自身。明らかに筋肉が減り、まだ中学生だというのに出始めているお腹、ぼさぼさの髪、目の下のクマ、髭、声、目、腕、脚、手、首、腹、そして顔。
「…は?お前誰だよ…」
「はぁ?何言ってんだよ圭一。俺、敬道以外にありえねぇだろ?」
「はは、そうだよな。だよな…」
彼は、その人を見て絶望した。
これが、俺が 尊敬していた人…なのか……
最初に浮かんだ感想に、彼の瞳孔が更に開く。
そうか、俺はアイツを尊敬してたのか…
彼は鼻を鳴らす。
もう、見る影もねぇな
鼻で笑った事に敬道が気付き、怒号を響かせよう息を吸う。
尊敬か…尊敬してたのに…俺は…何も出来てない。いや、まず尊敬している相手に何かするものなのだろうか。まず尊敬していると思ったのは何故だ。尊敬の定義とは何だ。くっそ、最近よく寝れてないからか頭が働かん。これは…間違いなく俺の人生の転機だ…!
彼は去年の文化発表会のときと酷似した感覚を覚えていた。
こういうときいつも頭がよく回らんのは何故なんだっ!いや、むしろこのよく頭の働かない状況下でしか転機は訪れないのかもしれない。そうだとしたらこういう状況下でも頭が回るようにしなければならない。そのためには場慣れするする必要があるが、これまで約一年に一回しかこの状況に陥っていない事からこの状況に陥る事は容易じゃない。だとしたら、その状況とは日常を逸脱した特別な条件だ。では、その条件とは何か。これまで集めたデータから日常と思しきものから共通項を抽出して、比較しなければならないな。ええと…
そして、敬道は怒号を響かせようとする。
いいね。
圭一のヤロぉざけやがって!あの野郎この俺を鼻で笑いやがった!改めて思えば、アイツはいつもいつも俺を小馬鹿にして…!これまで友達だの相棒だの言ってきたがもう限界だ!あの野郎が二度とそう思えないように、思わせないようにしてやる!
そう思い彼は叫んだ。
「何なんだよお前はよぉ!わざわざ家に来てまで俺を笑いに来たってか!そこまで今の俺が滑稽かよ!しかもそれを夏休みという貴重な時間を割、い、て、ま、で。馬鹿にするのも大概にしろよ!何とか言ったらどうなんだよ、圭一!」
ようやく最後の名前を呼ばれた時点で彼は敬道が話していることに気付いた。彼は一度思考をやめ、会話に応答する。と言っても、元々いつもより遥かに思考能力は落ちているが。
「何だって?滑稽?一体何を言っているんだ君は。別にいつも通り君と遊びに来ただけだ。…いやしかし、電話の時点で君が前とは違う事は容易に想像出来る。というかしていた。それなのに私は君の家に今日、たった今存在している。行動から読み取れる心情は、確かにそれが最も可能性が高いな。」
「…は?」
思考能力の低下が、彼の前で演じていた道化の仮面を被る事を不可能にし、また感情という概念を無視した無機的な理論展開を行わせる。
「実際、今の君の状態は、馬鹿にする、に値する状態と十二分に言えるだろう。正直最初は君が本当に君なのか理解しかねた。仕方ないと思わないか?あの天才がここまで堕落するとはそうそう想像できるわけがない。多分私は、君を尊敬していたのだがな、今日の君を見てしまうと…くくっ、そんな念も消えてしまうというもの。私は非常に悲しいよ」
「お前…何なんだよ。これまで見てきたお前は、お前じゃない?気味が悪いぞ。」
彼がゲーミングチェアから立ちあがる。
「お、今私悲しいって言いましたね。ということは、尊敬していた人が何らかの形で失った場合人は悲しむんですね!いやー、いい情報ありがとうございます。」
彼が彼の元へと歩みを進め、彼の目の前に立つ。
このとき、彼の理性のタガは既に外れていた。双方感情によって。片方は怒り、他方は高揚、興奮。
「っざけんな!」
彼は彼の頬を全力でビンタした。ビンタを受けた彼は衝撃のあまり右側に体を傾け、倒れ込む。そしてようやく、彼は正気に戻った。そこに振幅の大きい波が彼の耳を襲う。
「これまでの自分は嘘でお飾りでしただ?何ほざいてんだよクズ!お前は何もかもズレてる!思考回路、感情、注目すべき点、何もかもだ!お前は何なんだ?ようやく分かったよ、どうしてお前が気になっていたのか。そう、馬鹿だからだよ!正真正銘の!」
そんな怒号を聞き流しつつ、彼は状況整理を全力で行っていた。
今何が起こった?え?え?左頬から衝撃を受けて倒れた。衝撃はアイツが殴ってきて起こったもの。僕は殴られたのか?っくそ、痛すぎる!涙が出そう、というかもう出てる!うぅ。
様々な事象が重なり、彼の脳は完全なキャパオーバーを起こしていた。そして、彼は落ち着くために周りを見渡した。何やら叫んでいる敬道。彼が開いたドア。落ちているしなしなのフライドポテト。床に少し積もったホコリ。逆に何も積もっていない床。今日入ってきた玄関のドア。そして彼は次にリビング側に目を向けた。そこには彼の親がいた。彼は、文字通り急激に頭が冷えていく中で、一つの感情を得た。その感情の名は…"恐怖"だ。
な、何なんだあの目は…?
彼の親は家に来た息子の友人の様子を、真顔で見ていた。が、その目には確実に「安堵」「絶望」の両極端な感情が含まれていた。この異質な目線が彼にまるで銃で撃たれたかのような錯覚を起こさせた。
「……らお前が嫌いだったんだ。っておいおい、お前泣いてんのかw?傑作だなぁこりゃ。」
「…お前は…それでいいのか…?」
「は?何いってんだテメェ?」
「勉強…しなくちゃ…いけないだろ…?」
「まだしっかり成績上位キープしてるわアホ。じゃなかったらそこにいる奴らが黙ってるわけ無いだろう?」
そう言って彼は厭らしい笑みを浮かべる。そう、彼は地頭が良く、勉強しなくても勉強ができた。だから、彼の親は彼に強く出れなかった。落ち度が無いのでは責めようがない。
「ははっ…これだから天才は…」
「ていうか、一番最初に勉強の心配かよw?勉強しなくても出来るのに勉強しなくちゃいけない理由なんてないだろ?」
「いや…勉強はしなくちゃいけないんだ…しなくちゃ……」
「だーかーらー、理由は何なんだよ理由はよ!」
「……理由…?」
彼は中学二年のときに勉強を何となく選んだものだったが、それは彼の中で絶対的なルールとなっており、もはや勉強することは当然であり、しないという事なんて有り得なかったのだ。
「逆にお前は何で勉強してるんだ?目標とかねぇの?あー、因みに俺は楽しいから勉強してた。…それでお前は何なんだ?」
「俺は…何でなんだ…?」
「っは!理由も無く勉強してたのかよwお前らしいなー。ではお前はどうやって俺を責める?」
「俺は……。ともかく勉強はしなきゃだめだ…。」
「はー、お前はやっぱり成長しない。出来ない。もう飽き飽きしたよ。…二度とその面見せんな!」
かつて相棒とまで呼ぶ仲だった彼にこの時彼は何回も蹴られ、恐怖に支配され、暫くの間震える事しか出来なくなっていた。その間、彼は胸の内で確実にいつもの比にならないマグマのような感覚と、片栗粉を入れまくったドロドロ、ベタベタ、ネバネバした何かのような感覚も感じ始めていた。がしかし、それと同時に胸が締め付けられるような異様な苦しさも感じていた。
「あぁ…、もう二度と来ねぇよ」
そう言うと彼は震える体に鞭打ち、懸命に直立状態を保ちつつ脚を動かし玄関に向かう。土間が足元まで近づくと、彼はドサッと崩れ落ちるように座り、震える手を必死に動かし靴を履き、玄関の扉に手を掛け、この場の誰にも聞こえない声で呟いた。
「さよなら」
そして彼は三つの軽機関銃の猛攻を受けつつその空間から抜け出した。
午後一時五十三分、焼け落ちたそれを背にし歩みを進め始めた。この時の彼は、異様に五感が研ぎ澄まされており、信号は普段より大きなノイズとなり、キャパオーバーした脳に更に大量の情報を送り続ける。彼の肌には夏の暑さと湿り気が、鼻と口にはかつて待ち望んだあの夏独特なにおいと味が、耳には蝉の断末魔が、目には…彼のかつての友人の家の駐車場が脳へと伝わる。その瞬間、彼の脳はそれらの情報に呼応し、彼の脳裏に視覚、聴覚の情報を持つ映像を映し出す。
あははは…、もう、この事象は二度と起こらないんだな、、、。
所謂"思い出"とカテゴライズされるであろうそれは、彼の荒み切り、ボロボロになっていた何かにとどめを刺し、彼がいついかなる時も保ってきた研究者としての標準装備を破壊した。
横に見えるここら辺では珍しい水田、何回もボールを入れて怒られたっけな。正面に見える道路、アイツっちと道路とを境界として皆でドッジボールとかやったな。更に奥に見える家の駐車場にもよくボールを入れたっけ。…このままでいいのか?きっとアイツは、今日の夜には何事もなかったかのようにゲームを続けるだろう。それは、きっとよくない事だ。
敵陣地に入ろうとするその足を彼はふと止める。
では俺には何が出来るか。止めさせるにはどうすべきだ。持ち出す、は不可能だ。あんな見るからに重そうな物を持って走れる訳がない。途中でアイツに捕まって、奪い返されるのがオチだ。電源コードを奪ったとしても、今アイツの親はどうせ何も出来ず、アイツは買ってきてしまう。あのパソコン本体を壊さなければ、きっと問題解決にはならないだろう。ではどうするか。
彼は体を左脚を支点に回転させ、焼け落ち、何も残っていないであろうそれに体を向ける。
今、スマートだなんだ言っている場合じゃない。僕が持っているもののうち最も重いもので全力で殴りつける。それしかない!
彼は力強く右脚を踏み出し、それの通れそうな入口に向かい、それに侵入していく。今の彼には、どんな刺激を届かない。そして光るそれを見つける。水筒を両手に持ち、大きく振りかぶり、光っているその鎖に全力で叩きつける。そして鎖は粉々に砕け、その光景を 見た彼は満足し何も残っていないそれを後にした。