第五話
次の日、彼が普通に学校に登校し、教室着き、普通に生活していた。そして昼休み、図書室に本を返すため図書館に向かっていると、木村が正面から歩いてきた。友人では今は無くなったが、彼は未だに彼らを好意的に見ていたため、挨拶をしようと息を吸った。そして声を出そうとした瞬間、それに被せるように彼は言った。
「黙れクズ」
そう吐き捨てると、木村は彼を通り過ぎ、彼の教室のある方へと歩いて行ってしまった。
彼は理解が出来ず、暫くの間歩く速さが落ちる。
今木村は何て言った?聞き間違いじゃなければ「黙れクズ」と言っていた。何故だ?昨日は確かにひと悶着あったが、別に喧嘩をしたわけじゃない。怒らせるような事を言った覚えもない。極めて合理的な判断を下しただけだ。このままの関係では良くない。だから、一旦縁を切ってやり直す。至極全うじゃないか。何か間違ったか?…分からない。単に気がふれただけかもしれない。一旦放置して、今後の対応を練るとしよう。
彼が考えをまとめたところで、丁度図書室に到着する。
「すいませーん。この本返したいんですけどー」
誰もいない図書室に彼はなかなかの声量でそう言う。
「はいよー。ちょっと待ってねー」
誰もいないように見えた図書室の奥から少し経つと、返された本を整理し終わり、図書委員が戻ってきた。
「この二冊お願いします」
そう言って彼がカウンターに本を置くと、手慣れた手つきでバーコードを読み取る。
「そう言えば、さっき木村さんが本返しきたけど、めっちゃ怒ってたよ、君なにしたの」
「え?木村が怒ってた?僕に?」
「君にじゃなかったらわざわざ言わないよ。で何したの」
「特に何もしてないんだが…。まあ昨日ちょっとあったが」
「どう考えてもそれでしょ。詳細求む」
「人に言えるような事じゃないんだ、すまない」
「は?あんたら何したの?まさか君、アイツの好きな奴取ったんじゃ‥」
「そんな訳ないだろ!そういう事じゃないんだが…まあいい、じゃあな」
「ちょっと待ちいて―」
「忙しいんだ、ほっといてくれ」
そういうと、彼は半ば強引に彼女の領域から出た。
そう、彼は気付けなかった。気付いたところで理解すらできなかっただろう。何故彼らがあんなに怒っているのか。彼らは、彼の過去に同情していた。同情し、自分もそうある事で共感をもたらし、彼の気を軽くしようと気遣ってくれていた。もしそれが無意識だったとしても、彼らの意図はきっと変わらないだろう。それなのに、共感し、気遣った相手が目の前で自分の考えを平然とひっくり返し、挙句の果てに自分らが悪いような状況にした。恩を仇で返すとはまさにこの事だろう。これをされて怒らないのは、聖人でもなんでもない。それはもはや感情を持たない悲しきロボットに等しいだろう。
それから一ヶ月が経ち、彼は自室で猛烈に後悔していた。どこで間違ったのかと。
あれから一ヶ月、木村と他二人は彼への怒りに任せ行動を起こし続け、部活内の一、二年との関係を彼らが強固にし、三年生でもより活発に活動するようになり、確実に部活動内での地位を高め、彼をハブるように仕向け、学年内でも悪い噂を流し続けた。元々明るい性格でお調子者の木村の自信満々に放つ彼の悪口は変な現実味も相まって彼への強い不信感を呼んだ。それによる皆の彼への態度の豹変っぷりに、彼は驚きと呆れを隠せなかった。それは嘘なのに何故信じるのかと。皆が皆、木村の言葉を信じ、これまでの皆の彼への信頼は見る影もない。最早学年でも浮きはじめ、話すのも最近出来た新しい友達だけとなってしまっていた。
「俺は…何でこうなるんだろうな…」
無意識のうちに彼の口から言葉が滴る。しかし彼のシャーペンを持った左手は止まらない。
「いつもいつも変わらない。どれだけ順調でも、結局こうなる運命なのか」
シャーペンを机に置き、青ボールペンに持ち替え、「双曲線」と書き、シャーペンに持ち替える。
しかも、この感覚は何なんだ。とても苦しくて、吐き出してしまいたいような何か。例えるならマグマのような、まさにマグマのような熱い何か。これは一体何なんだろうか。
またシャーペンを置き、今度は赤ボールペンに持ち替え「漸近線」と書き、シャーペンに持ち替える。
今俺に分かるのは、これが"苦しい"という事くらいか。つまり苦しいという事は僕に負荷を掛けられる、成長できるという事だ。暫く放置すれば、俺はまた成長できる。それで良いんだ。
彼はそのようにして自分を正当化した。それは何故か。彼は知らなかったのだ。怒りという感情を。その発散の仕方も。何も知らない彼は、ストレスの負荷を良しとした。もしくは、認めたくなかったのかもしれない。自分がミスを犯したから現状に至った事を。自分の落ち度が引き起こしたことを。それは即ち、彼が完璧ではない事を意味する。完璧人間何ていないというのが世の通説だが、彼は常に完璧でいようとしていた。そして、ここまでミスを犯さなかった彼は無意識に自分が完璧人間であるように錯覚していたのかもしれない。
こうして彼は着実にストレスを溜めていった。
放置した結果、状況は悪化の一途を辿り、更に一か月後には学年全体に悪評が広がっていた。単純に木村達の顔が広いという事も要因の一つだが、最たる要因は彼の学力の低下だった。一度五位を取ってから彼はずっと一桁をキープし続けていた。が、前期中間試験で遂に二桁に落ちた。十一位だった。あと二位上がれば一桁だが、結果は結果だ。「一桁」と「二桁」では、確実に隔絶された価値の違いがあった。結果、彼の社会的な地位は低下し、そこに彼らの根も葉もないスキャンダルが流れ込んでくる。人というモノは、相対的にしか物事を見る事が出来ない。皆木村達の言葉を信じ切り、彼の悪評はどんどん広がっていく。元々あまり喋らない彼の態度は、更にイメージ悪化に拍車をかけ、更にイメージが下がる。下がるところまでイメージが下がれば、何をしていても悪くみられる。しかし、彼はそんな事露知らず、平然と普段通り振舞い続ける彼らに騙され続ける。彼の頭には、まず騙されているという考えすら浮かばなかった。何故なら、彼自身は何もしていなかったからだ。何もしていないのに嫌われるという事が起こりえると、彼は理解していないから、まず疑いもしないし、疑わなければ気付けるはずもない。そんな社会経験の無さすぎる愚かな彼を皆裏で忌み嫌い、悪口を言い合う。明確な敵、立場の違う奴という存在は、確実に同じ立場同士の関係をより強固にし、関係の強さはそういう奴らとの立場的な差が広がるほど強くなるものだ。結局、これまでカースト上位に居座っていた、生真面目で何の面白みもない奴だった彼は、格好の的になってしまった。この状況下で彼を本音で良い奴と言えるのは、彼の友達くらいになってしまっていた。
それから暫く経ち、夏休みに突入しようとしていたある日の午後、いつものように相棒君と遊ぶ日にちを決めるために彼は相棒君の家に電話を掛けた。相棒君は基本的にリビングで勉強しているため、この日のような休日に電話を掛ければすぐに相棒君は電話に出てくれる。彼はいつもすぐ出てくる理由自体は分かっていなかったが、休日の午後に電話を掛ければアイツが出ると経験則で分かっていた。二十五秒ほどが経ち、ようやくコール音が鳴り止み、人の声が聞こえてくる。
「もしもし、圭一さん?敬道の母です」
「あ、こんにちは。珍しいですね、敬道の母親さんが電話に出るなんて。アイツ何処か行ってるんですか?」
「えぇと、家には居るんだけど、今手が離せないらしくてねぇ」
「そうだったんですか、アイツまた何か新しい趣味でも始めたんですか?科学の実験中とか(笑)」
冗談のつもりで言った彼は、次の言葉を紡ぐ声のトーンに低さに気付かれない程度に驚いた。
「そうだったら、よかったんだけどねぇ」
「え、ええとじゃあアイツ今何してんですか?」
「敬道は今エフピーエス?っていうのをパソコンでやってるらしいのよねぇ」
「FPS…」
確か、前回行ったときに一緒にやったあれだ。銃撃って殺し合うゲーム。
「へぇ、アイツまだやってんですか。趣味コロコロ変えるアイツにしては長続きしてますね」
「えぇ…、実は敬道、最近パソコンの前から離れないのよ。ご飯って言っても、あと十分待って!って言われちゃうし、休日は私たちが寝る時もまだやってて、次の日起きるのがお昼くらいだしまるで人が変わっちゃったみたいで…」
「あんなしっかりした奴が、逆にすごいっすね」
彼はお道化たように言い、動揺を隠した。
あの敬道がそこまでのめり込むなんて、あり得るのか。この声色的に、実は結構切羽詰まった状況なんじゃないだろうか。
「ええと、夏休み伺う時、何とかしてみます。いつ頃行けますかね?」
「本当!えっと、部活は敬道やってないから、基本的にいつでも大丈夫よ」
「分かりました。じゃあ、八月の第二水曜日に伺わせていただきます」
「敬道に伝えておくわね」
「よろしくお願いします、失礼します」
「はいー、失礼します」
受話器を元の位置に戻し、彼は勉強をするべく部屋に戻っていった。