第十二話
冬休み二日前の朝。彼はいつも通り六時半に起床し、身支度のために階段を降りリビングへと向かっていた。
「おはよう」
「あぁ、おはよう」
廊下で出くわした父に眠そうな挨拶を交わし、思い出したかのようにリビング手前の洗面所に入っていき、顔を洗いリビングに入っていった。
「おはよう」
「おはよう」
朝食の準備をしてくれている母とあいさつを交わし、自らの席に座る。そして朝食が出てくるまで父がつけっぱなしにしていたテレビで放送されているニュースをぼけっと眺めつつ母と何気ない会話をする。
「そういえば、昨日帰ったら寝てたじゃない。どうしたの?」
「あぁ、昨日はどうにも疲れてて。勉強に集中出来なかったから早めに寝たんだ」
「そうだったのね。圭一根詰めすぎなんじゃない?休んだらどう?」
「…」
ここまでいつもと何ら変わらない朝の生活をこなしていた彼がここで行き詰まった。この時の彼にとって親、もとい大人は昨夜の時点で信頼に足る者ではなくなってしまっていた。そのためそれぞれの言葉に猜疑し、裏の思惑を考える。何となく否定したくなる。そんな感覚に駆られつつ、相手の好意を無下に出来ないという感覚、否定したらどうなるかの予測によるリスクの懸念、これまでと態度が急変したらどうなるのかという予測によるリスクの懸念、そして何より、この全ての判断を下している自らの思考回路への疑念。これらの処理を一度に意識的に行える程彼の脳は、というかヒトの脳は強くないため、タイムラグが生じ、今回の場合などの、感情という未知数な変数が含まれる際の優先度の不確定さによる結果の未確定。昨夜の出来事は、彼の想像以上に、全ての行動の基盤に影響を及ぼしており、彼は一つ一つの行動を取るたびに、これは正しいのか、まず正しいとは何だ…という思考が必要になってしまっていた。
「圭一?」
「…あぁ、そうだね。もうちょっと休憩時間を増やすことにするよ」
明らかにおかしい。何をどうすれば良いのか全く分からない。まるで全てにおける基盤が無くなったような、浮いているような感覚だ。何も見えない。何も分からない。判断なんて出来るはずがない。一体どうすれば…。
それから彼は座る姿勢を正面、母がいる方から左側、テレビが置いてある方へ変え、朝食が出てくるまでの時間を"テレビに集中しています"という雰囲気を醸し出し始めた。
まずは時間だ。考えるための時間が必要だ。うちの親は察しが良い。昨日疲れていたという情報を向こうが持っている、いつもと比べて視線が向かない、体の向きが違う等の事から話しかけて欲しくない事はきっと気付いてくれる。問題は父だ。母と比べ、昨日疲れていたという情報を持っていない。そして今私がテレビを興味深そうに見ている。きっと「何だ?○○(その時のニュースの内容)に興味があるのか?」などと話しかけてくるだろう。という事は、父が身支度を終え二階にある自室から出てくるまでの間に体勢を戻すしかない。が、不用意に戻してしまうと母が多少の違和感を感じるのは必至。という事は私は父が戻ってくる前に朝食が出てくるのを祈るしかない。
そう考え、彼はテレビの上にある時計に目を向ける。時計は六時三十七分を示していた。
いつも父は大体部屋を四十五分、髪等を整えリビングに五十分程に戻ってくる。つまり、父を心配する必要はない。よし、これで状況判断に専念できる。取り敢えず、昨日の思考を簡潔にまとめてみよう。まず、前日にまとめていた学ぶと理解するの差から、勉強という行為の意味を定義し、勉強は偉人達の思考回路を形成する事だ何だとまとめ、そこで自分が今している思考とは何かを考えだし、思考とは主観が非常に強く影響しているものだと考え、私の主観、思考回路はテストに向いているものではないから、私の思考回路は正しくない、私の主観は間違っている、主観が間違っているという事は私の今行っている思考そのものも間違っている、私が大事にしてきた客観性も存在しない…という感じか。寝て起きると頭の冷えているとは言え、昨日の私相当やばいな。でも、それは紛れもない私が導き出した結論。俺が否定出来るものじゃない。あとはこんな社会作り出した大人がー、社会構造がーとか途轍もなく危ない思考してますね。自分が怖くなってきた。やっぱり、私の思考回路は反社会的なのかな。間違ってるのかもな。
その時、胸を締め付けるような感覚、熱いものがこみ上げる感覚が彼を襲った。
!この感覚はいつもの謎の感覚!今余裕ないのに…というか、この感覚いつも余裕が無い時に限って発生してるな。切羽詰まってるときに発生するというのはいい線行ってるかもしれない。いやでも間違ってる私が考え付いたんじゃ…いや間違っている私が考えたのなら間違っているという事がまず間違っているのではないか?とすると間違ってなくて、でもその私も間違っているから間違ってて…無限ループだな。こういう時は確率論で解決してしまおう。間違っている可能性、正しい可能性…としてしまうと事あるごとに可能性が変動して面倒だから、絶対に何があっても間違っている可能性、絶対に何があっても正しい可能性が半々という事にしておこう。つまり保留。ついでに謎の感覚の結論も保留。これはそう簡単に答えを出してはいけない気がする。もっと念入りに考える必要がある。本当にそうか?そうだ、これまでずっと考えてきた事の結論をこんな朝っぱらの数分で出して良い訳がない。なんで?より決定的な証拠が必要だ―その決定的な証拠はどう手に入れるの?心当たりは?ある。先程気付いたように、この感覚は切羽詰まっている時に発現しやすい。つまり、切羽詰まっている時の共通項を見出し、その共通項を一般論と重ね合わせれば良い。私とてヒト。皆の常識、つまり皆が同じ条件で感じているはずの感覚を世間一般では何というのか…私はただ単純にあの感覚の名前を知りたいだけだったのか。それだけの為にこんな時間を費やしてきたの?結果論だがそうだな。これまでの私はまず何を求めているのかすら分からないままがむしゃらにただ研究を続けてきたのだ。まぁ、普通に考えて目的くらいはっきりすべきなんだろうが、という事は私は間違っているのか?いや、まだ弱い。もっと決定的な証拠があるはずだ。
これまでやってきた事の意味。無意味でなかったことへの安堵。はっきりとした目的の発見。そして無意識に行われていた気持ちの整理。それらが終わり、彼の精神はかなり安定し始めていた。
「おまたせ」
そう言いつつ母は彼の席の前に朝食を置いた。それに気付き、彼は時計を一瞥しつつ母に顔を向け「ありがとう」と言おうとした。がいつも通りには出来なかった。
ふむ、六時四十二分か。今更気にしても何にもならない。思考はまとまった。あとは普段通りに…どうすれば良いんだっけ?状況を整理しろ、母は何をしてくれた?朝食を作って出してくれた。俺は何をするべき?不明。普段は何をしていた?感謝の意を示していた。どう示していた?「ありがとう」という。少し戻るが、今私は感謝の意を持っているか?…どんな感覚だった?感謝してるときってどんな感じだっけ?…自分が分からない。どうしよう。どうしよう。…取り敢えず、気持ち云々の前に、形だけでもいつも通りにしなければ母が不審がる。信頼されないのはまずい。いつも通りに振舞わなければ。
「ありがとう」
「どうしたの?やっぱりまだ疲れてるの?」
不審がられた!まずい。…が母は疲れているのか聞いてきている。ただ軽く流せばいい。いつも通りにしなくては。
「あはは、そうだね。まだ疲れてるかもしれない」
すっげぇぎこちねぇ!大丈夫か?何て理由付けしようか。そうだ!
「寝不足で頭回ってなくて」
いや文脈おかしい!普段の俺だったら絶対言ってない!いや、それも疲れを理由に…いや疲れすぎだろ!論外だ!何か他の理由を考えなくては…!
「大丈夫?学校休む?」
そこまでじゃない!が、ここまで全ての理由で疲れを挙げた以上休むほど疲れていると考えた方が自然か?いやしかしこの調子で母に看病でもされたら本当に身が持たん!脳が持たん!ここは嘘でも良い!目標は"母に怪しまれず、尚且つ学校に行く"という事。考えろ!…これでどうだ!
「もうそろそろ冬休みだからね、学校には行きたいかな」
「あらそう?じゃあもし少しでもキツイって思ったらすぐ保健室に行くのよ」
よし!
「うん。分かった」
一連の会話を終え、母が台所に戻っていくと、彼は心の中で肩を撫で下ろした。
危なかった。あくまでも普段と何も変わりなく振舞い続けていこう。
そう心に誓いつつ、彼は朝食を食べ始めた。