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4 出立

 その娘は有能だった。

 なぜ、豚の登場シーンにいつも彼女が登場していたのか納得がいく。他の侍女が嫌々やっている仕事も指示に従って、てきぱきとこなしていく。早いよ。それに、丁寧だ。食事の支度や後片付け、部屋の掃除などあっという間に終わらせる。

 他の侍女、いらないのではないかな? 


 次の日もわたしは頑張って運動をすることにした。昨日の疲労が抜けていない。大丈夫か、豚の体?


 わたしが散歩に出かける気配に隣の部屋にいた娘が現れた。彼女は常に隣の部屋に滞在することを命じられているらしい。昼でも夜でも奉仕できるように、ということなのか。

 私が亀のようにのろのろと外に向かうのを娘は黙ってみていた。


 今日は少し強度を上げてみようかと走るという動作を試してみた。

 しかしこれがいけなかった。


 膝が痛い…そういえば走るという動作は歩くという動作な何倍も間接に負担がかかるのだった。普通の体重でもそれだ。今の体重でちょっと無理をし過ぎたのかもしれない。

 行きの何倍もの時間をかけてゆっくり部屋へ戻った。



 部屋に戻ってほっと息をつく。膝の痛みが耐えられなくなっていた。

 体のあちこちが痛いのには慣れている。腰や関節の痛み。鈍い頭痛、しびれるような手足。絶対糖尿病だよな。私は椅子に座って浅く呼吸した。


 荒く呼吸していると先ほどの娘がワゴンに昼食の一部をのせて現れた。


「あの、家令様から、私が、先に一人で食事のお手伝いをするようにと・・・命じられました」

「ああ」

 豚は小さくうなずく。家令ならばその小さな合図を拾えただろう。だが緊張しきっている娘にはわからない仕草だったようだ。

「あの・・・私・・・」

 娘は立ち尽くす。


 そこへ遅れた家令がやってきた。急いでいたらしく息が上がっている。


「申し訳ありません、ウィリアム様。すぐに準備いたします」

 髭は娘を責めるような目で見てから、あわてて卓にならべていった。


「気にしなくていい」

 そんなに腹も減っていないし・・・そう付け足そうとして娘にこちらの言葉が届いていないことに気がつく。青い顔をして震える手で皿をならべている女には豚の小さい声など耳に入らない。


 いつものように昼食を食べる。食べながら、ふと、娘があまりにもやせていることに気がつく。お仕着せからのぞく手は骨が浮き出ており、足もこれで立っていられるのかと心配するほど細かった。きちんと食べているのだろうか。


 半分ほど食べてから、食事をやめる。拡張した胃袋はもっともっとといっていたが、ここは我慢だ。


「君はいつ食事をとるんだい?」


 わたしは娘に尋ねる。

 家令が少し眉をひそめた。今まで豚は召使いの生活になど興味を持ったことは一度もなかった。まるで、そのあたりにおいてある食器や掃除道具のようにいつもそこにあって仕事をするだけのもの、気にもかけていなかったのだ。ちょうど、わたしがスーパーで買う肉がどこから来たのか気にしなかったように。


 だが、今の私には気になる。この娘はあまりにも細すぎる。顔色も悪い。あまり栄養状態がよくないのだろう。倒れられては困るのだ。彼女に何かあれば、そのとき彼女の兄は・・・考えるだに恐ろしい。


 もう一度質問を繰り返すと、髭家令は娘に質問を投げかける。


「・・・はい、充分にいただいております」

 娘は建前の答えを返してきた。だよね、食べてないなんて言えないよね。

 私はため息をつく。


「あー、この残りを片付けて、いや、そうじゃなくて、その子に食べてほしいのだけど・・・」


「ウィリアム様のお食事を、ですか?」

 さっと皿を下げようと手を伸ばしかけた髭が繰り返す。


「そう」


 豚がこくりと頷く。髭の手が止まる。何か失態をしたのではと青くなりかけている娘と豚を見比べているよ。

 しばらくすると、髭の顔に薄い笑みが浮かんだ。


「わかりました。そういうことでございますね。おい、おまえ、公爵様がもったいなくも食事を分けてくださった。ありがたくいただきなさい」


 どういうことなのかわたしにはよくわからなかったが、髭家令は一人で納得したらしい。


「わ、わたしがですか?」

 メイドの声が震えている。

「そうだ」


 何かよくわからないが、二人の間では共通の理解があるらしい。女性は恐がり、それを見た家令は満足した。いったい何に?


 よくわからないけれど、何かのプレイの一環なのではないかな。控えめに豚がおしえてくれた。それって、何? 食べ残しをお食べ、とかいうアレですか?

 豚はこういうことには疎いのだと少し恥じらいながら告白する・・・って豚の恥じらいって何ですか?

 食べ残しを食べさせる、屈辱系のアレだと思われたのかな。

 でも、食事は豪華だし、手をつけてないものも多いよ。それでもいやなのかな。わたしが豚だからいやなのかな。

 まさか、毒入りなんてことはないと思うのだけど。


 いやいや、それもあり得るかと思ってしまうところがこの世界だ。


 さすがにそれはないと思う。我が家のものたちが・・・そんなことはしない・・・はず。ウィリアムの小さな声が否定する。


 でも豚にこれだけ大量の食事を食べさせているのも毒を食べさせているのと同じだと思う。豚は惰性で食べているだけで、けして食事を楽しんで食べているわけではない。ただ一人、黙々と目の前の皿を片付けていく。出されているものは食べなければいけないという義務と責任と・・・それだけだ。それは一緒に食事を見てきた私だから断言できる。


 私はまだ手をつけていないパンや肉炒めを娘の前に押しやった。食べかけの卵料理の皿は自分で片付けることにする。


 娘は、最初はためらいがちに家令の顔色をうかがいつつ、パンを食べていた。本当はおなかがすいていたのではないかと思う。だんだんと食べるスピードが上がっていく。

 あまりにがつがつと食べるので、のどを詰まらせるのではないかと心配したくらいだ。

 これもまた今日手をつけていなかった果実を搾った甘い飲み物を前に置いてやる。


「あ、ありがとうございます」

 目の前の皿をからにした女は礼を言った。

 娘の目が探るようにこちらを観察していた。

「君・・・」

 そう呼びかけてからまだ名前を聞いていなかったことに気がつく。

「名前はなんというんだ」


 娘はとても不思議そうな顔をしたが、素直に答えた。

「クラリスです。クラリスと申します」



 次の日もクラリスを連れて散歩という名のダイエットに向かった。ともかくなんとしてもやせないと。この体では何もできないよ。


 その日はよく晴れた穏やかな日だった。豚はぼんやりと昔は庭を散策することが好きだったことを思い出す。庭を散歩して植物を眺めるのが好きだったのだ。


 わたしもそうだった。わたしは小さなポットでも育つ強いハーブを買ってきてはベランダに並べて楽しんでいた。

 思いもかけない共通点を見つけて豚が少し浮ついた気分になっている。小さなかごの中で野菜を育てるか・・・なんて面白い趣味なのだろう。


 豚の中には食料を畑で育てるという当たり前の感覚がなかった。知識としては知っているのだ。でも、実際に育てた経験がないというか、なんというか。

 育ててみるというのも面白そうだな。かすかな興味。だけどこれが大切だ。 


 豚がその気になってくれないとわたしには何もできない。

 体を動かすのには豚側の心とわたしの心の二つが必要だとなんとなくわかってきていた。豚の協力がないとわたしもやる気が出ないのだ。今のところわたしの心のほうが主導権を握っているが気力を振り絞って動いている状態だ。もう精神的にくたくただよ。


 とにかく、少しでもやせて、表を歩けるようにならなければ・・・

 今は転がった方が早く移動できるかもしれないと思うときがあるからな。


 もう少し動けるようになったら、植物を植えてみようよ。気力のない豚を誘う。小さなプランターでもいい。ほんの少しの土でも植物は育つ。私の育てていた野菜の記憶を見て豚の心が密かに動くのを感じる。

 植物を育てる、というのは運動をするよいきっかけになるかもしれないと思う。


 豚の記憶によるとこの先には別邸があって豚の妻とエリザベータが住んでいる。

 そういえば豚は妻を何年も見たことがなかった。

 妻はいったいどうしているのだろう。


 豚の記憶の中では嫁はほっそりとした美しい娘だった。わたしの覚えている豚嫁のスチルはウィリアムよりも少し小柄な豚だった。まぁ、巨体だ。

 夫婦ともによく似た体型で、どうやったらエリザベータ様のような美しい娘が生まれるのかといわれていた。

 エリザベータも年をとると豚になるんだよ、なんてつぶやいた奴が、エリザベータ様命のファンにたたかれていたのを覚えている。


 その別邸の庭に馬車が止められていた。

 お仕着せを着た男女が二列に並んで道を作っている。


 それを見たわたしは思わず植え込みの影に入る。この巨体が無事に隠れているかどうか・・・微妙なところだが。

 隠れなければという気持ちに駆られてしまった。

 隠れる必要はないのに、見ているのが後ろめたい気がしてついつい逃げてしまった。

 これから起こることが見たくないという思いと、そんなわたしをいぶかしむ思い。


 予想したとおりだった。

 黒服の男が丁重に押さえている扉の向こうから現れたのは娘のエリザベータ。その後ろを巨体を振るわせて豚妻がついてくる。

 娘は頭を上げてまっすぐ前を見ていた。周りの人が居ることにも頓着せず、ただひたすら行く末だけを見つめている。

 氷の女王、その瞳と髪の色からつけられたあだ名は伊達ではなかった。彼女の何者も寄せ付けないりんとした空気はこれだけ離れても伝わってくる。誰をも信頼しない、誰も頼らないその姿は心を振るわせるほど美しい。


 だが、私の胸はちくりと痛んだ。その人を引きつける美しさで彼女が何をするか、そしてどうなるかを知っているからだろうか。まるでじくじくとしみ出す汚水のように痛みが心を侵食していく。

 純粋にエリザベータを見て喜んでいる豚公爵にはみせたくない。そう強く思う。


 こちらを見てほしい。豚の心は懇願していた。愛しい娘、自慢の娘にこちらを見てほしい。


 だが、わたしは物陰に身を潜める。豚の心の叫びに耳を閉ざす。あの瞳で見つめられたら、きっともっと胸が痛くなるから。


 娘はいっさいこちらを顧みることはなく、馬車に乗り込んだ。

 馬車はそのまま娘を乗せて走り出す。大勢の召使いと、豚嫁をおいて。


 わたしは物語が一つの節目を迎えたことをしる。

 彼女はこれから王立学園に入学する。並み居る有力な師弟を誘惑し、この国を混乱させる未来のために。

 そして豚に破滅をもたらすことになる。わたしを道連れにして。


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