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豚の矜持  作者: オカメ香奈


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29 魔王

「どうしてこうなった」

 トールとわたしは頭を抱えた。

 ほんの数十人の兵士を連れて行こうと思っていたのに500人。それも訓練を積んだ兵士たちだ。


「おまえのところの領軍を出すはずだったろ。なんで、王の騎士がついてくるんだよ」

「わたしにきいてもしらないよ。家令に千人の兵隊がほしいといったら、なぜか王直属の部隊がついてくる話になってたんだよ」


 わたしたちは、豚の悪名を甘く見ていた。この時期に、あの場所に兵士を連れて行くといったのだ。何か企んでいると思われても仕方がない。

 いや、企んでいるんだけれど、方向が違う。

 わたしはただ自分の領地を守りたかっただけだ。


「はめられたな。絶対叛意があると疑われてるだろ」

「そこまではどうかと思うけれど、利用されたのは間違いない。あそこに軍を展開させることは帝国に対する牽制になるからね。格好の口実を与えたというところかな」


 正規の軍隊がついてくることになれば、トールとともに行動することはできない。彼はわたしの家臣でも何でもない、ただの町人だからだ。


 連れて行けるのは、侍女のクラリス、料理番のダーク、それに庭師の手下が何人か…信頼のおける人のなんと少ないことよ。


「トールさんとの連絡なら任せておいてね」


 助け船を出してくれたのは、マーガレットさんの娘たちだった。


「お母さんから話は聞いているの。わたしたちなら、毎日面子が変わっても誰も不審に思うものはいないわ。色男の公爵様」


 打ち合わせに現れた美女が扇の陰で笑う。


「わたしたちの中には護衛としても腕の立つものもいるから、そちらの役目も期待していただいて結構よ。昼でも、夜でも、いつでもお役に立てると思うの」

 なぜ、夜を強調する? 高価な香水のにおいに頭がくらくらする。


「そこまでしていただかなくても結構です」

 クラリスが冷たく女をあしらう。


「あら、でも、公爵様はなかなかのやり手であるともっぱらの噂でしょ」

 なんの? なんのやり手なの? すこしだが、ほんの少しだが、今度の旅に期待をしてしまう。ここにきてまさかのハーレム誕生だろうか。


 旅が始まってみると、護衛としてわたしにつきまとってきたのは美女ではなかった。


 ギュスターブ・ラネイ。「華の学園」のなかで最も使えない(キャラ)だった。


「ギュスターブ殿、か。お噂はかねがね」

 わたしはめいっぱいの失望を表に出さないように努力した。

 彼は冒険と戦争のパートに出てくるお助けキャラで、初期のパラメーターはいい。成長もまずまずで鍛えればサブキャラなみに戦闘力が上がる有能キャラだった。

 数値だけ見れば。


 彼の何が使えないかって、それは彼が土魔法の使い手であるという一点だ。


 彼は、土魔法しか使えない。土魔法といえば、このゲームの中ではクズ魔法中のクズ魔法だ。

 守護魔法のウォールは水や火魔法の一撃で崩れ去る。名前は役に立ちそうな回復魔法のロングヒール。回復量が微々たるもので効く前に死んでいる。極めつけが攻撃魔法ゴーレム。巨大な土人形で攻撃する土魔法の必殺技なのだが、これも時間がかかりすぎる。唱えている間に戦争パートが終わってしまう。正直つかいものにならない。


 だから、彼を戦争パートで使った人は死ぬほど苦労する。“ギュスターブさんと戦争攻略”なる動画がまれに見るMプレイとして人気を博していたくらいだ。


 現実に見るギュスターブはスチルにもまして堅物で、まじめそうだった。向こうもこちらに好意など抱いていないことを隠そうとしているのがモロわかりだ。


「よろしくお願…頼んだぞ」

 クラリスの鋭い目線を感じて、尊大な豚を取り戻す。


 いけない、ついつい軍人の放つオーラに呑まれてしまうところだった。わたしは偉い貴族なのだから、もっともっと傲慢に振る舞わなければ。


 最初のうちはそうして虚勢を張っていたのだけれど。


 彼は一日中わたしに張り付いていた。

 馬車の中でも当たり前のようにわたしの隣に乗り込んできたし、宿でもわたしの部屋の近くに待機していた。誰にかは知らないが、わたしはとても警戒されているらしい。


 最初のうちは頑張ったよ。

 頑張って彼らの望む悪役を演じてみようと思った。物語の圧力というものなのだろうか。なんとなくシナリオにあった豚公爵にならないといけないような気がしていたんだよ。


 だけど、すぐにわたしは彼らのイメージに合う豚公爵を演じることにだんだん嫌気がさしてきた。

 ウィリアムだけなら天然で高慢さを醸し出せたと思う。でも残念。今の豚公爵は庶民度が上がりまくりだ。憑いている人が貧乏だったのに加え、昨今の切り売り生活が生活臭漂う豚へと変貌させていた。


 そもそも、物語の贅沢豚を再現するための舞台が全然整っていなかった。


 小規模とはいえ軍隊と一緒に行動している、供回りは少数、資金の余裕もない、巡るところはのどかな田舎の村、となると豪奢な衣装とか馬車とか、無理だった。

 夜会? そんなものどこで誰とするの? 周りにいるのは贅沢とは縁のない人ばかりだよ。


 いつのまにかいつもの旅行スタイルに落ち着いてしまっていたんだな。


「本当に“祈りの旅”なんですね」

 祠に祈りを捧げたあと、手を洗っているわたしの姿を見て、ギュスターブはぽつりと感想を漏らした。


「当たり前だろう。そのためにこうして村を回っているのではないか」

 いったい何のための旅だと、彼らは思っているのか。こんなど田舎で豪華な夜会でも開けるとでも?


「ウィリアム様、お昼ご飯にしましょう」

 いそいそとクラリスがわたしに近づいてくる。


「うむ、そうだな。そろそろそんな時間か。今日は何かな」

 こうしていると食事だけが唯一の楽しみだ。ダークの作る料理はうまい。この前など親子丼もどきをだしてくれた。ここに来て初めての和食もどきにわたしは感動した。


 楽しい食事の間も、ギュスターブの監視は続く。

 どうせ、わたしの食事量が多いとか、豚のようだとか、そんなことを考えているんだろう。わたしは彼に背を向けて、イチゴの焼き菓子をほおばった。

 そんなに見てもおまえには、やらん。おまえには…やらない…


「ひ、一つどうだ」

 視線の圧力に負けて、下賜してやることにした。


「いえ、結構です」


「そんなことをいうな、ダークの作る料理はうまいぞ。一つ食べてみろ」

 いやだと言われると、引き下がれなくなる。ついつい周りの兵士にも大盤振る舞いをしてしまう。

 しまった。わたしの食べる量が少なくなるではないか。


 夏の気配が土から立ち上ってきていた。穏やかな日差しと、ふくれた胃袋、のどかな森の風景を眺めていると、なぜここに来たのかどうでもよくなってくる。

 今が永遠に続けばいいのに。泥の中でぬくぬくと過ごす豚のようにわたしは怠惰でありたい。


 このまま物語が進めば来年の今の時期にはわたしはもうこの世にいない。

 それでも、いい、とどこかで考えてしまう。

 わたしはゲームの豚公爵のように悪辣非道なことはしてこなかった。

 わたしに罪があるとすれば、それは何もしてこなかったということだろう。

 翼という異質な記憶が流れ込むまでわたしは何もしなかった。それからもいよいよ事態が差し迫るまで、ろくな行動を起こさなかった。

 どこかでこれはゲームだと、遊びだと思っていたのだ。


 ダークが大けがをし、姐さんが死に、アリサちゃんが殺され、マーガレットさんもいってしまった。わたしが無能だったせいだ。


 今も残された友の死が迫っているというのに、わたしは今の状態をよしとしてしまう。こうして、日だまりでのんびりとくつろいでゆっくりとお茶を飲むのが楽しいのだ。


 本当にわたしは豚だ。屠札される日が迫っているのも知らずに餌をあさっている豚だ。


「ウィリアム様」

 目を上げるとクラリスがわたしの目の前にしゃがみ込んでいた。


「ウィリアム様、そろそろ次の村に向かいましょう。向こうの村長が待っているそうです」

「そうか」

 わたしは立ち上がって泥をはらった。


「ウィリアム様、お疲れではないですか。このところずっと儀式が続いています。その…お体の具合でも悪いのかと」

「ああ?大丈夫だ。別にたいしたことをしているわけじゃない」わたしは肩をすくめた。「ただ、祠に行って聖句を唱えているだけだ」

「あまりご無理をなさらぬよう」

 彼女はそういって目を伏せた。


 次の村は、前の村よりも大きな村だった。


 そこでわたしは自分ののっていた馬車と似たような馬車を見つけた。貴族の乗る馬車だ。

 わたしを出迎えていたのは三人、尊重らしい農民と背の高い剣を腰に差した黒髪の若者、そしてその側仕えとおぼしき初老の男だ。


 ギュスターブの表情がかすかに引き締まった。そんなふうには見えなかったが、警戒すべき相手なのだろうか?

 わたしは軍人ではない。相手が強いかどうかなど判別つかないのだ。


「ウィリアム・ゴールドバーグ公爵ですか?」

 黒髪の若者がたずねる。

「わたしは、ルイ・イエローリンク。イエローリンク家の嫡男にして後継者です。お初にお目にかかります、公爵」


 イエローリンクというと、黄色ちゃんの実家ではないか? 隣でお家騒動真っ最中の家の名前だ。ひょっとして、彼がいずれ魔王になる予定の黄色ちゃんの兄弟なのか?


 目の前の男は全然黄色ちゃんに似ていなかった。

 黄色ちゃんはひよこ王子という別名が与えられていた。金髪、金色の瞳で、ふわふわとかわいらしい少年で、光の公子と評されていた。

 今目の前にいるのは黒髪、黒い瞳のどちらかというときつい顔立ちの若者だ。母親が違うという設定があっただろうか、としばし考え込んでしまうほど、違う。

 本当に公子?


 それはいいとしても、貴族の子弟がこんな田舎の村になんのようで訪れたのだろう? あと数ヶ月後には事を構えるかもしれない相手なのだ。敵地になるかもしれないところに自らがたずねる用とはなんなのだろう。


「我が領地によくまいられた」

 わたしの口は、不審に思う気持ちとは裏腹に、典型的な歓迎の言葉を発していた。

「このようなところまでわざわざ足を運んでいただくとは。大変申し訳ない…その、先触れと行き違ってしまったのだろうか。なんの歓待の用意もできず…」


 わたしはクラリスに合図を送った。助けて、クラリス。わたしにはどうしていいのかわからないよ。


「こちらこそ突然の訪問をお許しください。高名なゴールドバーグ公爵がこのあたりの村で“祭り”を執り行われていると耳にしまして、是非一度お目にかかりたく、失礼を承知でしのんで参りました」

 初老の男が主に変わって深々と頭を下げた。


 どうやら公子はわたしの執り行っている古きものたちへの祈りを見学したいようだ。こんなものを見て、いったい何の参考にするのだろう。絶対何か裏があると思いながらも、その理由が全く思いつかない。


 家の抗争に勝つためにこの豚公爵の支援がいるとでもいうのだろうか? 

 味方にするのならもっとましな人がたくさんいるだろう。悪名高い豚と密会なんて逆に支援者が減ってしまいそうなものだけれど。


 断る理由が何一つ見つからなかったので、わたしはしかたなく、表面上はうれしそうに、公子と村の祠に向かう。


「あの、ありきたりの儀式なのだが、いいのだろうか?」それでも一応、わたしはルイ・イエローリンクに念を押した。


「古式ゆかしい祭りだときいております。いずれわたしも執り行わなければならないものですから、一度拝見したいと思いまして」


 実はこの儀式、秘技とかなんとかで、人に見せてはいけないものだったりするのだろうか。ウィリアムの記憶の隅々までひっくり返してみたが、他人に見せるなとかそんなことは一度も言われたことはない。


 そもそも儀式は旅の目的をごまかす口実だ。領民がとても喜ぶので、調子に乗ってやっていたけれど、伝統の儀式という以外に行う理由はない。わたしの中ではありふれた儀礼の一つに過ぎなかった。


 祠の前でいつもの動作を繰り返す。はじめは古き者どもを呼び出す儀式のように感じていたあやしい聖句も慣れてくると子守歌のように心地よい。ちょうど土をいじっているときのように心身が研ぎ澄まされていくのを感じる。集中していると見えない未来への不安や恐怖が解けていく。きっとご先祖様たちもこうして儀式を積み重ねることで心の安定を取り戻していたのだろう。


 今日はいつにもまして没入してしまった。これからの出来事の鍵となる人物と思いもかけず顔を合わせたのが重荷となっていたのかもしれない。


 ずいぶん長い時間が過ぎていたようだ。素朴な住民たちは感激してくれている。ここに領主が訪れたのは先々代が若いとき以来らしい。父は有能な王家の家臣であったが、こうした領地巡りはほとんどしていなかったようだ。


 もっと早くに回るのだった。ただ儀式をしただけでこんなに尊敬してくれるなら豚公爵としておとしめられることもなかったかもしれない。武力も知力も持っていないわたしに領主としてできることといったら、こんなことくらいだ。


「いつもこんな感じなのですか?」

 すっかり存在を忘れていた公子が話しかけてきた。

「ええ、今日は少し長かったでしょうか?」


 素晴らしい儀式でした、とお世辞をのべる公子はどこか戸惑っているように見えた。長い儀式の間放置していたのはまずかっただろうか。なにしろ座る椅子もない、地べたに頭をすりつけておこなうような儀式だ。暖房もないふきさらしの場所に立たせておいたのだ。いくら若い公子とはいえ体に堪えたかもしれない。

 わたし自身、最初の頃はつらかったからね。

 空を見上げると、日が暮れかかっていた。


 タイミングよくクラリスが現れて、公子にこの村に滞在することを提案する。

「ささやかですが、宴の準備も整っております」

 って、あの時間でよく準備できたな。さすが有能な侍女だ。


 暗い山道はいろいろな意味で危険だからな。道中で何かあったらこちらの責任になってしまう。

 幸いにもこちらには、有能な兵士たちがいる。借り物なのが気になるところだが、それはそれ。

 わたしをなめまくっている家臣どもよりはよほど規律正しく礼儀をわきまえた兵士たちだ。まだ開戦もしていないことだし、イエローリンク家のものにきりかかるようなことはないだろう。


 そのあたりのことは公子も気にしているようだ。

「彼らは王軍ですよね」彼は声を潜める。


「そうですよ。わたしが“祭り”ごとを行うのに貸していただいた兵たちです」


「あなたの、供回りは、いないのですか?」

 クラリスや、ダークや…あ、ほとんどいない。

 貴族としての自尊心をぐさぐさとえぐるところをつかれてわたしはおどおどと目をそらす。


「へ、兵士たちはとても有能ですから…このくらいの供回りで充分なのですよ」

 わたしの無能ぶりがさらされてしまうではないか。家臣にも見捨てられているあわれな豚だと思われているようだ。


「…最近は物騒ですからね。身の回りには気をつけられた方がいい。人はどこで恨みを買っているかわからないものですから」

 真顔で心配されてしまったよ。


「ははは、それは大丈夫ですよ。私のような者をおそうものなどおりませんよ」

 そういってからわたしは悪名高い豚だったことを思い出す。確かに噂通りの悪逆貴族なら、女房を寝取られた亭主とか子供をさらわれた女将とか暗がりに潜んでいてもおかしくない。プロの暗殺者の一人や二人やってきそうなものだ。

 実際にはわたしに直接恨みを持つものなどいないから、誰も来ないのだけどね。それはそれでもの悲しい気分になるな。


 晩餐会は豪勢だった。材料も道具もない中、ダークは頑張った。村人も頑張った。器や盛り付けはかなりワイルドな感じだったが、なんとか料理の並ぶ晩餐会の雰囲気が演出されている。


 イエローリンクの公子はわたしが認識していたよりも多くの供回りを連れてきていた。裏で働いているものをくわえればもっと人数はいることだろう。なるほどわたしの身辺警護を心配するはずだ。


「村秘蔵の火酒はいかがかしら」


 わたしの愛人役をこなしてくれているマーガレットさんの“娘”が公子のおつきたちに酒を勧めている。彼女のような女性をこんなところまで連れてくるのはどうかと思ったが、今は存在がありがたい。そつのない接待は彼女たちの得意とするところだからね。


 公子もおつきの爺も料理や酒を楽しんでくれているようだ。特にダークの作ったメイン料理はお気に召したらしい。しきりに褒めていた。


「そうでしょう。彼は素晴らしい腕の料理人でしてね。彼の作る料理でないと満足できないのですよ」わたしもうれしくなってダークを持ち上げる。「え?彼を雇いたい?それは困りますね。わたしの食べるものがなくなってしまいますよ」


 彼は本当に腕のいい職人だ。わたしは食通ぶって和食の極意をアレンジして語りながら、ダークの売り込みを図った。ゴールドバーグ家がつぶれても、残された人たちが生活できるように考えておかないといけない。

 ただ討伐予定の魔王のところはどうかと思う。ギュスターブのところはどうだろう。むっつりと言葉少なに座っているが、密かにおかわりを繰り返しているところをわたしはちゃんとみていた。王国の士官のうちならば、これからも安泰なのではないだろうか。


 村の女たちが干した果物を配って歩く時分にはあたりは穏やかな笑い声に包まれていた。準備期間の短さを考えると、まずまず上出来だったのではないか。


 わたしもひさしぶりに楽しい気分になった。ルイ・イエローリンクはさわやかな青年だった。彼が後に魔王と呼ばれるようになるとはとても思えなかった。ひょっとすると彼ではなく別の人が魔王になるのかもしれない。

 物語では帝国の大規模魔法による宝玉の暴走に巻き込まれた男が魔王になるという記述しかなかった。宝玉を持って逃げるエリザベータをおって行った主人公たちが謎の閃光とすでに覚醒した魔王と出会うのだ。魔王がどんな人間だったか、設定では黄色ちゃんと地位を争っていた親族ということになっていたが。


「…久しぶりに飲み過ぎてしまいました」穏やかに青年は笑う。「ここのところ、ごたごた続きで、ゆっくり人と話すことがこんなに楽しいものだということを忘れてましたよ」

「そういっていただけるとこちらもうれしいです」


「昔は…兄弟で…こんなふうに楽しい時を過ごしたものです」ぽつりと公子がこぼした。「それが、王都の学校に通うようになってから変わってしまって…公爵様は友愛会というものをご存じですか」

 思い切ったようにあげられた黒い目がこちらを見据える。

「友愛会…噂は聞いています。クリアテスの教えに基づく思想だとか」

「弟が、その会にのめり込んでしまったのです。全くこちらの話に耳を貸さずに、学校の仲間と行動を共にしていて…わたしたちが帝国と内通しているとか、領民を圧迫しているとかあることないことを」


 酔いが一気に覚めた。こんな辺境の地にもアレの力は作用している。わたしはシナリオの不気味な強制力を感じて身震いした。


「わたしたちがなにをいっても聞いてくれないのです。しまいには自分には精霊の加護がついていると言い張る始末。わたしはどうしていいのかわからなくなっています」

 となりで初老の男が沈痛な顔をしてうなずく。わたしは何も言うことができずに酒を飲んだ。酒の味は全くしなかった。

「自由、平等、友愛でしたか?」わたしはそれでもなるべくさりげなく慰めようとした。「若い自分はそういった新しくてきれいな理想にはしるものですよ。大丈夫。ある時期が来たら弟君も目を覚ましますよ。新しい金ぴかのおもちゃよりも古くても使い勝手のいい道具のほうが素晴らしいことにね」


 ブルーウィング公にも似たような話をしたな、ぼんやりと狸親父の顔を思い出した。


 この物語が終わったら、友愛会も消えてしまうだろう。あの“村”のように。友愛会はこの世界を狂わせる劇薬だ。物語を無理にでも成立させる小道具の一つだ。舞台が終われば片付けられてしまい込まれてしまう。彼の弟もそれがただの小道具だったことに気がつくかもしれない。


 そして、そのときにはわたしも消えている。

 酔えない頭のさえた部分にその考えが突き刺さる。

 出番が終わったものは、退場。いや、それ以前に。


 わたしたちは存在していてはいけない。


 手紙の言葉が呪いのようによみがえる。


 次の日、公子は別れる前にもう一度祠に参ろうとわたしを誘ってきた。


 わたしたちはともに小さな村の祠で祈りを捧げた。

 祈りを捧げ終わると、公子はさわやかな笑顔でわたしに笑いかけた。


「いろいろとありがとうございました。あなたとこうして祈りを捧げることができて本当によかった」彼は明るい顔で祭壇を見つめる。「こうしてここにいると母なる神の慈しみを感じることができます。偉大なる母がわたしに導きを与えてくださいました」


 昨晩とは打って変わって明るい雰囲気だ。何かが吹っ切れたのだろうか。


「こんなに精霊がたくさんいるのを見たのは初めてです。母なる神のお力があなたと主にありますように」

「………」

 弟だけではなく彼も精霊付きなのだろうか。わたしには精霊は一匹も見えていない。


「実のところわたしは神の力を疑っていたのです。精霊などこれまで一度も見たことがありませんでした。弟の話も、だから、話半分で。でも、今日はっきりわかりました」

「そ、そうですか?」

 なにかを納得したらしい。これもわたしにはわからない何かだった。


「わたしも領主になったらあなたのように広い心で民と向き合わなければなりませんね」

 広い心? それはなんだろう。わたしは薄ら笑いでごまかした。

 わたしは民となんか向き合っていないよ。これはただの暇つぶし。ただのいいわけでしかない。彼の誤解を解こうかどうしようかとしばし惑う。


「わたしは、そんな大きな心を持っているわけではない。わたしがこうやって歩いているのはとても小さな目的のためなのです。本当に個人的な、神の祝福を受けるなどおこがましいことです」

 ようやくそれだけを伝える。

 そう、わたしはただわたしの死という事象にあらがいたいだけなのだ。大きな世界からすればほんの小さな瞬きでしかない命の炎を守りたいだけなのだ。

 わたしの大切なもの、エリザベータ。


「本当にあなたと出会えてよかった」

 彼はそういっていたずら小僧のような笑みを浮かべた。

「実は知り合いに勧められたのですよ。面白い人がいるから是非一度会ってみるといいと」


 わたしが面白い人? ずいぶん控えめな表現だった。そんなことを公子に吹き込みそうな人物は一人しかいない。


「ブルーウィング公によろしくお伝えください」

 わたしはため息とともに狸親父に言づてを頼んだ。


 そうだ、館のものたちの再就職先をあの食えない男に頼んでみよう。ブルーウィング家は蒼様の実家だからこの政変も乗り切ることができるだろう。この状況でうっかり変な家に奉公してしまうと主人とともに没落しかねないからね。


 どこからともなく現れたイエローリンク家の家臣たちに守られるようにして彼は馬車に乗る。昨日はいったいどこに潜んでいたのだろう。お忍びでこの人数なら公式にはどれほどの人が彼について動くのだろう。


 引きこもり豚との格の違いを見せつけられて、わたしは地味にへこんだ。


「さて、次はどこの村かな?」

 村長に世話になったお礼をしてからわたしたちも次の村へ旅立つ。


 地味に出費がかさんでいた。次はどの皿を売ろうかと、頭の中で思案する。そろそろ家屋敷を売り払う算段を考えないといけないだろうか。そもそも、あの館を売ることができるのか、そのあたりから確認しなければ。


 今日は護衛のギュスターブが珍しく話しかけてくる。

「公爵様、軽率な行動はお控えください。彼が何者かご存じなのでしょう?」


「ルイ・イエローリンク公子のことか? イエローリンク家の嫡男、ではなかったかな?」


 ギュスターブは一度ぎゅっと口を結んだ。


「公爵様は彼が何をしようとしているのか、わかっておられますか? そのような人物とこのような場所で会うのは危険です」

 ああ、なるほど。

 わたしは彼の見せてくれた精一杯の好意をうれしいと思った。


「危険といえば、彼のほうが危険だろう? わたしのようなものと会食するということは」わたしは冗談めかしてそう返す。「評判ががた落ちなんじゃないかな。かわいそうに。わたしなら大丈夫だ。わたしが誰と会って、何をしても、大勢はかわらない。変えられるような人物だったらよかったのだけどね。心配する必要はないよ。ギュスターブ殿」


 馬車の窓から暖かい日が差し込んできていた。


 事態が動いたのはそれから数日してからのことだった。



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