1 豚の目覚め
「ウィリアム様、ウィリアム・ゴールドバーグ様」
家令の呼ぶ声に私は薄目を開ける。
どこか見覚えのあるカイザーひげのお仕着せを着た男が心配そうにこちらをのぞき込んでいた。
見たことがある
そう思った瞬間、二つの記憶がよみがえってきた。
一つはウィリアム・ゴールドバーグ公爵としての記憶。
もう一つは「華の楽園」というゲームをやった記憶だ。
二つの記憶に翻弄されて、私の頭は混乱する。白目をむいた私を見て、家令は慌てて気付け薬の瓶を差し出した。
私が大きく息を吸う。瓶から漂う甘い香りが混乱や恐怖を真綿のようにくるんで頭の一部が麻痺をしたようになる。
「大事ない・・・大事ないぞ」
体に似合わない小さな声でもぐもぐと私がいつものように返事をすると、家令は満足そうにうなずいて瓶をしまい込む。
「それはようございました。ウィリアム様、何かございましたらお呼びください」
男はそう言い残すと、45度に体を曲げて深々と礼をした。
私が宙を見つめていることを確かめて男は退出する。
知っている、わたしはこの男を知っている。
彼はゲームに出てくる悪徳貴族ゴールドバーグ家の執事だった。いつも無表情で現れて、無表情に悪役であるウィリアムの命令を承るというモブの一人だ。
流れる滝のようにわたしの中に流れ込んでくるウィリアム・ゴールドバーグの記憶に圧倒されながらもwわたしは必死でゲームの登場人物を思い出す。
いや、逆か。わたしの記憶がウィリアムに流れ込んでいるのか。
「華の楽園」・・・一部でカルト的な人気を誇るゲームであった。
分類は乙女ゲームとなっていたが、これを乙女ゲームと呼ぶのかといわれればいささかためらいを感じる。
体裁は乙女ゲームだった。美男美女の集うファンタジー世界の学園に一人のかわいらしい転校生がやってくる。そして王族や貴族、軍人や商人と恋のさや当てを繰り広げ、数々の陰謀にたち向かう王道の物語。
しかし実際には踏めば即座に死につながる理不尽な選択肢が山盛り、真のエンディングに至るまで何人もの恋人候補を攻略しなければいけないという面倒くささ。それに加えていきなり始まるダンジョン探索モードや、そこでキャラが死んだら蘇らない戦略モードなどなど。いったいどこのだれを対象として開発されたのか疑問に思える仕様てんこ盛りのゲームなのだ。たしかクソゲーの年間候補にも名前が挙げられていたほどの怪作である。
なまじイラストがかわいらしく、有名な絵師を使っていたので、それ目当てで買って爆死したプレイヤーは数知れず。かくいうわたしも最初は絵が目当てで購入したくちだ。
なんでそんなゲームにはまってしまったのか…今考えてもよくわからない。苦労の末に全クリアした後の虚脱感は言葉では言い表せない。わたしの時間を返せ。
そして売れ行きも良くない内容も今一つのこのゲームをもう一つ上の伝説に押し上げたのが、のちに発売された「真 華の学園」であった。大したアナウンスもなく発売されたこのゲームはなんと本家をバリバリの18禁にしたゲームだ。鬼畜度やグロ度がさらにアップ。
いったい誰がこんな続編を企画したのか。噂ではもともとこちらが原案で、あまりにも内容がひどかったのでソフトな全年齢版が先に発売されたとのこと。
わたしですか。ええ、やりましたとも。どちらの版もやったよ、最後まで。
これをやったら真のエンディングが・・・という煽り文句につられて、やりました。
そのエンディングで感動したかって?
あまりに印象が薄くってどんな終わり方をしたのか思い出せないほどのものでした。
むしろ中間のあんな出来事やこんな出来事のほうがトラウマレベルで残るようなゲームでしたよ。
それはさておき…
私、ウィリアム・ゴールドバーグはその中に出てくる主人公のライバル役であるエリザベート・ゴールドバーグの父だ。
そして、娘であるエリザベートは俗に言う悪役令嬢だった。
役割だけではなく、性格も極悪。自分では、意地悪な噂を広めたり、ヒロインを階段から突き落としたりといったかわいらしいいたずらはしない。自分の手は汚さない主義なの、とかなんとかいって全部人にやらせる。もちろん罪はかわいそうな犠牲者がかぶることになる。おこるイベントも結構えぐい。脅迫、盗み、殺し、何でもあり。
どこが公爵令嬢なのだろう。親がそちらの方ですか?
最初は純真な子羊の皮を被っているからなおさら始末に悪いのだ。カリスマ値がヒロインよりも高い彼女は部下や信奉者を操ってプレイヤーの精神を削るようなイベントを起こし続ける。いかに彼女の悪意と理不尽なイベントを退けて陰謀を暴くか、これがゲーム攻略のカギだった。
そして、ゴールドバーグ公爵は彼女を後ろで操る保護者兼、王国を転覆させる陰謀を企てる黒幕という設定だ。ルートによっては単なる親という時もあれば、娘を操って王家の抹殺を企むルートもある。まぁ、ビジュアルがあれなもんで、どの道筋をたどっても悪役確定。必ず最後には非業の死が待っているキャラだ。それに見合うだけのことはしているので同情の余地はない。醜悪な悪役のテンプレートみたいな男だった。
しかし、わたしが、いや、この豚が陰謀の黒幕?
ありえない。
私には悪役らしい知性もすごみも暴力性も何もないんですけど。ただの人の皮を被った豚なんですけど。
絡み合う記憶に圧倒されてどれだけの時間が過ぎたのだろう。
気が付くと、再び先ほどのカイザー髭の男が戻っていた。
宙をにらんでいる私には目もくれず、ベッドの上に小さなテーブルを渡して、食事を並べていく。
「ウィリアム様、朝食でございますよ」
ものすごい量の食事だった。肉の塊に唐揚げが山盛り、湯気を立てているスープ。ケーキがワンホール、それもこってりと生クリームの乗ったもの。甘そうなジュースが三リットルは入っていそうなガラスの瓶にはいっている。
これを食べろというのか。肥満とか、成人病とか、糖尿病とか・・・
いや、これ、一食なの?正直わたしの3日分の量があるのだが・・・
「・・・」
無理だ。どうやってこんな量を食べればいいのか。冷静に考えれば、まず不可能。
だが、豚の体は条件反射のように食べ物に手を出していた。
やめて・・・そんなに食べたら豚になってしまう。
すでに豚か・・・豚なんだよ。
結局半分くらいは食べてしまった。いったい何キロカロリー分食ったんだよ?
これでもいつもの量の半分だって。まだ食べたいと思う気持ちと、いやいくらなんでも多過ぎだろう突っ込みを入れる気持ちが同時に湧き上がってきて。
黙っていると髭男に少食だと心配されてしまった。
心配するところが違うだろ。この食生活が健康につながるはずがない。主人をダイエットさせないとなにかの病で絶対に死ぬ。豚公爵、先は長くないぞ…
「・・・今日はお嬢様がこちらにご挨拶に来られる日ですよ。お召し変えいたしましょう」
食べ残しを片付けた家令は何人もの女中を連れて戻ってきた。
ベッドから出ないといけないのか・・・めんどうくさい・・・
私にはこの食事の量も家令のふるまいもすべてが平常通りなのだ。
恐るべき養豚場の生活。食って、寝て、食って、寝て・・・ここ直近の記憶はそれがすべてだった。
ただいつも違うのは、わたしの意識が彼の中に入り込んで主導権を握ろうとしているということだけで…それに抵抗するのも私には面倒だった。
このままではいけない。痛切に思いつつも体を動かしてみていかにこれが労力のいることかを思い知る。
体が重いよ。動かないよ。
ベッドから降りるのにも一苦労だ。着替えるのに手を上げたり足を上げたりするのにも息が切れそうだ。なんでこんなになるまで対処しなかったのだろう。寝ているだけで骨がきしむ。
そんなことを言われても・・・異物のように混入してきた異次元の思考をウィリアムはぼんやりと否定する。今までこうしてやってきたのだから、このままでいいだろうに・・・
そうこうしているうちに身支度が整ってしまった。
いや、私は何もしていない。周りの女中さんや屈強な召使たちが汗を垂らして服を着せたのだ。
いや、本当にご苦労様。
着せ替え人形もかわいらしければ楽しいが、中身が豚・・・それも重量級・・・
はぁ、椅子に座って、いや座らされてぼおっと待つ。
その反応にわたしは戸惑っている。このウィリアムという男、なんとも反応が薄いのだ。わたしという劇薬のような存在が中にいるというのに、それを気にしていない。むしろいろいろ考えてくれるだけ面倒ごとが減っていいと思っている。これを怠惰という言葉で片づけていいのだろうか。
「もうすぐお嬢様がいらっしゃいますよ」
カイザー髭が耳元で囁く。
豚公爵は微かに身じろぎをした。
おや、ひそかに心が騒いでいるのを感じる。
私は心を躍らせている。なんだろう。
娘に会えてうれしい…久しぶりだからな。時間の感覚がなくなった豚にとってもご無沙汰というだけの長い間娘に会っていない。
豚は本当に娘のことをかわいがっている? 暖かい感情が、衝動が心の中に広がっていく。
その反応は意外だった。なぜなら・・・
「お嬢様がいらっしゃいました」
正面の扉が召使の手によって開かれる。
「お父様、お久しぶりでございます」
目の前に悪役令嬢エリザベータ・ゴールドバーグが立っていた。