9話「森の中のサーカス」
肉塊の魔物の口臭がラヴィに生理的嫌悪感を与える。けれど、彼女の体は石のように動けなくなってしまっていた。
負の感情を力にできる人間と、そうでない人間がいる。彼女の場合は後者だ。
ラヴィはしばしば怒りや悔しさを力に変えるが、恐怖を勇気へ変換させるだけの精神力はないようだった。
「あ、あ……」
今にも飲み込まれんとしているにも関わらず、彼女の足はすくんで動かない。
かつて世界を救った勇者がこう言ったらしい。「恐怖から勇気は生まれ、絶望から希望は生まれる」のだ、と。
だが、現実に彼のような強い人間は滅多にいない。それどころか、ラヴィのように悔しさをバネにできない人々や、怒りに支配され続けている人のどれだけ多いことか。
「「「いただきます」」」
だから、彼女は決して弱くなかった。この厳しい世界で生き抜くには足りなかったかもしれないが、十分強い女性だったのだ。そして――――
「〈アサシンズナイフ〉!」
それ以上に、エルという男は強かった。
懐に隠していた短剣を取りだし、呪文で強化して投擲する。
それは綺麗な直線を描きながら、凄まじい勢いで飛んでいく。肉塊の芯をとらえた短剣が反対側から出ていく頃には、その巨体は霧散してしまっていた。
「間一髪だったな」
エルはそこらに落ちた自分の短剣を回収しながらラヴィへと近付く。腰を抜かしている彼女へ手を差し伸ばし、余裕の笑みを見せた。
「だから言ったろ? 『話を聞くな』ってよ」
ラヴィは彼から目を逸らし、自分の失態を恥じた。そのせいで顔が赤くなる。
「次はうまくやってみせます」
「そうしてくれると助かる」
彼女が手を取ると、エルは軽々と持ち上げてくる。
彼はわずかな緊張を帯びたまま、慣れた手つきで短剣の数を確認し、馬の近くへ歩きだした。ラヴィも気を取り直して彼に続く。
「初めに聞いた声は今の魔物のものとは違ったよな」
「はい。他にも魔物がいる可能性はかなり高いでしょう」
会話をしながら各々の馬に跨がる。
「なら、先を急いだ方が良いのには変わりないな」
「またうるさい魔物と戦うんですか。耳が四つもある私としては、相性が抜群に悪いですね」
「あれ? こんな時に『冗談を言う余裕がある』のか?」
「……今のはナシです」
ラヴィは数分前の自分の発言を思い出して、早くも二度目の失態を犯したことに思い至った。
四方八方から狂気的に突進してくる魔物をかわし、いなし、隙を見て仕留める。先程からその繰り返しだ。
フォクシーは何も考えないよう、作業的に事を進めていく。
いくら魔力によって身体能力が上がっているといえど、彼女は呪文も使えない少女だ。ただしこの場合、千歳を越えている女性を少女と言っていいのかは考えないものとする。
ともかく、彼女は魔力が高くて身体能力がある程度向上していること以外は、普通の少女なのである。避けるのに徹していては、一体一体を倒すのにも時間がかかる。
そして休みを挟むことなく戦い続けているため、集中力や体力も徐々に削られてきていた。
「オマエ モ コイツラ ト オナジ ニ ナルンダ!」
前方から突っ込んできた巨鳥を避けながら片足を切り取る。バランスを崩して転んだ魔物の腹へ槍を刺しているところへ、別の魔物が食いかかった。
「カイヌシ モ キット アノヨ デ マッテクレテイル ダロウヨ」
横から迫ってきた嘴を後方へ跳んでかわすと、そこには既にもう一体のオウムが口を開けて待っていた。このままではその中へダイブする事になるだろう。
「シアワセ デショウ?」
空中で体勢を変え、開いている口の中にある舌を両断する。全体重を乗せた槍の石突きを鳥の頭に叩き落とした。
首を下げている魔物へ追撃をする間も与えずに次の攻撃が彼女を襲う。
「もうっ! キリがないよ~!」
後退して距離を離す。先の見えない事態に、フォクシーは地団駄を踏んだ。
この戦いはとっくに消耗戦へと突入していた。孤軍奮闘している彼女からすれば、状況がジリ貧であることは火を見るより明らかだろう。
「でも、負けないもんね。私、魔王だもん」
前方で歌っている魔物達を威嚇するように槍をぶんぶん回す。体の周りで、頭の上で、腕を前に伸ばして。
彼女はあらゆる方法で、そして確実に間違った方法で、槍使いたる力を誇示しようとしていた。
「強いんだぞ~!」
回転させたまま空中に投げ、高く飛び上がった槍を背面でキャッチする。まだまだあるぞと言わんばかりに別の技へ移行し始めた。
「どうだ、怖いでしょう!」
威嚇は次第に芸になり、魔物達はそれに興味を持ち始める。
「オー!」
「スゴイ! スゴイ!」
鳥達は羽を使って称賛の拍手を彼女へ送った。
「えへへ。でしょ~?」
それを受けて露骨に調子に乗るフォクシー。得意な顔で武器を額の上に立てている。
「それじゃあ、君達にとっておきを見せてあげよう」
ひょいっとデコから槍を浮かし、華麗に手に取る。気分は大道芸人だ。すっかり戦闘の事など忘れてしまっているらしい。
再び最初と同じように槍をクルクルとさせながら体の周りを行き来させる。しかし前回とは違って、槍の回転と周囲を移動させる速度、その二つが上がっている。
二つの回転の加速は止むことを知らず、やがてフォクシーの姿が槍の残像で見えなくなるまでになった。
「ふんふんふんふん!」
彼女の隠し芸が炸裂する。雲間から月明かりのスポットライトが降り注いだ。鳥や虫の鳴き声は、さながら軽快なバックミュージックであった。
「「「イイネ! イイネ!」」」
観客達はここ一番の盛り上がりを見せる。その声に反応して、森の奥からさらに何体かの魔物が姿を現した。満員御礼だ!
「うおおぉぉぉっ!!」
とうとう速すぎて遅く見える現象が発生し始める。だがフォクシーの腕は高速で動いているため、サボっている訳ではない。
「あっ」
そこで、彼女の手が滑った。遠心力やら慣性の法則やらに従って、槍は遥か彼方へと飛んでいってしまう。
「………」
不意に降りる静寂。空気を読んだように月は雲に隠れ、動物達も口をつぐんだ。こんな場面じゃ閑古鳥すらも鳴いてはくれまい。
瞳孔の開ききった目がフォクシーへと向けられる。彼らの顔は心なしか真顔に見えた。どういうわけか、失敗したフォクシーも無表情である。今になって、ようやく我へ返ったらしい。
「……あはは~。失敗しちゃったな~、ごめんごめん」
頭を掻いて謝る彼女へ、魔物達は一斉に襲いかかった。容赦は無い。怒りに任せて猛スピードで迫ってくる。
「ひ、ひぃ……!」
目前まで進撃した魔物に為す術も無く目を瞑るフォクシー。せめてもの抵抗に、両手を顔の前に出している。
嘴が彼女を飲み込もうと大きく開かれた、その時――――
「フォクシー!」
その魔物は銀色の槍に頭を串刺しにされ、消失した。
彼女が目を開けると、目の前にいた巨大鳥達が次々と短剣に頭を貫かれている光景が視界に入ってくる。
「貴方って子は……!」
間一髪のところでフォクシーを救ったラヴィは拳をわなわな震わせながら彼女に近づいた。お怒りのようだ。
ゲンコツを食らうことになると覚悟して、再び瞼を降ろしたフォクシーに、彼女は強く抱きついた。
「ら、ラヴィ……?」
「バカっ! 心配したんだから! 一人でどこか行っちゃ駄目じゃない!」
叫ぶ彼女のその目尻には、一滴の雫が湛えられている。そんな姉の姿を見て安心したように、妹もまた抱擁に応じた。
「ごめんね、心配かけちゃって。……でも、迷子になったのってオジサン達の方だよね?」
「えっ」
「えっ」
二人の呆けた声と共に再会のハグが解かれる。片方が致命的な勘違いをしているようだった。それがどちらかは言うまでもないだろう。
「なにコントしてんだよ」
魔物を駆逐し終えたエルが短剣片手に呆れた様子でやってくる。
「あっ! オジサンも無事だったんだね!」
「まあな。しかし本当、危なっかしい奴だな。今回は良かったものの、町の外に出るときは注意を怠るなよ」
「へへん、魔王の私に驕りはないよ!」
「……へぇ、そうかい。〈アサシンズナイフ〉」
彼は呪文を唱えると、片手に持っていた短剣を真上に放った。空中を飛行し、エル達三人を食らうべく頭上から垂直落下していた魔物の頭を、短剣が真っ二つに割る。
鳥の魔物は彼らに触れる寸前で霧散し、後には不快な臭いだけが残った。
「まあ、油断大敵ってやつだな」
横に目を逸らしながら、降ってきた短剣を掴んで腰に差す。
エルが指笛を鳴らすと、二体の馬が近寄ってきた。片方に跨がり、腕時計をチラッと見て、仕切り直すように少女二人へ笑いかける。
「さあ、帰るぞ。晩飯の時間だ」