1話「交わされた約束」
これはある世界の、小さな小さな物語。
見るからに堅牢な造りの城がそびえ立っている。色鮮やかな花畑を擁す庭に囲まれ、敷地の外は断崖絶壁。かつて人間と領地を二分するために造られた巨大な壁が、城から左右へ果てしなく伸びていた。
そんなお城の二階、とある一室に、二十代後半の男性と十代前半に見える少女がいた。
男の名はエル。透き通るような金髪と、澄んだ青い瞳が特徴的だ。魔王城にいるけれど、彼は人間である。
女の名はフォクシー。セミロングの銀髪少女だ。その名の通り、狐の耳と尻尾を生やしている。
ここは彼女の部屋である。二人とも窓際の席につき、エルはコーヒーを、フォクシーはクッキーを口に運んでいる。そのため、それらの香りが室内に充満し、どこか優しい雰囲気を作り出していた。
「このクッキー美味しいよっ! 流石エルお兄ちゃんだね!」
頬に両手を当て、足をバタつかせる狐っ子。その尻尾は千切れんばかりの勢いで振られている。
「当然だろ? 何年料理やってると思ってんだよ。菓子作りもお手の物だぜ」
対するエルは得意げに鼻を掻いて笑ってみせる。その様は実に自信に満ち溢れていた。
もとより、彼らの仲が良い所以はそこにあった。
エルがたまたま作った料理を、これまた偶然食べたフォクシー。その時彼女に走った衝撃は凄まじいものだったという。
そんな天にも昇るような幸福感を求めてもう一度、もう一度と彼を訪ねるうちに、こうして二人で遊ぶようになったのだ。
「まったく。ジャーキーばかり食べていた頃が懐かしいな」
「大好物だもん。今でもたまに食べてるよ~」
クッキーをポリポリとかじりながら、そう返す。両手で持っているため、見ようによってはリスにも見える。
そんな彼女の様に微笑みながら、エルも菓子を口に入れた。部屋には小気味の良い咀嚼音だけが響いている。
「でも、お兄ちゃんがずっとお料理作ってくれるなら、ジャーキーが無くても生きていけるよっ!」
「それはどうもな」
少女の絶賛に快活な笑いをもって応じる。
普段の彼は騒ぐのが大好きなおちゃらけた人物なのだが、今日は特別大人しかった。ひょっとしたら、この部屋に流れる穏やかな空気がそうさせているのかもしれない。
「……そうだ!」
良い事を思いついたといった様子で席を立つフォクシー。驚いて彼女に目を向けるエルの手を、両手でがっしりと掴む。
「私が魔王になって、エルお兄ちゃんを側近にすればいいんだ!」
「は?」
呆けた声が出るのも無理ない話である。それほど彼女の提案は突拍子もなかったのだ。
「だってそうすれば、ずっとお兄ちゃんの料理食べられるでしょ?」
魔王は数百年という時の間、一度も変わったことがない。現在国を治めている魔王は強力な支持を獲得しているのだ。政治にほとんど介入していないのにも関わらず、依然として圧倒的な人気を誇る彼女を追い越すことなど不可能だろう。
「……ハハハッ」
そんな事も理解できていないらしい純粋無垢な瞳に、思わず笑いがこぼれるエル。
若い頃によく語ってしまう可愛い夢物語だ。それなら大人らしく乗ってやろうと、満面の笑みで返事をする。
「ああ、いいぜ。楽しみにしてるからよ」
「うん! 待っててね!」
――――それが十五年前のことだ。
ある日の朝方。魔王城の一階にある部屋の中で、エルは眠りについていた。静かに寝息を立てている。長身ゆえに、その足は毛布の下からはみ出ていた。
「……はっ」
不意に体をびくつかせると、目を覚ます。小さく呻きながら、硬くなった体を起こした。穏やかだった表情が途端に険しくなる。
その瞳の色素は薄くなり、金髪には少し濁りが混じっている。薄く髭を伸ばしているため、野暮ったいイメージが付きまとっている容姿だ。漏れでる声は一層低く、渋みを増していた。
(懐かしい夢だったな……。あれからフォクシーとは遊ばなくなっちまったんだっけか……)
カーテンの隙間から容赦なく顔に降りかかる日の光に目を細め、眼前に左手をかざす。同時に右手でベッド脇の台から時計を顔の横まで持ってきた。睨みつけるような視線で時刻を確認すると、深い溜め息を吐く。
(なんだよ。まだギルドも閉まってる時間じゃねえか。休日だし、魔物狩りにでも出掛けようと思ったのに)
眠りが浅くなっている事と、嫌な夢を見たことに対する苛つきが、時計を戻す動きを乱暴にさせた。
陽射しから逃れるように窓に背を向けると、毛布を頭までかぶり直す。
(フォクシー、か……)
あの日から彼女はエルのもとを訪ねなくなってしまった。理由は分からない。聞こうにも、尋ねる相手がいないのだ。
(本当、どこ行っちまったんだろうな)
思考したところで答えなど出るはずもなく。
彼の意識を徐々に睡魔が蝕んでいった。瞳を閉じて、暗闇に深く沈んでいく感覚に身を委ねる。そうして再び眠りに落ちかけた、その刹那――――
「エルお兄ちゃんっ! おはよう!」
激しい音と共に、聞き覚えのある声が耳に届いた。自室の扉が開かれた音と、女の子の声だ。
現実に引き戻されたエルは音の発信源、部屋の入り口を見た。瞬間、その目が見開かれる。
「……嘘だろ。フォクシーか……?」
一瞬また夢を見ているのかと疑るが、自身の目を擦ってもなお彼女はそこにいた。しかもその姿は十五年前と変わらず、少女のままだ。
「おいおいおいおい……!」
言いたい事が多過ぎて、ろくな言葉を発することができない。再会に対する喜びと戸惑いに胸を掻き回されながらも、ベッドから飛び降りる。
「お兄ちゃん、今日からよろしくね!」
そのまま歩み寄って話しかけようとしたところで、それは彼女に阻まれた。意味不明な言葉に「どういう意味だ」と身振りする。
「よろしくって、何をだ?」
問い返す彼の両手をフォクシーの小さな手が包む。いつかと変わらず、勢いよく尻尾を振り回しながら、彼女は元気よく答えた。
「魔王になることが決まったから、側近よろしく!」
「……マジかよ」
長い長い沈黙の後、ようやく溢れでた言葉は、そんな気の抜けたものだった。