イルダート7
青年が二人、午前の仕事を終えて、息抜きと昼食を兼ねて行きつけの店への路道を歩いていた。
片方はつい先月に結納したばかりの新婚だが、こうやってかわらず昼食に付き合っているのだから、相方の青年は『ご愁傷さん』と思わずにはいられなかった。
朝から弁当を手渡されキッスでお見送りなど、未婚の男の幻想でしか無いらしい。
「あんだよ」
なにかを察したらしい『新郎』にぎろりと睨まれ、青年は、にまにましながら「いーや」と肩を叩いてやり、店の扉を引いたのである。
そこへ、
「いらっしゃいませー!」
溌剌とした声と笑顔で出迎える、うら若い栗毛の少女。
いつもなら昔は美人だったと、先達がしとやかに語る恰幅の良い女将が怒声混じりに出迎えるものだから、店を間違えたのかと青年は目をしばたかせてしまう。
しかし、店内はどちらを向いても馴染みの顔。
たった今入ってきた、手を掛けたまま半開きの扉から頭を出して看板を確認すれば黄色い『月グマ亭』の文字。
間違いなく、目的の店であった。
いまだ混乱から立ち直れない二人組へ、ふわりと足首まで広がる白と黒のモノトーンのエプロンドレスの裾を揺らし、銀色のお盆の上から両手を揃えた先ほどの栗毛の髪の少女が「お二人ですか?」と尋ねる。
「あ、え~っと、そう、です。はい」
「それでは空いてる席へご案内いたしますわ」
これが馴染みの女将ならば「突っ立ってないで空いてるとこに座んな!」と、尻を蹴られる勢いで怒鳴りつけられる。
それが、どうだろう。
どこかのお貴族様のように馬鹿丁寧に、それも、肩まで伸びた柔らかそうな髪の美少女に上品な笑みで出迎えられているのだ。
曲がった背筋も張ろうというもの。
モゴモゴと青臭いガキのようにどもってしまった自分に羞恥を覚える青年であるが、隣で既婚者のくせに、ぱっくり口を開いて『マヌケズラ』を晒すこいつよりはましかと、胸中でごち、友人の頭を後ろからはたいて少女の案内に従ったのだ。
数分後、青年は今度こそ、既婚者の同僚を笑えない『マヌケズラ』を晒すこととなった。
「おまちどおさま」
「ああ、ありが……」
さっきまでの友人の顔をダシにからかいながら、昼飯を待っていた青年は、給持に来るであろう先程の少女に今度こそ『イかした』応対をしてやろうともくろんでいたのだが、まさしく思考することを忘れてしまった。
ながるるのは腰にまで伸びた白銀の髪。
まるで、どこかの童話の姫か、神話から抜け出してきた女神か。
戦慄を覚えるほどの美貌は、彼女を同じ人間と思う事を否定させた。
「それではごゆっくり」
丈長のエプロンドレスが一歩、また一歩離れるたびに掻き立てられるような寂寥を覚える。
にもかかわらず、青年は一音も発する事ができなかった。
結局、その姿が厨房に消えたのを見送って、ようやく我にかえった。
正面を向けばさっきまでの自分と同じだったに違いない同僚と目が合い、気まずさを誤魔化すように、お互い料理を口に運んだのである。
ホールをドア一枚で挟んだ向こうにある厨房。
『月グマ亭』の名前にふさわしい、クマのように大柄な主人の横で、少年が真剣な顔で手を動かしていた。
手つきは馴れたもので、とんとんとんと、小気味よく等間隔に食材を切っていく。
はじめは疑うような目だった主人も、今ではすっかりあてにして「次はあれを頼む」、「皮剥きを終わらせおいてくれ」と指示を出している。
もともと無口な主人だ。
少年も返事こそするものの、作業に集中しているため、厨房内は煮炊きの音ばかりで静かなものである。
気まずさは不思議と無い、『仕事場』らしい空間だった。
そんな空気をぶち壊すかのように、スイングドアがばんっ開け放たれた。
そこには鼻息荒く仁王立ちする栗毛の少女、メイリー。
何事かと驚いた顔を向ける少年、ヴァル。
強面の主人にまで言いたげにちらりと横目を向けられるものだから、メイリーも「うっ」とたじろいでしまう。
「まったく、お前は騒音をばらまかないと生きていられないのか?」
やれやれと首をふるのは、さっきまで出来上がった料理の仮置き台に両肘を突いて、だらしない顔で働くヴァルを『見守っていた』白銀の髪の少女、リザリスだった。
「ああっ! やっぱりここにいましたわね、リザリスさん!」
ずかずかと厨房を闊歩し、リザリスに詰め寄るメイリー。
「なんだ、歩く騒音め。わたしはヴァルを見守るのでいそがしいんだぞ」
「メ・イ・リーです! それから仕事で忙しくなってくださいまし! お昼時だっていうのにこんなところで油を売って。せっかく来店してくださったお客様を待たせては失礼でしょう!」
「サボってない。ヴァルが作った料理を責任を持って運んでいる。本当ならわたしが全部平らげたいところだが、それを我慢して運んでいるんだ。だから料理が出来上がるまでわたしのあいらしいヴァルが一生懸命働いているのを見ていて何が悪い?」
「悪いですわよ! そのために配膳も愛想の一つも無くそっけなく済ませて、厨房にとんぼ返りしていますわよねっ!?」
メイリーの指摘を受け、リザリスはふっと視線を流したのだ。
「わたしは自分を偽るのが嫌いなんだ」
「せっ・きゃく・ぎょーですわよっ!? 自分のポリシーよりもお客様が気持ちよく過ごせるように振る舞うことを優先してくださいましっ!!」
ブンブン拳を振って訴えるメイリー。
その思いは届くことなく、それどころかヴァルを見ていたいのに邪魔をされたことが不満なリザリスは、むすっと唇を尖らせた。
「だったらお前は客がパンツ見せろって言ったら見せるのか? 自分の都合は後に回して、客の要望に全て応えるんだな?」
「な、ぱ、ぱぱ、ぱんつって……」
興奮で血が上っていた顔に、ますます朱がさす。
「あ、あくまで、わたくしはそういう心持ちでと言いたかったわけで、その……」
「ふん、できないんだろう? だいたい昨日から始めた『かぶれ』のくせをして一丁前に人に説教とは、笑ってしまうな」
鼻で笑うリザリス。
「わ、わたくしだって、久方ぶりとはいえ……」
ゴニョゴニョと口のなかでなんとか言い返そうとしてはみるものの、目の前の見下した小憎たらしい顔を引っ込めさせることはできそうにない。
「どうした? 口だけ素人、いっぱし気取りは終わりか?」
ブチリと、メイリーの中でなにかが切れた音に、リザリスは気がつけなかった。
「……き、…すわ」
「ん~? なにか言ったか?」
「できますわよ!! やればいいのでしょう!? 下着くらいお見せしますわよっ!!」
売り言葉に買い言葉。
血が上った頭にまともな判断力は残っていなかったのだろう。
ぎゅっと目をつむったメイリーは、身体を折ってドレスの裾をがばり持ち上げたのだ。
「んっ、な!」
さらされた若い女の張りのある、みずみずしい生足。
日常では隠されたそこは、赤ん坊のように汚れを知らない白さで艶やかに光って見えた。
そして、駄肉のついていない細い二本を辿った先には、見えてはならない少女を覆う魅惑のデルタが――
「こん、のっ」
涼しげな顔をひきつらせたリザリス。
足に力をみなぎらせ、後ろ手に台縁を掴むと、重力を忘れたように飛んだ。
後ろ宙返りで台を跳び越え、着地と同時に、ヴァルの頭を抱えて胸元に閉じ込める。
「ふ、みゅ、ううう」
ブラックアウトした世界から抜け出そうと、じたばたするヴァルだが、リザリスはメイリーにはない母性がいっぱいに詰まった胸から頑なにはなさない。
きりっと、切れ長の瞳をさらに尖らせて、リザリスは、吼えた。
「きっっさぁああまぁぁあああああっっ!!!」
「ひうっ」と腰が引けそうになるメイリー。
「純粋なヴァルの瞳になんて汚物を晒そうとするんだこの『アバズレ』がっ!! 剃り上げるぞ! てっぺんだけ残してなっ!」
ものすごい剣幕だが、ここまでやった手前、メイリーも大人しくは引き下がれなかった。
「あ、貴女がやれと言ったのですわ!」
「だあれがヴァルに見せても良いなどと言った! もしヴァルが今回のことがきっかけでパンツに興味を持ってパンツを覗こうとするようになったらどうする! ……そしたらわたしのパンツを喜んで手渡すしかないじゃないかっ!」
途中から目が爛々と輝いていたが、リザリスはヴァルの保護者として彼の将来をあんじているのである。
「ああ、もう、なにやってんだいアンタら!」
スイングドアを恰幅のいい身体がこじ開けた。
「このいそがしいときに二人して消えるとは良い度胸してんじゃないかい、おかげでホールはてんてこ舞いだよ」
「女将さん!」
そこには青筋を浮かべた『月グマ亭』の女将が腰に手を当てて立っていた。
「んん? アンタなにやってんだい。ここは娼館じゃないだよ、そんなものさっさとしまいな」
女将の指摘でようやく自分が力んだ拳をほどかず、ドレスの裾をまくり上げたままだったことに気付き、慌てて上からおさえこむメイリー。
その顔は湯を沸かせんばかりであった。
「ほらほら、さっさと仕事に戻りな! 休憩にはまだ早いよ!!」
「はいぃ……」
パンパンと手を叩く女将に背中を押され、メイリーがスイングドアを揺らす。
「アンタもだ。ほらさっさと行きな」
「うん? しかしだな女将」
メイリーがドレスの裾を下ろしても、ヴァルを抱きしめてはなさないどころか、黒銀の髪に顔をうずめていたリザリスである。
「しかしもへったくれもないのさ。アンタはここで雇われていて、ここの女将はアタイだよ。分かったらホールに出て働きな!」
女将は問答無用とばかりに首根っこを掴んでヴァルからリザリスを引き剥がすと、そのままリザリスだけを引っ張っていく。
「う"ぁあるぅ~~」
「がんばってねリサ。ぼくもがんばるから!」
未練がましく両手を伸ばすリザリスに、ヴァルがふんっと拳を握って鼓舞する。
「……女将」
「うん?」と返事を返したときには、女将が掴んでいたはずのリザリスは消えていた。
その姿はスイングドアの向こう。
「さあ、仕事をしようか」
きりりとひきしまった相貌で、リザリスは気合い十分にそう宣言した。
腕捲りをするその後ろ姿に、やれやれと首をすくめた女将も後に続いた。
静けさを取り戻した厨房で、メイリーが我を失った行動を起こす直前からずっと目をつむって鍋が焦げ付かないようにかき回していたが主人が、「ふう」とため息を吐いたのだった。