イルダート38
すっかり見馴れた月グマ亭の部屋で、身支度を整えたメイリーは、いまいちど部屋全体を眺めた。
その肩には修繕を施した鞄がしっかり懸かっている。
「ほんとに、いろいろありましたわね」
整えたベッドを惜しむように、一撫で。
イルダートへ来てから一月も経ってないことが、不思議なくらいこの部屋に愛着を覚えていた。
――今日、メイリーは王都へ向かうために旅立つ。
とっくの昔に決まっていたことなのに、整頓された部屋を出ようとしている今になって実感が湧いてきた。
あったこと、出会った人、瞼を伏せて想い巡る。
くすりと笑った。
痛いことも、辛いこともあって、だけど、いい想いで一杯になれたからだった。
その最中であった。
窓の向こうから聞こえてきた喧騒に、「あら?」と首を傾げたメイリーは、そこから月グマ亭前の通りを見下ろし、固まった。
「……あっ、ああの、二人っ!」
わなわな震え、顔を怒りで真っ赤にして、メイリーは鼻息荒く部屋を飛び出したのである。
ドタドタと階段を降りる音で軋む最後まで騒がしい部屋。
――少女には、郷愁に耽るいとまも無いらしい。
出立の日は《アーツ》を用いた傭兵との戦いから三日後、王都との中間にある『ログドニア』への乗り合い馬車が出る日となった。
その間に起きたことは、まず女将から始まる。
イルダートの月グマ亭に戻ったリザリス達を出迎えたのは、気もそぞろに何度も店と通りの間をいったり来たりする女将だった。
三人の姿を認めた女将は、今にも泣き出しそうな安堵を浮かべ、次には鬼も裸足で逃げ出しそうな形相になった。
それはもう、リザリスと言えども「うぅ」とのどを詰まらせて足を進めることを躊躇う迫力があった。
逃げ出せば、それこそどんな目に逢うか分かったものではない。
すごすごと女将の前まで来た一行に、女将が告げたのは、「とにかく休みな」だった。それから、「よく帰ったね」とも。
もちろん、雷注意報が解除されて胸を撫で下ろしたメイリーとリザリスに「まずは、だよ」と釘をさすのも忘れなかった。
それからまる一日の間、リザリスはベッドの上から動けなくなった。
はじめに違和感に気づいたのはメイリーだった。
歩こうとすれば躓き、ものを持ち上げようとすれば手から滑り落ちる。
リザリスらしくない『鈍さ』を前にして、女将と一緒に強く問い詰めると、渋々とリザリスは告白した。
長時間《ヴァルハラ》と繋がった反動により、感覚と神経伝達が一時的に鈍くなっていること。
無理な動きの再現が、全身の筋肉を傷付けたこと。
『ヴァルキュリア』も万能ではない。
ある程度、身体能力を引き上げてはいるものの、その力の本質が記憶の共有にある以上、高が知れている。
いくら達人の動きを再現出来ても、その肉体まで得られるわけではない。
持久力がある者と瞬発力がある者の筋肉の造りが異なるように、全ての動きを負担無く扱えるような全能の肉体は存在しないのだ。
身体は相当な負担を強いられたはず。
寧ろ、ただの一日の療養で全快したリザリスの身体は異常だと言っていいだろう。
ただ、そのたったの『一日』は、リザリスにとって大きな『一日』であったのは間違いない。
メイリーから、「本調子じゃない貴女に注意しているのは、わたくし達にまで手間なのです。大人しく休んでいてくださいまし」と言われ、そのあとは女将の付きっきりの看病ときた。
店がまだ閉まっているのをいいことに、延々と小言をベッド脇から聞かされたのである。
目覚めたヴァルに心配され、「大丈夫だ。心配すること無いんだヴァル。女将の説教なんて子守唄にしか聞こえないからな!」と意気込んだことが、女将の最後の容赦まで消し飛ばしたかどうかは定かではない。
それでも、昔主人のために覚えたのだというマーサージで筋肉を解したり、適度に空気を入れ代えたり、旅道具や費用計算の目録や店のリストを並べてくれたり、リザリスが休めるように手を尽くしてくれたのだから、開き直ることも出来なかった。
……狸寝入りだけは、ことごとく看破され、許されなかったが。
とにかく、女将の看病の恐ろしさは、ヴァルに無言でに抱きついて、ぐすんと鼻を啜ったリザリスの姿がよくよく語ってくれた。
リザリスが動けるようになると、今度はイルダートを管轄する役人が訪ねて来た。
ソードドックの件だ。
ソードドックの王――クリスタルハウンドの大呼は、当然イルダートまで響いていた。
それを聞いたイルダートの人間は、有志を募って捜索隊を編成したのである。
森の現状を確めるためという体裁で役人を説得したが、集まった男達の目的はリザリス達の無事を確認することであった。
そに証拠に、リザリスに恋心を抱いて玉砕した青年達、メイリーを娘を見るような目で見守っていた月グマ亭の常連、普段は厨房にいたが、食材の調達やゴミ出しで顔を合わせた際に、ハートを撃ち抜かれた奥方に追い立てられた旦那諸兄が大半だった。
森の中で捜索隊が見つけたものは、大量のソードドックの骸と底深い穴だった。
辺りに散らばった獣の毛から、ここで、乱戦が起きたことは間違いない。
更に、ところどころ黒毛に混じった白耄は、ただならない力を持った獣が居たのだと判断する材料になった。
獣と戦ったのはいったい『なに』だったのか。
それは、どうなったのか。
謎は深まるばかりで解決しそうにない。
結局、捜索隊は状況証拠に獣達の骸から採れるだけ角を剥ぎ、穴に放り込んでその場を後にした。
再び捜索隊が森へ出掛ける矢先に、リザリス達は帰還した。
役人としては一刻でも早く事情を把握する必要があり、即刻月グマ亭を訪ねたが、主人に門前払いを食らった。
「あの子らは疲れきって休んでいる。明日まで待ってやってくれ」
強面の主人が包丁片手にそう凄んでは、役人も引き上げるほかなかった。
リザリスが回復し、お目通りが叶った役人はいろんな意味で驚かされることになる。
事態が事態だ、ソードドック討伐依頼を受注したときより立場が上の役人は、リザリスと顔を合わせるのはこれがはじめてだった。
他の男どもがそうだったように、恒例のように目を奪われた。
使用人の格好をしていたが、白銀の髪の少女の気品は損なわれること無く、役人を威圧混じりに魅了したのである。
リザリスに促され、ようやく我に返った役人は、年甲斐もなく真っ赤になりながら、状況の説明を求めた。
そして、リザリスの返答と言えば……、
「ああ、わたしだぞ。それやったの」
あっけからんと、続いて、
「ちょうどいい、これを買い取ってくれ、金がいるんだ」
エプロンの隙間から、ぞんざいに取り出したのは布に包まれた小さな欠片だった。
水晶のような透明度のそれは、光の射し込み次第で虹色に乱反射していた。
クリスタルハウンドの角の欠片だ。
リザリスは、戦いの中で、王獣の象徴とも言えるそれを、僅かとはいえ削り採っていたのだ。
リザリスの自己申告に疑いの目を向けていた役人も、この代物には目の色を変えた。
ソードドックの受注は特に決まりは無いが、報告に関しては必ず立場の高い役人が付き添うことになっている。
それは真贋の見極めもだが、何歳くらいの個体を狩ってきたのか記録をつけるためだ。
未成熟な角が多ければ獣の群れの出生率が高かったことが示唆され、ある程度大きい個体が巡回に出てきているのならその逆。
その記録に従って今後の討伐計画や木材の伐採計画、その他様々な判断の材料にしているのである。
だからこそ、リザリスが出した角の価値を、役人は、正しく見抜くことができた。
いままでお目にかかったことの無い光沢と純度。
間違いなく、捜索隊が持ち帰った白耄の持ち主だろう。
出来ることならこの持ち主の獣とは、この先も会いたくないと考えながら、役人は、リザリスに心労絶えない業務で禿げ上がった頭を深々と下げ、疑ったことを謝罪した。
一度持ち帰った話は、すぐに返事が来て、リザリス達のもとには角を持ち帰ってはいないものの特例でソードドック討伐依頼の達成金と、クリスタルハウンドの角の売却金が約束された。