イルダート37
薄く焼けた、朝日が上る直前の空の下を、リザリスはヴァルを背負って歩いていた。
後方に残してきた景色は一夜にして天地をひっくり返す災害にでも見舞われたかのようだった。
災害の中心点には、瓦礫の塔がもの悲しく佇んでいる。
巨神の残骸が積み重なって出来たそれは、まるで墓碑のようだった。
振り返らずにリザリスはイルダートへ向けて黙々と歩き、その背中を数歩分遅れて、ほつれ、泥だらけになった鞄を抱えたメイリーが続く。
朝日は焦らすようになかなか顔を覗かせない。
戦いの後、『スカーレットドラグナー』はリザリスの身体から青い粒子に分解された。
同時にヴァルは「ごめんね」と言い残しリザリスに身体を預けると、寝息を立て始めたのだ。
「『ごめんね』なんて言うな。ヴァルの重さがわたしには嬉しい」
そう言ったリザリスの表情は、子供を寝かしつける母親に似て、しかし悲しくなるくらい痛みを堪えたそれだった。
《アーツ》の顕現は、ヴァルの『深層意識』に影響を及ぼす。
だからリザリスにとって、《アーツ》を使うことは躊躇われる手段であった。
「忘れたままなら――」
速断と即行が常のリザリスらしからない迷いを前に、メイリーは言葉を掛けることが出来ず、二人は沈黙のままイルダートへ道を戻り始めたのだった。
遠く、イルダートが視界に見えてきた。
距離だけなら、ちょうどはじめてメイリーがヴァルとリザリスにまみえたときくらいだろう。
思えば、幸運で運命的ですらあった出会い。
メイリーが『ここまで』来られたからこそ、天が与えてくれた僥倖だった。
メイリーが自分の力で来られた『ここまで』だから、『ここ』がいいと思った。
「リザリスさん……」
足を止め、メイリーは、前を往く白銀の後ろ姿へ声を掛ける。
「どうかしたか?」
振り返るリザリス。
美しく、力強く、全てを越えていく。
(この二人になら……)
メイリーは鞄の肩紐をぎゅっと握った。
「貴女は『ヴァルキュリア』と呼ばれる女神の正体、または由縁であることに間違いは無いですね?」
その質問にリザリスは、思いっきり顔をしかめた。
「……まあ、そう言うことになるだろうな。だが、これだけは言っておくぞ? あの美句麗句や成功祈願はお前たちの国主やら先祖が勝手に始めたことだ。わたしは知らないんだからな?」
ぷいっと、そっぽを向いたのである。
「問い詰めたりなんかしませんわ。それに……」
あながち間違いではない。
リザリスがいればメイリーの目的はまず達成できるだろうから。
「もう一度、聞かせてほしいのです」
メイリーが真っ直ぐに、リザリスに問いかける。
「貴女の旅の目的――『世界を救う』という言葉の真意を、どうか、わたくしに教えてください」
メイリーはもう、その言葉を『戯れ』とは思っていなかった。
それ故の、決意だ。
リザリスは、メイリーを旅の道連れに迎え入れてくれた。
情にほだされたとは考えづらい、実際リザリスは『事情が変わった』からメイリーの同行を許可したのだから。
なら、そのリザリスだけに視えていたものとはいったいなんなのか。リザリスは、なぜメイリーを連れていかなければならなくなったのか。
メイリーの持ち物から考えれば、答えは自ずと絞られてくる。
「リザリスさんが必要としているのは、この鞄の中身なのでしょう?」
『密約書』。
リザリスがかの女神として、世界を救うために、『戦』に関わろうとしているのなら、メイリーの持ち物のなかで関係がありそうなものはこれだけだ。
正直に言えば、この鞄を手放すことには不安を覚える。
それは、この鞄がメイリーの『意味』だからだ。
この鞄と中身を託してくれた者は、皆メイリーを信じ、認めてくれたから、託してくれた。
それを、他の者に渡せば、メイリーはまた『張りぼて』の存在に戻ってしまう。
それだけに、扱いには神経質になっていた。
メイリーはロウキュール王国内部に『間者』の存在を疑っている。
少なくとも、国境の駐屯地には居たに違いない。
出なければ、あんなにも迅速に、それも大胆に傭兵達が攻めてこられようか。
確実にその場所にメイリーが居て、『密約書』の中身が知れたことが分かったから、あの火傷の男は掃討に打ってでたのだろう。
だから、メイリーはイルダートでも、役人に身分を明かして助けることをよしとはしなかった。
だが、リザリスとヴァルになら、託せる。
形骸化しているとはいえ、『ヴァルキュリア』は国家元首よりも立場は上だ。リザリスが正体を明らかにさえすれば『間者』がどんなの役職に就いていたとしても阻むことはできないだろう。
「わたくしメイリー・ロウキュールは、『なお明るき金の玉にて道定めし神至りし方』へ、真心を奉りし一人として、望まれし如何なるをもささげる所存に御座います」
メイリーが地に膝をつけ、首から外したシグネットリングとともに鞄を両手に載せて掲げた。
頭は垂れ、じっと見つめた地面に、近付いて来たリザリスの靴先が見えた。
「ほんとにお前というやつは……」
あきれた声だった。
同時にこそばゆそうでもあった。
「じゃあ命じてやる。それをさっさと身につけてちゃんとロウキュール王都まで従いてこい。それとわたしに女神とか言ってかしずくのは気持ちが悪いから止めろ」
そう言って、リザリスは踵を返し、再びイルダートへ進み始めたのだ。
納得できないのは、メイリー。
「ふへ? ちょっと、リザリスさんっ!」
覚悟を持って託そうとしたのだから、当然だった。
メイリーは足手まといでしかない。
リザリスが必要としているものを渡してしまえば、どんな内心があっても置いていかれるのは当然だ。
メイリーはなんにも持たない小娘に戻る決意を固めていた。だというのに、リザリスは期待を裏切ったのだ。
「リザリスさ――」
「わたしがおまえを連れていくのは『おまえが必要』だからだっ!」
追いすがるメイリーにリザリスは振りきるように言った。
「えっ?」
はたりと、足を止めたメイリー。
つかつかと、若干歩く足が速くなったリザリスとの空いていく距離に気がつき、慌てて足を進める。
「《アーツ》、《ウェポンズ》、それに……」
リザリスが意識を向けたのは、自分の首元の黄色い宝石だろうか。
「近い将来、この世界は戦火に覆われる。《ラグナロク》と『ヴァルキュリア』が呼ぶ、世界の存続がかかった戦争だ。わたし達『ヴァルキュリア』は、その戦を越えるための『因子』を感じ、関わってきた。わたしも、な」
悠久であった。
人の時代の裏から、未来を想い、『ヴァルキュリア』は戦に身を投じてその記憶を《ヴァルハラ》に刻み続けてきた。
リザリスも、強く在らねばならない道に生まれ、歩んできたのである。
敵うわけがない。
メイリーは、そう思わずにはいられなかった。
この鞄すら、メイリーには重い。
なら、世界を背負ったリザリスの双肩にはどれ程の重圧がのし掛かっているのだろう。
だったらと、メイリーは思う。
なおさらメイリーは捨てていくべきだ。
メイリーごと背負う必要なんてない。『必要なもの』だけを持っていけばいい。
(足を引っ張るくらいでしたら……)
鞄だけ残して消えたっていい。
それが必用なことなら、メイリーはそうするだけだ。
メイリーのほの暗い決意に気がついたのか、リザリスは歩を緩めて、溜め息を落とした。
「何度も言いたくない。おまえが必要なんだよ、メイリー」
繰り返して、
「おまえがわたしから去ろうとしたとき、おまえが襲撃され命を脅かされたとき、『因子』を感じた」
手のひらを返してメイリーを仲間に加えた一件。
黒衣に包まれた男からリザリスがメイリーを救出することができた一件。
「『アイツ』は、おまえが《ラグナロク》で必要になると訴えているんだよ」
苦い顔で、『アイツ』のことを考えながら、リザリスはもう一度振り返り、メイリーに言ったのである。
「おまえが自分のことをどう評価していても、わたしは否定はしてやらない」
自分の気持ちを決めてやれるのが、結局のところ自分だけだ。
人の言葉で変わる気持ちは、同じように、人の言葉で変わってしまうものだから。
だから、リザリスは『事実』を教えてやるだけだ。
「だがな」と、切れ長の紺碧の相眸が、包むような優しさで栗毛の少女を映す。
「少なくとも世界にはおまえが必要なんだよ、メイリー」
「え、あ――」
言葉が消えた。
じゅわん、胸の内が弾んで、頑なだった壁は、砕けておちる。
必要だと、そう言われたかった。
母親を亡くし、町の小娘にすぎなかったメイリーには大きすぎた王城へ連れていかれ、努力して、頑張って、認めてもらいたくて。
『意味』が欲しかったのかもしれない。
自分の努力して頑張った『意味』が、『ここ』で、リザリスに『託す』ことだったのなら、メイリーは報われたと思えたはずだった。『張りぼて』では無いはずだった。
だけど、リザリスはメイリーの存在を肯定してくれた。
「わ、わたくしは……」
ぎゅうっと、鞄を握った。
まだ、『ここ』から先も背負い続ける価値と意味があるのだろうか。
「ま、まあ『仲間』、だからな。いまさらおいてけぼりになんかできるものか」
唇を尖らせ、リザリスはそっぽを向いたのだ。
「え? リザリスさん?」
メイリーが目を丸くする前で、リザリスの顔は、みるみる朱が差していく。
「う、うう~~っ!」
突然唸り出したリザリスは、ダッと、走りだしたのである。
「あ、お待ち下さいなっ、リザリスさ~~んっ!」
日が昇る。
山間から伸びた光が、道に一筋を照らす。
その光差す道の上を、少女達は駆け抜けていった。
次回でおしまいです。