イルダート32
馬車の扉を鈍器で破って外に出たヴァルは、血濡れの、しかし、見間違えようのない少女の後ろ姿に喜色を浮かべて呼び掛けた。
「リサっ!」
「ん、うむむ! この声は!」
かたんと武器を取り落とし、振り返ったリザリスの顔は、
「う”ぁ~~るぅ!」
――弛みきっていた。
先までの傭兵団を斬って捨てた、絶氷を思わせる凛々しさは見る影も無く、まったくだらしが無い有り様になっていた。
ぴょんぴょん跳び跳ねるように、しかし無駄の一切を殺した跳躍で僅か二足でヴァルの前まで来たリザリスはそのまま抱きつこうとして、止まる。
全身が血塗れのこの態で抱きつけば、ヴァルまで汚してしまう。
「むくぅ」
唇を尖らせたリザリスだったが、その顔が驚きに塗り変わる。
「り~さっ!」
リザリスが躊躇ったにも関わらず、ヴァルの側から飛び付いて来たからだった。
「ヴァ、ヴァルぅ」
嬉しいやら困ったやらで妙竹林な面相になったリザリスは、最後には、軽く抱き締め返して、ヴァルの頭を撫でた。
「ちゃんと迎えに来たぞ?」
「うん、しんじてたよ。ありがとう、リサ」
顔を見合わせて、二人は微笑みを交換した。
それはともかく、
ヴァルの首もとに顔を寄せたリザリスは、「くんくん」と、鼻を鳴らした。
「ヴァルからメスの匂いがする。おいメイリー! わたしの不在をいいことにヴァルに不埒なことをしていないだろうな!?」
『ヴァルキュリア』の超強化された感覚が、鋭敏にヴァルの身体から、他の者の匂いを選別する。
諦めていたリザリスが生きて目の前にいるのだ。いろんな思いがいっぱいいっぱいになって、瞳を潤ませていたメイリーだったが、その言葉に、ぴしりと凍りついた。
「し、していませんわ。……そんなには」
庇われただけとはいえ、吐息がかかる距離まで密着したり。
頭を撫でられ、それを喜んでしまったり。
メイリーの基準で言えば十分不埒な、あれそれであった。
「な、ん、だ、と」
まるで致命的な攻撃を受けたかのような狼狽ぶりだった。
屈強な男達を、獰猛な魔獣を降す力を持つ『ヴァルキュリア』にここまでの驚愕を与えた人間がここ数百年でも、どれだけいただろうか。
「いやだ」
もう、血なんて知ったことではない。
誰にも渡さないと、どこにも行くなと主張するように、ぎゅうと、リザリスはヴァルを固く抱き締めた。
「いやだー! ヴァルはわたしとずっといっしょなんだー!わたしだけなんだ~っ!」
絶対に手放してなるものかと喚かれて、右へ左へ振り回され、目を白黒させたヴァルは、負けじと声を張り上げた。
「だ、だいじょーぶ! ぼくだってずっとリサといっしょにいたいから!」
「ほんとーか?」
おずおずと、顔色を窺いながら。
「うん、もちろん。『やくそく』だからね!」
胸を張ってそう言うヴァルにようやく安堵した表情を見せたリザリスは、くるりとメイリーに振り向いた。
「なんですの?」
「いんやあ? べっつにい?」
どうだといわんばかりに勝ち誇った、にまにま顔だった。
思わずメイリーはむぅと唇を尖らせてしまう。
しかし、ここはぐっと呑み込んだ。
またしても助けられた手前なのだから、お礼の一つも無いのは礼儀としてなっていない。
「まあ、助けていただきありがとうございますわ」
「ああ、おまえはヴァルのついでだ。気にしなくていいぞ」
まるでそっけない態度であった。
「ああもう! あなたはほんとうにわたくしにはとことん冷たいですわね! もう、諦めていますけどっ!」
ぷうと、頬を膨らませたのである。
半面でまた、リザリスとこんな他愛ないやりとりが出来ていることに、胸のうちが弾んでいた。
あらためて、いまのリザリスをメイリーは見た。
「その、すごい格好ですが、本当に、無事なのでわよね?」
「うん? ああ」
一度ヴァルから身体を離し、身体を見下ろしたリザリスは、「問題ないぞ」と頷いた。
「全部反り血だ。獣を相手にすると、どうにも勝手が違ってくる」
リザリスは不服そうにそうぼやいた。
《ヴァルハラ》に蓄えられている記憶のうち、表層部分は『ヴァルキュリア』達の記憶で占められている。
その中から、特に『戦の記憶』だけをリザリスは引っ張り出していた。
取捨選択しなければ、とてもでは無いが脳が負荷処理に耐えられず、精神を壊しかねないからだ。
そのために獣相手では人相手に比べてどうしても経験の不足が否めない。
人相手ならば、リザリスは反り血すら浴びることは無いだろう。
「反り血ですか……」
それで安堵できるほど、メイリーは愚かではない。
つまりリザリスは、全身が血塗れのになるほどの戦いをこの離れて数刻の間に、潜り抜けて来たということなのだから。
「大変でしたのね。本当に……」
「なんだ、その、あやまるなよ?」
先回りで止められ、メイリーが「えっ?」と驚く。
「あやまるな、困る。戦いはわたし領分だ、それに遅れをとってしまったのはわたしなんだ。だから、その、なんだ……」
おもいっきり美貌を歪めて、それから、早口で小さくリザリスは言った。
「わたしこそ守りきれずに危険に晒して悪かったあとヴァルについててくれて感謝する」
それっきりぷいっそっぽを向いたのだ。
横顔には僅かに朱が差していて、リザリスがどんなん心境なのか、メイリーにも手に取るように分かった。
「お礼なんて、そんな」
メイリーはヴァルを利用しようとしてただけだ。
心苦しさを覚えるメイリーに、リザリスはちらっと視線をむける。
「ヴァルを残して穴に落ちたとき少しだけ、安心できたんだ。メイリー、お前ならあの場で生き残る選択が出来ると思ったから」
「……それって、わたくしを、信じてってことですの?」
目を大きくさせて、食い入るようにリザリスを見るメイリー。
その視線から逃れるように、リザリスはヴァルごと、身体をひっくり返した。
「勘違いはするなっ! ちょっとだけだ。ほんのちょっとの間ならヴァルを任せても大丈夫かもしれないと思っただけだ!」
背中を向けるリザリスは、ぐりぐりとヴァルに頭を押し付けた。
そんなこんなリザリスに、ヴァルは「しょうがないな~」と言いながら頭を撫で撫でしたのである。
「そ、そんなこと突然言うなんて、ひ、卑怯ですわよ……」
強がって上向いているくせに、メイリーの顔は真っ赤だった。
金色の瞳の女神――『ヴァルキュリア』。
リザリスがもう、疑いようもなく、そう呼ばれる存在であることに、メイリーも気がついている。
王城での教育で、メイリーはほんの少しだけ、その存在に触れたことがあった。
ロウキュールを含めた歴史深い幾つかの国の建国には、彼女達の存在が関わっているらしく、その権威は幾つかの特記は除くが、実質王族を凌ぐ。
実在はしないと思われており、これもやんごとない身分特有の『形式』だとメイリーも考えていたが、その存在は確かに目の前にいる。
ならばメイリーは今からでもひざまづき、使うことはあるまいと思っていた専用の文句をつらつら並べなければならないところだが、
「むっふふー、ヴァルヴァル」
こんなにも人間くさい女神様を相手にそんな事を態々この場ですれば、さぞかし冷たい空気になること請け合いだ。
「イメージって、案外残酷ですわ」
誰も、彼の女神とは清く正しく美しく、平等の裁定でもって、人々の模範足らん御姿をしていらっしゃる、などとは言っていない。勝手に思い込んでいるだけなのだ。
「まったく」だなんて呟いたメイリーは、リザリスの金色に輝く瞳を見止めた。
『世界を救う』と言った彼女の瞳には、一体何を映しているのだろうと、考えながら。
考えたところで仕方がない。
それよりも、イルダートからかなり遠くまで来てしまった。
早く歩き出さねば、戻れるのが何時になるか分かったものではない。
「そろそろ戻りませんこと?」
首を振って、いつまでもヴァルから離れようとしないリザリスに、呆れ混じりにメイリーが言う。
全て解決したと、そのときまでメイリーは思っていた。
「…と……ネエ……よお」
その声は地の底から響くようだった。
「そ、あ、あれ」
戦慄くメイリー。
ヴァルとリザリスの向こうだった。
血溜まりを指で引っ掻き、男は立ち上がる。
「ミ……られねえ、ヨオ」
腕に緑光を纏い、まるで亡者のように、小さな、だけど、風の隙間を縫って耳を舐る声で。
血走って焦点の定まらない目で、
土気色になった肌に青い血管をどくどくと浮かばせて、
まさしく死相の様相で、ロンドガルは、
――『亡霊』は立ち上がっていた。