イルダート31
ここのシーンは過去のわたしがもっとも苦心した場面です。
改稿もやっぱり大変でした。
少しでも読者様に伝わる文章が書けていればいいのですけれど・・・。
血が跳んで肉は沈み、いつのまにか立っているのは二人だけになっていた。
ロンドガルとリザリスのたったの二人だけ。
「くっくっく」、ロンドガルは血の海に立つ少女の前で忍び笑った。
「いやいやいや、まったくよお。忠告通りさっさとケツ捲ってえよお、逃げ出しとけば良かったぜえ」
「もう遅いぞ?」
チッと腕を薙げば、ぎざぎざの刀身にこびりついていた白い肉片と血が、ぴっと散った。
そんなリザリスにロンドガルは「そうかあい、残念だよお」と肩をすくめると、ゆっくりとした動作で柄の長い剣を抜いた。
「そうだなあ、どうせなら一つ教えてくれねえかあ? どうやって先にまわったんだあい?」
鉢合わせたであろう『獣王』然り、馬と馬車を休まず走らせていたロンドガルの前に進行路上に現れたこと然りだ。
問いかけに、リザリスは握る剣に微塵のぶれも無いまま、淡々と答えた。
「魔獣は一番大きいヤツの片目を潰してやったら退いた。そのあとは――」
すうっと、金眼は細く尖る。
「森を突っ切ってきた」
まあ、そうだろう。
予想というよりも、それ以外のルートが無い。
だが、そう簡単なことではもちろんあり得ない。
「あの『魔窟』をかあよお……」
あの森は人の領域ではない。
本来は通る通らないの話をしていること事態がおかしい。
あの森は岸壁がそびえ立っているのと同じ、人に許された『道がない』のだから。
あの場所に足を踏み入れるのは、老いてなお戦いに死ぬことを望む老兵か、でなければ愚か者のいずれかだ。
ハッタリだと、鼻で笑えたら、どんなにいいだろう。
まだ、ロンドガルが道に迷っていつの間にか来た道を戻っていたのだと言われた方が気が楽だ。
なにせ、その話が本当ならば、目の前に立つ少女は、人智未踏の地に住まう魔獣達ですら薙ぎ倒す存在だと言うことなのだから。
「くわっはっはっは!」
嗤う、狂ったようにロンドガルは嗤う。
分かっている。全ては真実だろう。
目の前の血塗れの少女は、越えてきたのだ。
ロンドガルはもう、見てしまった。
肌で感じてしまった。
阻む全てを越えて行く、『ヴァルキュリア』の力を。
「もういいか?」
今度は少女が問うた。
あの川辺のときのように、ただし、あのときよりなおロンドガルを圧倒する威圧を込めて。
「ああ、いいぜえ別嬪さん……」
ロンドガルが剣を正中に構えて血濡れの少女を観た。
「こいよお、バケモンッ!」
観た、瞬きもせずに、ロンドガルは全神経をかき集めて目の前の、人外の強者と相した。
これでもかと言うほどに剥いた眼。
極度の緊張から、だくだくと唾液が溢れ、口から流れたが、ロンドガルは気にも止めない。
違う、気がつかない。
それほどまでに、少女を観る眼と剣を振る腕だけが、いまのロンドガルのすべてになっていた。
だが、『足りない』
ふらり、少女の身体がぶれたと思った、刹那の思考の間だった。
「っ……くぅ!!」
金色の相眸が、剣幅の先に存在していた。
「だりぃああああっ!」
ぎちぎちり、革鎧から筋肉がはちきれ、豪腕が剣を振る。
『足りない』
ギュィァン、金属と金属がぶつかり、芯までをびりりと揺らす鬨が、戦いの始まりを告げる。
ロンドガルには、剣筋どころか、抜き始めすら見えてはいなかった。
分かったのは結果だけ、振り下ろした剣が横から打たれたのだということ。
「くあっ」
腕ちぎれるかと思うほどの反動に、苦悶を上げるロンドガル。
鍛えた肉体が生み出す膂力がそっくり消えてしまったかのような、一方的な手応えだった。
上体が振れたロンドガルへと、リザリスの長剣が反った。
ぐわん、ぐわん、視認できない往復の剣戟を、ロンドガルは剣を身体にぴたりと寄せてかろうじて受け止めていた。
だが、その度に、ロンドガルの身体は人波の中で右往左往する子供のように、右へ左へ揺れた。
滑稽だった。
図体が半分しかない少女の振った剣で、ロンドガルが振り回されているのだから。
(くっしょおよお! せめてこいつを使える間がありゃあよお)
腕で明滅する《アーツ》へ意識を向けようとするが、その度にリザリスの一撃が見舞って邪魔される。
これでは無理を承知で発動させることもできない。
川辺のときは仲間を使って隙を作りだしたが、もれなく全員お陀仏だ、ロンドガルは一人で相手をしなくてはならない。
絶望的だ。
力量の差も、《アーツ》が使えないこの状況も。
それでも、ロンドガルが柄を離さないのは、仮にも傭兵家業を営んできたプライドがあるからだった。
(なめんじゃあねえぞお)
「オレぁ《アーツ(こいつ)》だけじゃあねんだよおっ!」
受けに徹していた、ロンドガルが、攻勢に転じる。
ジュァンッ、柄の先から刃が生え、両端刃の本性を表すロンドガルの剣。
さらに、次の激突に合わせて、ロンドガルが『次』のギミックを起動する。
柄が、真ん中で分離し、両端刃は長剣と短剣の二刀となる。
そこへ、横からぶつかるリザリスの一撃。
(お、めええなああ、んやろお!)
剣が手から跳んでっただけに留まらず、真後ろまで腕を弾かれ、肩間接がきりきりと鳴いた。
当然だ。
両手でやっと受けていた剣を片手で受けたのだから、支えきれるはずもない。
だが、だが、いまこのとき、ロンドガルの目の前にはリザリスのがら空きの右わきが晒されている。
「おおらあよおっ!」
一刀同士の戦いの最中、突如に生まれた二刀に反応出来ても対応までできるものはそうそういない。
格上の相手を何度も屠った、ロンドガルの経験によって生まれた奥の手。
またしても、『足りない』。
リザリスもまた二刀だ。
もちろんそれでも到底、間に合いっこないはずだった。
ただ、リザリスは間に合わせる。
腕を交差し、マインゴーシュがロンドガルの二太刀目を受けていた。
「無駄だな」
少女は呟き、ロンドガルは猛る。
「ここだろおおっ!」
だめ押しの『三つ目』。
踵を強く踏めば、爪先より滑り出る三つ目の隠し刃。
いま、少女は、腕をどちらも使った直後、『ここ』こそが好機。
想定外の下からの攻撃。
(獲ったあ!)
確信とともに、腹部目掛けて突き刺さるかに思えた刃は、ロンドガルの経験と研磨した技術が生んだ集大成。
それでも、なお、『ヴァルキュリアを殺すには足りない』のだ。
「無駄だと言った」
振り上げようとした爪先の刃を、リザリスは踏み砕いた。
「ああ?」
戦いの最中にも関わらず、頭のなかが真っ白になった。
だから、ロンドガルは『終わった』。
「ふっ!」
リザリスが小さく息を吐きながら、長剣を振れば、ロンドガルの肩から脇までを袈裟懸けに剣閃が迸った。
ぶち、ぶちぶちり。
身体の繊維が寸断されていく音と感覚を、ロンドガルはやけに鮮明に知覚していた。
熱かった。
全身を焼かれたあのときのように、斬られた一本筋が熱くて堪らなかった。
視界から一気に色が褪せる。
息遣いは荒く、動悸と競うみたいに煩い。
泥臭さを鼻腔と舌に覚えて、倒れたのだと知った。
「ぐあっ、なんでえだ、なんでっ!」
地面に顔を擦り付けたロンドガルの恐慌した頭が、そのまま思考を吐き出させた。
リザリスはそんな死に間際の男を見下ろし、一言。
「知っていた」
そして、
「《ヴァルハラ》の中にお前の戦いかたがあったからな」
幾何学模様の浮かぶ金色の瞳は、全てを見通すかのような神秘の輝きを放っていた。
この世界がいまの『人が栄える世界』になる前には、爆発的にあらゆる生物が生まれた『混沌期』と呼ばれる時代があったと言われている。
ときたま見つかる魔獣が持つ『特殊な力』とは、この『混沌期』の生存競争を生き抜くために培った力で、現代に残っているのは先祖帰りや、長寿命のために世代交代が少なかったことが理由に上げられている。
ここで一つ、あらゆる識者が行き詰まる問題がある。
『我々人類はどうしていま、この世界に繁栄を築けているのか』
爪もない、牙もない、硬い毛皮や鱗も無ければ圧し潰す体躯があるわけでもない。
弱い、現代に残っている魔獣と比肩しても、とても生き抜けるとは思えないほどに、人類の身体は脆弱だ。
神に選ばれたと、聖職者は言う。
隠れて漁夫の利を得たのだと、リアリストは言う。
一部の者は、『その可能性』に気付く。
現代に残る、かつては『魔の力を持っていた獣』達がそうであるように、我々も『失った』のではないのか、と。
世代を重ね、『混沌期』という生存競争が終わり、種の戦いから遠ざかったために、ほとんどの生物がそうなったように、人類もかつては持っていた『魔の力』を失くしたのだと。
それも、ただの『力』ではない、『混沌期』に犇めいた全ての生物を下し、世界の覇権を手にいれた『力』だ。
その人類種の『魔の力』こそは、
『繋ぐ力』――『記憶の引き継ぎ』。
死ぬことで『力』の回線から、一生の経験を他次元へ伝達する。
その人類種の記憶の集積体こそが、《ヴァルハラ》である。
今でこそ、ほとんどの人類が力を失ったために、回線を通して《ヴァルハラ》へ集まる記憶も稀薄になったが、『混沌期』では、全ての人類がこの力を持っていた。
繁殖能力が高く、知能もあった人類は、この力を用いて、すぐにあらゆる生物に対抗するだけの力を得た。
一人が不意に放った優れた一撃を、人類全てで共有するのだ。そして、積み重なった『不意の一撃』は、ついには『当たり前の一撃』に成る。
他の生物の弱点と、戦いの技術の完全共有。
一人の達人の死は、『種全体を達人』にする。
これで、人類が覇権を握れない方が嘘だろう。
人類が強大な『魔の力』を持っていた可能性に思い至る『一部の者』も、人類の中に、密かに『魔の力』を継承し続けている者達がいることまでは予想しない。
その者達こそは、『ヴァルキュリア』と呼ばれる、空想の女神にして実在する存在なのだとは、もっての外だ。
現代では、次世代の命を育む揺りかごの役割を担うために、男性よりも種の情報をより多く遺伝する『女性』にのみ発現するようになるまで衰退したものの、人類種の『魔の力』は未だに存在していた。
リザリスは、その現代に生きる『最強の力』を宿した『ヴァルキュリア』の一人であった。
『混沌期』の《ヴァルハラ》と異なるのは、『ヴァルキュリア』が数百年の間、ずっと『世界を守るため』に『特定の戦』に介入し続けてきたことにあるだろう。
魔獣ではなく、人相手の膨大な戦の経験こそが『ヴァルキュリア』が、人相手に絶対に遅れを取らない理由だ。
彼女達は知っているのだ。
あらゆる武技に、あらゆる武器。
それから、あらゆるシチュエーションを。
《ヴァルハラ》からもたらされる情報の処理のために活性、鋭敏化した精神は五感を超上にまで引き上げる。
風音に紛れる土を踏む音も、僅かな吐息による空気のざわめき、湿り、分泌される汗に筋肉に集まる血の匂いと脈動。
超感覚がもたらしたそれらの情報を元に、《ヴァルハラ》を参照し、彼女達は『戦場の未来を視る』。
過去の『ヴァルキュリア』が見てきた兵たちの中から同じ動きをするものを絞り、動作が進めば進むほどに、その候補から限定し、結果、『攻撃を受ける前に攻撃を見る』のである。
リザリスが振り返りもせずに死角の攻撃に対応して見せたのも、知覚情報から、そこに刃がくるシチュエーションを参照し、知り得ていたからだった。
だから、リザリスは、死に往く火傷の男に言うのだ。
「足りないんだ」、と。
「いくら不意打ちしようとしても、剣を振ろうとすればその前にわたしには分かる。蹴り上げようとしても、同じことだ」
そう、リザリスが、『ヴァルキュリア』が保有する、圧倒的な『経験』の前には、ロンドガルのそれは赤子同然の開きがある。
「きさまの動きはよく戦場で馴らした動きだった。実力も認めてやろう。だけどな――」
生涯を費やしたとしても、ロンドガルでは届かない。
その幾何学の紋様が刻まれた金色の瞳の前では、どうあがいても絶対的に『足りない』。
何故ならば、
「『ヴァルキュリア』の記憶の前では『足りない』んだ」
「っく……ぅ……」
理不尽だ。
傭兵としての全てを打倒され、ロンドガルは思う。
『絶対に勝てっこない』
あまりに、理不尽だ。
同時に、実感していた。
この場所は紛れもない戦場だった。
ロンドガルの霞む目には、腕輪の緑光だけが、映っていた。