イルダート27
落下したリザリスがまずやったことは、落下速度を緩めることだった。
人体は足先よりも頭部の方が重いため、空中で姿勢を整えるには
コツがいる。下手にばたつけば、頭は下へ下へと向かい、脳漿を撒き散らすはめになるだろう。
だからリザリスは、足から頭の先までを一筋に伸ばし、直立の姿勢をとった。
そして、揃えた靴裏を、目の前の土壁に『当てる』。
引き擦りはしない。『当てる』のみ。
並行して、落下のスピードに合わせて、身体全体で収縮する。
丁度、屈伸運動をしているように見えるだろう。
そうやって、落下の力を横向きに逃がし、靴裏からの反動により落下をさらに軽減する。
繰り返し、繰り返し……、穴底まで下りたときの衝撃は、ほぼ階段の一段上から降りたときと変わらなかった。
「ああ、最悪だ」
だばだば頭上から降ってくる水に打たれながら、リザリスは上を見上げる。
いったいどれ程深くにいるのか、地上の光は親指の爪ほどしかなかった。
これでは、いったいどれだけの間、あの愛しい少年と離ればなれになるだろう。
地下は寒く、水はカミソリの刃のように凍える痛みを体に刻む。
暗い、立っているだけでも、この暗闇と極寒に押し潰されて死んでしまえるだろう。
だが、『金色の瞳』は暗がりになお灯っていた。
ひゅんひゅん、なにかが回転しながら落ちてくる音が聞こえてくる。
「さすがわたしのヴァルだ」
にぃと、奈落で少女は笑う。
徐々に近づいてくる音が、遂に差し迫ったとき、少女の両肩が跳ねた。
ぱし、ぱしん。
続けざまに『二振り』を頭上で掴み、ふぉんっ、交差の一薙で身体から水と死の気配を払う。
ロンドガルへ向けたヴァルの怒りは本物だった。
しかし、一方でヴァルはいつものように『リザリスの使う武器を渡す』役目をまっとうしていた。
激情にまかせ、『ロンドガルの背を狙った』かに見えた『二降り』。その投げ放った先は、穴の中、『リザリス』こそが本当の狙いであった。
剣が刃にて敵を切るように、弩がトリガーを引くことで矢を放つように、ヴァルは、肝心では、自分の役目に忠実であった。
まるで、『武器』のように。
金色の相眸が睨むは、光、一点。
「行くか」
ゆらりと、身体を落とし、蹴った。
飛沫は爆発染みて穴底に咲き、リザリスは壁面を駆け昇る。
重力に背中を引きずられる前に、再度跳躍。
ぎぃん、振るった剣はやすやすと岩盤を斬り裂く、生まれた亀裂へ靴先を突っ込み、リザリスは更に跳ぶ、跳ぶ。
ただ闇雲な方向へ跳んでいるわけではなかった。
溢れ返った音の反響を聞き分け、足場に変えることができるであろう部分を捜しだし、そこへ向かって跳躍を繰り返していた。
判断に用いているのは音だけではない。
靴先を突っ込んだとき、岩盤を剣で斬ったときに生まれた小さな反動さえも、リザリスは敏感に感じ取っていた。
大地というのは、大量の『粒』の積層だ。岩、礫、泥、いずれも等しく『粒』で構成されている。
リザリスは、反動からその『粒』と『粒』の犇めきの大きい、つまりは結合が脆い場所を探知して、剣を振っていた。
空中では、力の充填が満足にいかない。
何も考えずに剣を振っては、例え岩盤を斬ることが出来ても、リザリスはそこから上を目指す力を失うだろう。
これだけ条件を絞られてしまえば、次に跳ぶ先は必然、限られる。もう、思考は必要ない。
黙々と、リザリスは腕を振り、壁を蹴る。
心は鎮まっていた。
地脈、土に中に蠢く虫、微妙な動きさえもリザリスの研ぎ澄まされた意識は把握していく。
こうなってしまえば、この穴蔵を抜け出す導は、すでに見えたも同然だった。
後は作業的に、それを辿ればいい。
退屈すら感じていたところに降ってきた『異物』も、なんなく斬り割った。
真っ二つになったソードドックは虚に供物のように横たわるのみである。
リザリスは跳ぶ、流れ落ちる水とは逆行し、全てが闇へ向かう中、光へ跳び続けた。
いくらリザリスが優れた剣の使い手であっても、普通ならばまず斬ることなど不可能な固い岩盤を何度も相手にしてきた『得物』が、そう保つはずもない。
牢獄のような閉ざされた穴蔵から、光満ちる世界まであと一歩と言うところまできたところだった。
バッキィンッ
岩盤に食い込んだ長剣が半ばからぽっきり折れる。
むしろよくもった方だった。
「まあ、こんなものだろう」
リザリスの声は単調なものだった。
たんっ、ひと一人の体重だとは思えない軽やかな音だった。
岩盤から生えた剣の破片の剣幅にリザリスは乗っていた。
重心の調整により、体重を細い一点に集中、そこから『鎧通し』の武技の応用で、屈んだ体躯を引き、体重を『剣を突き抜けた下』に置いたのである。
一瞬、されど、一瞬体位を整えることができれば、リザリスには十分だった。
壁面を蹴る、リザリスが離れると同じく、刃は折れた。
もう、戻れない。
しかし、戻るつもりもない。
あと数メートル。
柄を岩盤へ叩きつける。
返った反動で力が拮抗する僅かな間隙を見極め、リザリスは跳んだ。
白銀は弧に舞う。
剣の柄と壁面の接点を中心点に、リザリスは身体を丸めて、縦に回り、上に向け、大きく跳ね上がったのである。
とんっと、白銀は再び陽光の元に舞い戻った。
「ヴァル……」
気持ちばかりが逸る、一秒だって早く彼の少年の元へ馳せ参じたい。
なのに、リザリスの周囲には、黒い獣の群れが牙を剥いていた。
ソードドックは穴をよじ登ってくるリザリスの匂いを嗅ぎとっていたのだろう。
そして、引っ捕らえられた罪人を取り囲み、沙汰が下されるのを待つように、『王』の指示を待ち受けているのだ。
正面、黒獣どもの向こうより座して睥睨する、巨躯。
全身は白蒙に覆われていた。
臣下のソードドックでは比肩するにも値しない巨大な四足。
極めつけはその額、大男がやっと振り回せる大剣のような大きさの巨大な角が生えていた。
ただ、大きいだけでは無い。
透き通るような透明度は、美しくすらあった。
まるで、王冠。
これこそが、王が証と言わんばかりに燦然と輝く、彼の獣が『王』たる象徴である。
ならば、だ。
彼の王獣を、臣下と括って『ソードドック』と呼ぶのは相応しくは無いだろう。
『クリスタルハウンド』
それがこの、王獣の御名である。
他の個体とは別格と言って良い存在感を放つ王獣を前に、リザリスはうつむいていた。
咆哮は、聞こえていた。
あの、気持ち悪い笑いの傭兵が何をしたのか、リザリスは分かっていた。
「まったく……」
苛立ちが呪詛のように口から吐き出る。
「ああ、まったくまったく……」
だらりと脱力。
どうしたら良いと言うのだろう。
怯え、もちろん違う。
そうではない、そんなちゃちな感情を挟む余裕など無いほどに、
「まったくッ!」
リザリスは憤っていた。
「なあ、わたしは急いでいる。だから退け」
両手の二振りが、少女の殺気を帯びて、ぎらりと光った。
ヴァルが待っている。
約束を守ってもらえるのを、今この瞬間だって信じて疑わずに待っているというのに、目の前の駄犬どもはそれを、邪魔しようというのだ。
「退けと、言っている!」
激怒が燵つ金色の瞳が、人語を解さぬ犬どもにもわかるように威圧的に舐めていく。
たじりと、ソードドック達が怖じけた。
王獣はそれを許さなかった。
ゴオォオルゥウウウ!
王獣が地響きのようなうなり声を上げると、その水晶の角に幾何学の紋様が浮かび上がり、獣声に『力』が載る。
『統率』
王獣にのみ許された『意識を書き換える力』。
ソードドック達のなかで、意識の優先順位が変わっていく、本能が優先した『恐怖』は小さく、乏しく。
一族の敵を食い殺す『衝動』が大きく、激しく。
がりゅううう!
もう、一匹足りとて、怖じける獣はいなくなった。
こうなれば、死しても一族のために食らいつこうとするだろう。
「ああ、そうか、邪魔するんだな? わたしとヴァルの未来にきさま等は立ちふさがるんだな?」
すぅ、息を吸い、吐くと同じく、リザリスの姿は消えた。
消えたように見えた。
月グマ亭の主人にやって見せたように、周囲の視線認識を把握し、その虚を突いて衆目を引き剥がす技術。
それを、獣相手にリザリスはやってのける。
一匹、反して二匹。
折れた長剣で、その喉笛をかき斬って、置き去りにする。
(越えてやるさ、いくつでも、辿り着くまで!)
「邪魔をするなら、どんなものだってッ!!」
喚声をあげ、飛び込む先は、『王獣』――クリスタルハウンド。
王獣も後ろ足を上げ、牙を剥く。
幾何学の紋様は稲光のようにまたたき、王獣自身の意識を変化、ドーピングする。
恐怖の類いの一切を捨て、膨れ上がった興奮と高揚、食らいつき蹂躙を臨む獣欲が、クリスタルハウンドの肉体と精神を最高のコンディションへと引き上げる。
いざ、目の前の矮小なるものを食い殺さんと牙を覗かせたとき、王獣は、その迫る金色の中に『観た』。
「《ヴァルハラ》」
白銀の髪の少女は、そう、呟いた。
浮かぶ。
黄昏の金色に染まったリザリスの瞳の中。
『幾何学の紋様』が、浮かび上がる。
(ヴァル、すぐに会いに行く!)
両手に柄を握りしめ、今こそ『ヴァルキュリア』はその力を魅せる。
ただ、愛しい少年のことだけを胸に、
彼との約束を守るために、
今はそれを阻む全てに刃を向けて。
グゥラアアアゥウアアアッッ!
「ぃいぁぁああああああッ!」
角と剣は衝突した。