イルダート23
襲来があり得ることはリザリスも予期していた。
街から離れた『獲物』、周囲には護衛だけ、おまけに魔獣討伐ならばイルダートの人間への誤魔化しも利く。
下手を打って餌になった。
それで片付くのだから。
だから、茂みから草木を踏みつけ現れた男を前に、リザリスは歯を剥き出しにして、獰猛に笑んだ。
好都合だ、と。
辻馬車に乗っているときに襲われれば守らなければならない人間が増える。
今ならメイリーだけだ。
本当はヴァルと二人で来て、襲撃してきたところを叩きたかった。敵もリザリス達がメイリーに肩入れしていることを知っているはずだ。十分あり得ただろう。
その目論みはメイリーの『意固地』のせいで頓挫したが、リザリスのやることは変わらない。
「遅かったな。魔獣にでも食われたかと思ったぞ」
一つ薙ぎ、一歩を踏み、リザリスは男に相した。
そんなリザリスの軽口に、男はぴくりと眉を動かし、次には、にたにた嗤いを一層に深くする。
「ヤハルがどんなやつによお、やられたかと思っていたがあ、あんただなあ? 別嬪さあん」
革鎧の他は緑光を放つ腕輪一つ。
頭部は爛れて、とても人の頭とは思えない形状になっている男は、間延びした声でそういい、「くわっはっは」と大声で嗤い始めた。
「いやいやいやいやあ! いいじゃねえかあ、羨ましいじゃねえかあよお、ヤハル! こおんな世にも稀な別嬪さんにお相手してもらったんじゃあ、そりゃあイッちまうよおなあ! なあんてなあ!」
「そう思うだろお!?」と男が呼び掛ければ対岸からわらわらと姿を現した傭兵たちが、「まったくだあ!」と返して大笑いしていた。
「な、なんですの? この人たち、お仲間が亡くなったのに、それをわらうなんて……」
戸惑うメイリーに、火傷の男はおどけた仕草で答えた。
「こいつぁ王女殿下はご機嫌はよろしゅうござって。オレぁ『亡霊の牙』なんてえ、馬の小便みたいにしみったれた名前ぇの、市場で売れ残ったじゃがいも野郎共を束ねる『ロンドガル』ってえ名のじゃがいも大将でごぜえやす。以後お見知りおきを」
再び対岸が湧いた。
じゃがいもだジャガイモ大将だ馬に食われてひりだされる馬糞だ小便まみれの馬糞やろうどもだ。
互いを指差して下品に呼びあい、まるで自重を知らない。
リーダーであろうロンドガルと名乗った男までがリザリス達をそっちのけにしてげらげら嗤っていた。
「こ、この方達は、いったい!」
それがどんな者であっても、死者を笑うのは不敬だ。
死とは禊であり、洗われた魂は廻りを経て現世へ渡る。故に死者を冒涜することは新たな生を汚す行為なのだ。
憤るメイリーは、眼前の男を睨み、押し黙った。
引きずり込まれる錯覚を覚えた。
『すっぽり空いた眼窩』
死んでいた。
光を宿さないその眼は深淵よりなお深い。
『ケタケタ鳴る頤』
対岸の傭兵たちも同じだった。
彼らは一様に、生を落っことしてきたのだ。
彼らは――
『暗きところに巣食い、嗤う彼らこそは』
――『亡霊』だった。
「『死』? 結構じゃねえかあ。へし折ってえくれよ。いきり立ったまま、納まろうにもおさまらない『牙』をよお」
ロンドガルと傭兵たちは、なお嗤う。
「いいか?」
尋ねたのは、リザリス。
「ああ?」
返し、ロンドガルは固まった。
碧眼が舐めれば、対岸も静まる。
冷涼とした相貌はほとんど鋒に似た。
ならば全身は刃だろうか。
まるで武器と己の境界を取り払ったかのようだった。
純然な殺意が凝縮した瞳が定める敵をほふる、一の武器。
「きさまを斬るが、もういいか?」
すーっと、戟が上る。
その尖端に殺意が集まったように、ロンドガルを怖じけさせる。
「なあるほど、あんたが相手じゃあよお、ヤハルはさぞかし早漏だっただろお?」
この期に及んでであった。
なお下品な言葉で煽る傭兵に、しかしリザリスは顔色一つ変えない。
反応が無ければ張り合いがでない。
ロンドガルは、「まあ、もうちょいいいだろうよお」と肩を竦め、手下に目配せを送った。
「実はよお、手土産を準備したんだよおなあ」
対岸に動きがあった。
じゃらじゃらと、一匹の獣が鎖に引きずられて現れた。
「ソード、ドック……」
メイリーが目を見開き、驚愕と憐情に震えた。
傭兵が鎖で強引に引いてきたその獣は、黒毛が赤黒いシミでべっとり張りつき、四肢は折れているのだろう、あらぬ方向を向き、もはや立ち歩くことは不可能な状態だった。
潔く命を奪ってやればいいのに、口を轡に塞がれ、くぐもった音で、くうんと哭く獣は『生かされていた』。
「何のつもりだ?」
リザリスの質疑。
そこに焦燥の機微を読み取ったのだろう。ロンドガルが、にたあと口角をつり上げた。
「なんだよお、若人が勇ましく魔獣を狩るって聞いたもんでえなあ、手伝ってやろうと言うわけだよお」
「くっ……」
ついに表情も動いた。
単体ではそこまでの驚異ではないソードドック。
それを無力化し、しかも、真っ先に潰さなければならないはずの声帯には手をつけないままで生け捕りにして連れてきた。なにを仕出かすつもりなのかは、明らかである。
「ちいっとよお、元気たあんねんじゃねえかあ? その犬っころ」
ロンドガルがそう言うと、傭兵の一人が剣を腰から引き抜き、大上段に構え、ぐでんと横たわる獣目掛けて振り下ろした。
ぢゃっと、散る血。
陸に上げられた魚のようにのたうつ、足の一本を切り飛ばされたソードドック。
瞬間、リザリスが動いた。
狙うは愉悦を浮かべる前方の火傷の男。
踏み込みの反動を関節を使い方向を傾け、前方へ、戟の先へ。
自身を柄の延長に変じ、淀まぬ直線運動が力を集中させる。
空隙は一息の間すら開けず埋まった。
ガインッ、刃が切り結び、空気は震える。
ロンドガルには一つまみの緩みもなかった。
リザリスが動くと同じく、ロンドガルも腰に差した柄が通常のものより多分にある愛剣を抜き放っていた。
さらに前に出てリザリスが目論んだ打点をずらし威力を軽減。
傍目には分からぬ攻防だった。
だからこそ当人同士は理解する。
(この傭兵!)
身体に刻まれた無数の戦跡は伊達では無いと言うことだろう。
まさしく斬って斬られて熟達した、考えるよりも先に咄嗟に反応ができる歴戦の兵。
リザリスの考察は正しい、その証拠に、この一合でロンドガルは、リザリスと自分の間に隔たる埋められない『差』を敏感に感じとっていた。
ロンドガルは、リザリスの突撃に対し、適切な防御で迎え撃ったはずだった。
にもかかわらずである。
ロンドガルの足下には足を擦って出来た轍ができていた。
押されたのだ。
この、つばぜり合う、せいぜいロンドガルの半分程度の体躯しかない少女に、威力を減じてなお、押し負けた。
びりりと手が反動で痺れたせいで、目論んでいた防御から反撃に転じることが出来なかった。
力業で封じられたのである。
(この女、うまいとか達人だとかよお、そう言う話じゃあすまねえぞお!)
戦々恐々。
だからこそ口元は弧に歪む。
「嬉しいねえ」
呻くようにロンドガルは言ったのだ。