イルダート19
イルダートの町より西側には、ロウキュール王国とアンクール皇国の国境を跨ぐ大森林が広がっている。
荒れた土地を抱えるアンクール皇国からすれば貴重な材木資源だ。近くの街に材木加工場を設け、皇国内部へ供給していた。
森林外周部は定期的に木こりが伐採することにより若木や草木にまで光が届き、穏やかなな生命を感じさせる景観が広がっている。
小動物も多く住み着いており、猟師も出入りする森だ。
しかしだ、とある『印』が見つかるようになる一定のラインを越えると、アンクール皇国側もロウキュール王国側のイルダートの木こりも、決して踏み入ろうとはしない。
そのラインを越えた先にある、がらりと表情を変えた森こそが世に名高い『魔窟の大森林』と呼ばれる『魔獣どもの棲みか』であった。
光を求め、高くを競いあうことで成長した、大人の男が腕を伸ばしても幹を一周できない巨木が乱立し、地表は苔に覆われて、薄暗い。
明日を夢見て芽を出した若木はその閉ざされた世界を闊歩する魔獣に踏み潰され、へし折られる。
その森だけはロウキュール王国のものでも、アンクール皇国のものでもない。
『魔獣の国』であった。
イルダートの人間は、この森には決して近づかないように、子供のうちから言い聞かされて育てられる。
『大きな口の獣に丸呑みにされてしまう』
『あの世に繋がっている』
どれもこれも、どこでだって語られるような脅し文句だが、こと、この『魔窟の大森林』に至ってはあながち冗談とは言い切れない。
ロウキュール王国侵攻のさい、この大森林の迂回による時間のロスを嫌ったアンクール皇国は、森の焼き討ちを使命に踏みいってしまった。
結果は、全滅。
遠くから経過を見ていた人間によれば、本当に人を丸呑みにする獣を見たという。
結局アンクールは、下手に森を刺激してもしも自国に魔獣が雪崩れ込む事態になっては大惨事だと、焼き討ちは断念した。
それが、最終的にイルダートの争奪をロウキュール側に譲る要因となる。
因みに、国境を越えてうまく追っ手から隠れ通して来たメイリーがイルダート間近になって捕縛されそうになったのも、この通り抜け出来ない森を迂回したためにルートを絞られ待ち伏せを受けたからであった。
そんな『魔窟の大森林』の境界はどう見分けるのか。
『印』は樹木に刻まれている。
まるで刃物で何度も切りつけたかのような削り痕が、ある程度奥まで進むと頻繁に見られるようになる。
この『印』を刻む魔獣こそが、『ソードドック』である。
『魔窟の番犬』の異名をとるこの魔獣は、額から鋭い刃物のような突起物を生やし、黒々とした毛並みをしていて、四足で駆け回る。大森林から唯一人の領域に踏みいる魔獣でもある。
ソードドックには額の突起物で樹木の表面に傷をつけ、『マーキング』をする習性があり、縄張りを侵そうとするものがあれば群れで襲ってくる。
一説に『魔窟の大森林』から魔物が出てこようとしないのは、大森林外円部にあるこのソードドックの縄張りが内部の魔物を閉じ込めているから、というものがあり、そういう意味でも彼らは『番犬』だと言えるだろう。
そんな、一側面では人のためになる役割を、おそらく当人達ですら知らずに果たすソードドックだが、放置するわけにはいかない。
群れが増えればそれだけ縄張りも大きくなる。
しかし、群れが減っても縄張りの大きさは変わらない。踏みいったものは容赦なく八つ裂きにされる。
では、縄張りの広がる方向がどちらにあるかと言えば、それは人の生活圏の側である。
放っておけばソードドックは縄張りを広げるだろう。そして与し易いと侮られれば、揃って人の世界に侵攻してくるかもしれない。
そのために、イルダートではソードドックの討伐依頼を常時募集し、必要なら王国に申請し、兵を用いることもある。
この見極めこそがイルダートを国から預かる者の最大の業務であった。
ソードドックの最大の特徴と言えば、やはりその額から入る突起物だろう。
ソードドックの角は命数が増えるにしたがって長く、大きく、そして、乳白色から水晶のような光沢を帯びていく。
普通は刃物に加工されることが多く、イルダートでは台所の包丁に使われていることも珍しくない。
しかし、年齢を重ねたソードドックの角になると、欲しがる貴族や金持ちも多く、思わぬ大金に化けることもあるのだ。
イルダートの住民が代々引き継ぎ、開拓した土地より少し奥、周りに、ぽつぽつ傷痕のある木々が見え始めたあたりだ。
低い枝が根からの養分を吸ってしまうせいで先細りの不恰好な木々が目立つ。
雑草が茂って人が歩き回るには不便だろう。
黒い毛並みの獣は、そんな人と獣の国の境目の土地を歩いていた。
ソードドックである。
ただし、額の角はまだ小振りで色も牛の乳を濾したかのような色であることからまだ若い、群れの中でも木っ端の個体であることが窺えた。
青葉の重さでしなる木の枝をくぐろうと、頭を下げようとしたソードドックは、はたと、立ち止まった。
首を反らし、鼻先を風の流れに当て、ヒクヒクと鼻の奥を鳴ら
す。
右へ左へ頭を振り、やがて、風に乗って匂いをたどりだした。
ふんふんと、濃くなる匂いに興奮して鼻息を荒くした若いソードドックが藪を飛び越えると、そこにはまるっと肉を肥えさせたウサギが転がっていた。
腹が裂けて血を滴らせるウサギに、ソードドックは擦り付けんばかりに鼻を近づけ、だらだらと口の端から涎を垂らす。
まるで飢えた金の無い人間が、店先から漂ってきた匂いで味を想像しようとするかのようであった。
今すぐにでもかじりついて、骨をしゃぶり、溢れる血と脂を堪能したいのだろうが、ソードドックは、その欲望に従うことをよしとしなかった。
もしこの場で足を一かじりでもすれば、群れに帰った時、匂いとふくれた腹を見咎められ、このソードドックは群れを追い出されるだろう。
群れを追放され一人になったソードドックなど、格好の獲物でしかない。
森の奥に潜む魔獣の腹のなかにすぐさま招待されることなる。
それが、このソードドックのような未熟な個体なら尚更だ。
それをソードドックは理解していた。
この持ち帰ったウサギも、まずは先達がたっぷり味わい尽くし、その後に残った、骨にこびりついた肉にありつくことになる。
それが、『群れ』であり、このソードドックも生まれたときからそこに組み込まれていた。
ハアハア、歯の隙間から涎をを溢しながら、ウサギを甘噛みで持ち上げたその時だ。
がさりと、藪の中から白銀の髪を後ろで束ねたリザリスが『槍』を片手に躍り出る。
突如として現れた敵にびくりと震え、ソードドックはウサギを取り落とした。
ソードドックの嗅覚は鋭い。
そのために奇襲はまず成功しない。
この若いソードドックも、自分の鼻を信じきっていて、まるで無警戒だった。
ウサギの血の匂いがこれだけ散漫していれば、その鼻も無用のながものだったというのにだ。
リザリスは完全にソードドックの虚を突いた。
対人ならばまず仕留められただろう。
だが、ソードドックは野生の反射で横っ飛びし、リザリスの突きをかわしていた。
リザリスの持つ武器がただの『槍』であったなら、伸びきった腕を引き戻し、仕切り直しとなっていたかもしれない。
しかし、リザリスの持つ『槍』は、ソードドックに跳んだ先を追随することが出来る武器だった。
突きだした右手首を回せば、伴って『穂先の側面にあつらえらえた刃』がソードドックを向く。
「はあっ!」
喚声を上げ、左の掌底で長柄を殴る。
しなった穂先が、ぶおうと風を切って、ギラリと光る刃がソードドックを襲う。
ズバッと、片刃が獣の前足から尻尾の付け根までを切り裂いた。
『方天戟』――それがリザリスの持つ武器の名称だ。
槍の長柄と穂先に、三日月刃を併せ持つことで、『突く』、『叩く』と言った槍の攻撃に加え、三日月刃による『斬る』が可能となった武器である。
完全にソードドックの肢体を捉えたに見えた一撃はしかし、
「くっ!」
わずかに仕留めきるに至らなかった。
硬い黒毛と筋肉、それから宙で斬ったことが『ほんの少し』を残してしまった。
靭帯を切り裂かれ、身体から地面に落ちたソードドック。
その頭は空を仰ぐ。
「ちいっ!」
舌打ちをしたリザリスがとどめを焦る。
ソードドックの脅威は複数体を相手にしたときだ。
数倍も体躯が大きな敵を狩ることが出来るのも、群れでの戦いを心得ているためである。
そして、ソードドックの厄介な点は、仲間を呼ぶことにある。
縄張りが侵されているのを知り、大挙するソードドックを相手にするのは、下手な大型魔獣を相手取るよりよっぽど部が悪い。
がっと、歯を剥き出したソードドック。
露にした声帯がどくどくどくと脈動し、発声のために血液を溜めている。
「させるかっ!」
間に合うかは微妙なところ。
方天戟を捨てたリザリスは、なめし革の上に何重にも布を巻いた左腕をソードドックの口にねじ込んだ。
ソードドックの特性を知り、予め準備しておいたものだった。
がろぉお――
異物に阻まれ、かきけされる遠吠え。
ぐるうと唸りながら、死に体とは思えない力で頭を振るソードドックに、リザリスは食らいついて放さない。
「うご、くんじゃ、ない!」
押さえつけながら、上を向かせる。
なんとしても振りほどこうと、血を撒き散らして暴れるソードドックだったが、ぴたりと静かになった。
上を向き、向きだしになった動脈に、短刀が突きたっていた。
腰だめに、柄を握っていたのはヴァル。
リザリスの奇襲で仕留められなかったタイミングで、ヴァルも手はず通り、飛び出していたのだ。
ヴァルが短刀を引き抜き、リザリスが力を緩めるとソードドックは、だらりと地面に伏した。
「やはり、獣相手だと、勝手がどうにもな……」
「でも、ちゃんと勝ったね!」
不満げなリザリスだが、他ならないヴァルに「やったね!」と言われてしまえばそれまでである。
「うむうむ、ヴァルのお手柄だぞ! さすがわたしのヴァルだ」
いつもの癖で頭を撫でようとしたが、ソードドックの血で濡れた手で汚すわけにはいかず、残念な顔ですごすごと浮いた手をおろしたのだ。
「お、終わりましたの~」
情けない声を上げ、腰砕けに藪から出てくるのはメイリー。
「おわったよ。これでよんこめ!」
「ああ、順調に倒せているぞ。……はあ、メイリー。お前はやっぱり女将を手伝ってた方がいいんじゃないのか?」
あんまり情けなく震えているものだから、見ていられず、『あの』リザリスが気遣うようなセリフを言ったのだが、今のメイリーにその事に気がつく余裕は無かった。
ヴァルとリザリスの足下で赤黒い血を流す、ソードドックの骸に怯え、とてもではないが、それどころでは無かったからだ。
「こ、これくらい、だいじょうぶ、れふ」
呂律も回っていないくせに強がるメイリー。
そんな状態で危なっかしくナイフを抜くものだから、「うーん」と頬を掻くヴァルと「はあ」とため息を吐いたリザリスは、揃って困った顔を見合わせたのである。