イルダート
走っていたのは少女であった。
肩まで届こうかという長さの栗毛の髪は跳ね、どこで拾ってきたのか、小枝が刺さり、葉が絡みついていた。
格好は村娘のものに違いないが、少し観察すれば誰でもそれが『上っ面』だと見抜いてしまうことだろう。
水仕事を知らないあかぎれの無い白い手、暫くは怠っていたのだろうがふわふわと広がる栗毛の艶が、少女がやんごとない身分か、あるいは豪商の娘であることを雄弁に語っているからだ。
そんな少女が、お転婆と笑ってはいられない死に物狂いの形相で、お供もなしに草を蹴り上げて、小石につまずきながら走っていた。
「あそこだ!」
背後に迫る野太い男の声。
ぐっと、胸に抱える鞄を掴む少女の指先に力が入る。
少女は追われていた。
「うぐっ、ふうあ、はあーー」
息が乱れている。とっくに足先から感覚は消えて、大腿を繰り返し上げる作業もままならなくなってきた。
限界が近いのは考えるまでもない。
国境を越えて暫く、辺りの木々は低い枝を切り落としてあることから定期的に人が入っていることが分かる。
それが森のなかでは自然が隠してくれていた少女の姿が暴かれる要因となった。
しかし反面、近くに集落があるという証でもある。
(ここまで来て!)
瞳が滲んだのは走り通しでずきずき痛む頭が原因だろうか、それともじわりじわりと背中から這い寄ってくる絶望と恐怖のためだろうか。
それもあったかもしれない。
しかし、何より大きかったのは悔しかったからだ。
この体が止まれば男達に捕まってしまう。
そうしたら、全部、全部が無駄となる。
託されたものも、想いも全部が奪われていいようにされてしまう。
(どうすれば、いいんですの!?)
隠れられそうな場所は見当たらない。打開策も閃かない。
「――ああっ!!」
疲労でもつれた足がぐびりとひねり、少女はもんどりうって転がった。
「う、うう」
ぱんぱんに張った足に、痛みがじりじりと焼けつくように上ってきて、うめきが漏れた。
つい最近までは血の一滴でも出ようものなら周りが大騒ぎするような生活を送っていたのだ。涙が溢れそうになるのも仕方のないことだった。
涙をぐっと堪えて少女は周囲を見渡した。
そして、鞄を見つけると体を引きずりながら手を伸ばして掴み、庇うように胸元に抱き寄せる。
しかし少女に出来たのはこれまで。
もはや走ることはおろか、立ち上がることすらできそうにない。
ほどなく怒号を上げて少女を追い回していた男二人に迫られていた。
どちらも一市民の格好とはいえない。
炙られたように赤くなったむき出しの二の腕には白くなった刀傷見られた。片方の男は額から顎にかけて傷痕がはしっている。
そして、どちらも手にはぎらりと光る刃を握っていた。
「よお、やっと追いつめたぜ? まあ温室育ちにしちゃ上等だよ。俺たちにこんなに手間とらせたんだからよお」
ニタリと、いやらしい笑みを浮かべながら男がにじりよる。
「な、は、離れなさい! わたくしは、わたくしは帰らなくてはなりませんのっ! これをお父様に、お届けしなくてはいけませんのっ!!」
「だあから、そうなっちゃ困るからここまで野を越え山を越え、国境を越えて小娘一匹追いかけてきたんだろうが!! いいからこっちこいや、オラッ!」
強引に腕を引かれ立ち上がったために、ひねった足にびきりと痛みが走り、少女が「ひぐっ」と悲鳴を上げる。
「やめ、いや、離して!! お願いします、誰か、誰か助けてくださいっ!!」
「るっせぇ!! 顔に傷の一つでも作りゃあちったあ、おとなしくなるか!? ああ!?」
男が低い声で脅しをかけ、叫き散らす少女の頬骨に刃を添えた。
偶然でも奇跡でも運命でも何でもいい、救世主を願い、刃に怯まず少女は声を張り上げた。
「だれか、だれかあ……っ!!」
遂に一粒の涙を落とした少女の哀願に、男達の背後より声は応えたのだ。
「えと、だいじょうぶ?」
この場にそぐわないどこか間の抜けた、それも幼い少年の声であった。




