イルダート16
翌朝、のっそり体を起こしたメイリーはまだ覚めきらない頭のまま「ふわぁ」と口をおさえて欠伸をした。
夢も見ないほど、ぐっすり眠ってしまっていた。まるで生まれ直したかのように疲労を感じない。ここ数年と無かった快眠だった。
「ん~」と少女のしなやかな体をのばしていると、そこへ、
「おはよう! メイリー」
「あら、ヴァル。おはようございますわ。……すみません、通りが賑やかですけれども、今は早朝ですわよね?」
料理の仕込みがあるため、『月グマ亭』の朝は早い。メイリーたちも客がホールに現れる前に簡単に掃除を済ませておかなければならない。
いつもは三人の中でも一番に起きて、着替えを済ませているメイリーだが、今日はヴァルもリザリスもすでに寝間着姿ではない。
まさかと思い尋ねれば、ヴァルは、「あはは」と笑って答えた。
「なに言ってるのメイリー。もうお昼だよ?」
「お、お昼と言いましたの!? 申し訳ありませんわ! わたくしったらだらしなく寝こけてしまって、今すぐ着替ますわ!」
真っ赤な顔で謝罪を捲し立て、いつもお仕着せを畳んで靴とならべてある、ベッド横の床を見るが、そこにエプロンドレスは無かった。
「あの、わたくしの仕事着せをご存じありませんか?」
「知っているぞ? そこだ」
振り向けば窓を後ろに立つリザリスがメイリーを指さしていた。
始めこそその意味が理解できなかったが、すぐに気がつき「あっ」と悲鳴を上げた。
「昨夜はこのまま眠ってしまいましたのね……」
シワのよったクチャクチャになったエプロンドレスを指でつまみながら落胆するメイリー。
自業自得とはいえ、このままホールに出るのはあまりに不格好だ。
「メイリー、だいじょうぶ。きょうはいらっしゃいませーはしないんだよ」
「それは、……いったいどうしてですの?」
首を傾げるメイリーに、リザリスが「はあ」と呆れながらため息を吐いた。
「いい加減目を覚ませ、今日から忙しくなるんだからな」
そう言って、リザリスが投げつけてきたものをメイリーはわたわたしながら受け止めた。
広げてみればそれは、動きやすく、簡単に乾くように通気性のいいつくりの服だった。
「お前のだ。先に降りてるからそれに着替えたらこい。昨日の後始末は終わっているが、けじめはつけなくてはいけないだろう」
わかるな、と視線で念押しすると、リザリスはヴァルを伴って部屋を出た。
「昨日……、そうでしたわね」
メイリーを狙った襲撃事件。
『月グマ亭』は安心して休めるはずの宿でありながら、危険人物の侵入を許してしまったことになる。
錠は外から開けられる仕組みではなく、点検も定期的にしていた『月グマ亭』に落ち度はない。ただ、あの黒装束の男が手慣れていただけだ。
だが、男の死体が運ばれていくのを見た宿泊客はどう思うだろう。この店で食事をする人間はどう思うだろう。
いつもは部屋にいても聞こえてくる宿泊客の床を踏む音も、下の階のホールの賑わいも聞こえてこない。
つまりは、そういうことだった。
「わたくしの、責任ですわね」
よくしてくれた女将さんと主人には、恩を仇で返すことになってしまった。
ならば、そうだ、リザリスの言うとおり、逃げてはいけない。せめてけじめをつけなくてはならない。
頬をパチンと打ち、活をいれると、メイリーはエプロンドレスを脱ぎ捨てた。
階段を下りてホールに入ると、思った通り、店内は閑古鳥が鳴いていた。お昼時になるといつもやって来て、隅の席でお気に入りの品をつついている常連の姿すら見当たらない。
「おや、起きてきたんだね」
ホールの真ん中のテーブルで主人と並んで座っていた女将がメイリーに気がつき、いつもの通り安心感を覚える笑顔で迎えてくれた。
「女将さん、あのお店……」
「ん? ああ、まあね。今日は思いきって臨時休業にしたのさ。あの味音痴どもにもたまには他の店の味を知って、うちの旦那の料理をありがたく思ってもらわないとね」
「ねえ、あんた」と女将が主人の肩を叩けば、主人も「ああ、そうだな」とどっしりした声で頷く。
「女将さん、ご主人も……」
それが、ポーズだということくらい、メイリーだってわかる。
料亭は休めても、既に宿泊している客がいる以上、宿の方は突然休みにするなんて普通は無理だ。つまり、メイリーの寝ている午前中に、全ての客がチェックアウトしたということになる。
長年夫婦で営んできた『月グマ亭』。
その暖簾を下ろすことになるかもしれない危機をもたらしたメイリーに、それでも夫婦は優しかった。
「わたくし……」
込み上げてきた感情で目が潤む。
だけど、堪えた。
子供のように泣いて夫婦に甘えてしまうのは、あまりに卑怯だと思った。
鼻から息を吸い、口から吐くと、メイリーはリザリスとヴァルの間を通って夫婦の前に進み出たのだ。
「この、たびは、大変申しわけ、ございませんでしたっ!」
膝に額がつきそうなくらい、体を折って謝罪する。
「あ~あ~、やめとくれ。昨日の夜からさんざんこの子たちにも謝られたんだ。いいって言ってるのに、掃除も全部やっちまって。おかげでこっちは朝ちょっとお役人と話しただけでずっと座りっぱなしだよ。そんな年じゃないってのに」
「リザリスさんとヴァルがですの?」
驚いた顔を向ければ、リザリスは「ふんっ」と鼻を鳴らしてそっぽを向いたのだ。
「それにだよ、アンタもそっちの生意気な子とちっちゃいのも何か大きな事情を抱えているのは始めからわかっていたんだよ。それでもアタイたちはアンタたちを雇ったんだ。あんまり宿屋の眼力を嘗めんじゃないよ?」
そう啖呵を切った女将はやっぱり力強くて、不意に、堤が決壊するように、メイリーの顔がくしゃりとつぶれた。
こんなはずでは、こんな弱い姿を晒すはでは無かったのにと、赤くなるまで顔を袖で拭う少女を、女将は黙って見守っていた。
ようやくメイリーが落ち着いたのを見計らい、今度はリザリスとヴァルがメイリーと並んで頭を下げた。
慌てそれにメイリーが倣う。
「なんだい? アタイはやめとくれってさっきも言ったよ?」
「もう一つ、謝罪することが残っている。依頼を請けたときの話では、あと数十日はここの従業員として働くことになってるが、それができなくなった。わたしたちは次の乗り合い馬車に乗る」
顔を上げないままリザリスが答える。
「……そう、いっちまうんだね」
まあそうなるだろうとは女将も予想していたし、リザリスとヴァルが一度部屋に戻りホールに再び現れた時には確信していた。
まさか当て鎧や旅の装束を着て給仕や厨房の小間使いはしないだろう。
「お金はどうするんだい? もともと旅費を稼ぐために働かせて欲しいって話だったじゃないか」
引き留めるような響きだった。
ここに残ればいつまた襲われるか分からない。それを理解した上でこんなふうに言ってしまうのは、それが『親心』というものだからだ。
三人と過ごした時間は数日にすぎなかったとしても、女将はこの三人に我が子のような愛情を抱いていた。
「それは、心配ない」
リザリスはきっぱり言うと、鎧と装束の隙間から一枚の粗末な紙を取り出して女将と主人の座るテーブルに置いた。
「「なっ!」」
その『依頼書』に、女将はおろか、寡黙な主人すら息を呑んだ。
「ど、どういうことだいアンタ! これがなんなのか、『何を相手にするのか』ちゃんと分かってんのかいっ!?」
バンッと、紙の上から手のひら叩きつけた女将がつかみかからんばかりの形相でリザリスに詰め寄る。
『ソードドッグ討伐』
依頼書にはそう記してあった。
「短期間で、お金を稼ぐ方法って……」
リザリスが昨日の夜、何を目論んでいたのか、ようやく知ったメイリー。
襲撃者を二度も撃退しているリザリスの強さに疑いを持つわけではないが、相手は『魔獣』だ。
その強さの物差しに果たして人を置いていいのか、メイリーにはわかりかねた。
「心配することはないぞ、女将。魔獣を狩るのは初めてじゃない。いつもは請けないが……、今回は早急に金を揃える必要があるからな」
言葉の合間にちらりとヴァルを見たリザリスは、女将に視線を戻し、なんてことないように言う。
「初めてじゃないったって、『魔獣』なんだよ? 何が起こるか分からないんだ。命を元手に商売しようってんだよ? 下手打てば死んじまうんだよ?」
「承知している」
意見を変えようとしないリザリス。
そんな姿が女将には余計に不安だった。
末の息子もそうだった。
いつも言うことを聞きやしないで、やんちゃばかりしてた息子。
そんな息子が何をとちくるったのか、宿泊客の話を聞き、旅人になるんだと言い出し、おかみと主人は猛反対した。
そんな危険なことはするもんじゃないと。
だから、息子は夫婦を納得させるために、街の西側に広がり、畏れられている『魔窟の大森林』から現れるソードドッグを仕留めようとした。
そして、元兵士で腕っぷしに自信のあった主人が駆けつけたときには、もう遅かった。腕を食いちぎられ、虫の息だったらしい。それでも、主人は魔獣の元から息子を連れて帰ってきた。
背中でピクリとも動かない息子を、である。
その時のソードドックとの戦闘で負った傷により、主人は足に不治を患い、厨房の殆ど動かない作業しか出来なくなった。
「お金ならアタシが用立てして上げるよ。ね、あんた? だから考えなおすんだ!」
「それは駄目だ。これ以上は受け取れない。わたしはこれ以上を女将に返すことが出来ない。どのみち馬車がくるまではまだ時間がある。女将の手を煩わせるほど、焦る必要もない」
そう言いながら、女将の手の下から今にもくしゃくしゃにされてしまいそうな『依頼書』を回収するリザリス。
「アンタねえ!」
「やめろ、ミレイ」
どうやっても説得させようとする女将を制したのは主人だった。
足が痛むのだろう。
「むう」と唸りながら主人は立ち上がると、顎で裏庭を示した。
「ついてこい」
一言告げると、片足を引きずりながら歩きだす主人。
ヴァルとリザリスが互いに目配せを送り合い、後に続く。さらにその後から不安そうな女将とメイリーが続いた。