イルダート14
メイリーが深く息を吸い、表情を引き締めさせたのを見て、リザリスもヴァルも自ずと話を聞くために、静かになった。
硝子の向こうでランプの灯火がちろちと、動いたのを、合図にしたように、メイリーはつぐんでいた口を開く。
「我が国の隣国、『アンクール皇国』はもちろんご存じですわね」
「当たり前だ。ロウキュールと並ぶ大国だぞ? 訪れたこともある」
アンクール皇国。
肥沃で広大な土地を治めるロウキュール王国の西側に位置し、穏やかな気候と地力に恵まれているこの辺りで、どういうわけか線引きしたかのように忽然と存在する荒れた土地を抱える国だ。
そのために、小国が手を取り合ったのがその始まりとされている。
土地がら、作物の自給量は他の国には劣るものの、鉱山から取れる資源の産出量は随一で、末端にまで行き届いた優秀な武器、防具が軍事力を高い水準に押し上げている。
アンクール皇国が今やロウキュールに並び立つに至った背景には、その高い兵力による侵攻の連続があった。
周辺国を次々飲み込み、複数の部族が入り交じり、そうやってアンクール皇国という国は大きくなったのだ。
最終的に、小競り合いを繰り返していた、ロウキュール王国と本腰をいれて数年に渡る戦争を繰り広げたのだが、いい関係を築いていたロウキュール王国がアンクール皇国に取り込まれることで、我が国の存続を危うんだ国々の協力もあり、戦は平定、ロウキュール王国とアンクール皇国は友好条約を結ぶ運びとなった。
「ロウキュール王国とアンクール皇国の間では友好の証として互いに国主の血筋か、それに準ずる身分同士の交換留学が行われていました。わたくしは一年ほど前から、その留学生としてアンクール皇国に身を置いていましたの」
メイリーはそこで、言葉を切り、瞼を伏せた。
友好条約を結んだとはいえ、アンクール皇国とロウキュール王国はほんの数年前まで刃を向けあっていたのだ。
そんな国に送られる、『王族』。
それが、一体どんな意味を持つのか。
なぜ、それまで市井に捨て置いたメイリーをわざわざ王の居城に招くことにしたのか、メイリーは留学を命じられたときに初めて理解した。
ただ、丁度良かったからだと。
幼いメイリーは、右も左もわからないまま、ただ必死で頑張った。
礼儀作法、学問。
母親の死出を祈る間もなく、泣くことも許されず、覚えろと言われたことをかじりついて覚えた。
『王族の責務』というよく分からないもののためではなく、ただ、自分がやらなくてなはならないことだったから、メイリーは涙をしのんで頑張った。
それが、自分がこの権力の頂きに喚ばれたことに応えることなど、信じて疑っていなかった。
だが、それは間違いだったのだ。
きっと、かしずいていたものたちは、その伏せた顔には笑みを張りつけていたのだろう。
きっと、王はメイリーが『王女』にふさわしくなることなど、どうでも良かったのだろう。
彼らが望んだのは『張りぼて』。
アンクール皇国に送るための都合のよい人身御供を立てたかっただけだったのだ。
いまだに、あの日からメイリーの胸のうちに空いた空白は、埋まらないままだった。
瞼を開き、突然黙りこんだメイリーを窺うように首を傾げるヴァルを見て、「失礼しましたわ」と一言詫び、メイリーは経緯の核心部分の話を始めた。
「アンクール皇国での生活はそう悪いものではありませんでしたわ。一応は国賓という扱いでしたからね。当然、責務もあります。あの日もそうで、わたくしはロウキュール王の名代として、立食会に招かれました。別室での休憩を挟み、いざ会場に戻ろうというとき、給仕にドレスの裾が破けているのを指摘されました。ロウキュール王の名代に大衆の前で恥をかかせるなど、友好条約に大きな亀裂が入る大問題に発展しかねないと、至急代わりを用意するので案内に従って欲しいと請われ、わたくしは了承しました」
今思えば迂闊だっただろう。
給仕が若い女の子で、大変な慌てようだったこともあるが、それにしても、のこのこ後を着いていくことは自衛意識が低かったと言わざるをえない。
「アンクール皇国は石細工に精通した国でもあります。庭園に差し掛かったとき、ふと、月光に浮かび上がった精巧な彫像に目を奪われたわたくしは、気がつけば給仕とはぐれてしまっていました。城の構造を把握していなかったこともありますが、他国の者であるわたくしが一人で歩き回るわけにもまいりません。途方に暮れようというところで、回廊の先の部屋に明かりを見つけました。わたくしはそこで案内を請うことにいたしましたわ。しかし、わたくしは扉を叩くことができませんでした。聞いてしまったからです。立食会の裏で行われていた、恐ろしい密談を……」
轟くような男の声としわがれた老獪を窺わせる声を、震えがのどにまで伝染してしまうのを堪えながら、そのときのメイリーは庭園の陰に体を押しつけて聞いていた。
「彼らは歓談したあと、最後にこう言って部屋を出ていきしたわ――」
その時を思い出すだけで、体が底冷えするような感覚を覚える。
男の横顔を、メイリーは克明に覚えている。
忘れられるはずがない、忘れてしまえるような、経験でも、顔でもない。
あんなにもおぞましく、恐ろしい、みみずが地面を盛るように、焼けただれて盛り上がった頭の悪魔のような男のにやけ顔を、忘れてしまえるはずがなかった。
そして、そんな男が、歯をむき出しにして言ったのである。
「――『では、日輪の大鷲の翼を千切って引きずり落とすその時に』と」
「なんだと? それはつまり……」
『日輪』、『大鷲』何を示すかなど、考えるまでもない。
リザリスが眉をひそめ、メイリーは言わんとしたことを頷いて肯定した。
「ええ、アンクール皇国はロウキュール王国と友好条約を結んで僅か数年にも関わらず、再び戦争を始めようとしているのですわ」
強く宣言し、メイリーは手に抱えていた羊皮紙の紐を解いた。
「これは、男たちの居なくなった後、部屋のなかで見つけた、その時に書いたと思われる『密約書』です」
メイリーには証拠が必要だった。
これが、王太子だったならば声だけあれば事足りたのだ。
だが、メイリーでは、駄目だ。
『張りぼて王女』の言葉では王の耳に入るかすら疑わしい。
だから、メイリーは行動した。
自分に災厄が降りかかることを危惧した上で、『必要だったから』そうした。
メイリーの開いた『密約書』を受け取ったリザリスは、内容に視線を走らせて、そこにあった聞き覚えのある傭兵団の名を呟いた。
「『亡霊の牙』か……」
戦場で死にかけた傭兵ばかりを集めて構成した傭兵団と聞く。
つまり、死の間際を知って、それでも戦場を離れられない酔狂とも言えない戦狂いどもの集まり。
それだけに残虐で容赦知らずであることに定評があり、雇い入れた軍すら距離を置きたがる集団だという話だ。
「なるほどな……」
くるくると『密約書』を巻いて、リザリスはそれをメイリーへ返す。
受け取ろうとしたメイリーだが、なぜかリザリスは手を離さず、じっとメイリーを碧眼に映していた。
「リザリスさん?」
「やはり、お前だった」
そう言い、手を離したリザリス。
「なんの話ですの?」と問うメイリだが、リザリスは「気にするな」と片手を上げ、取り合わなかった。
メイリーもリザリスのそっけない対応は今に始まったことではないので、それ以上は聞き出さない。
「『密約書』を持ち出したわたくしはそのあと、戻ってきた平謝りする給仕に気分が優れないことを告げ、屋敷に戻りました。一時帰国の旨をアンクール皇帝に嘆願しましたが、なにかと理由をつけてなかなか許可を頂けませんでした。そこで、わたくしはロウキュール王国での身分が確かな者に『密約書』を託そうとしましたが、どこから話が漏れたのか、それとも読まれていたのか、襲撃を受けました」
目測が甘かった。
いくら『密約書』の行方について、メイリーを疑っていたとしても、屋敷の敷地はロウキュール王国の領土として、認められているのだから、そう手出しは出来ないと踏んでいた。だが、もし『密約書』がロウキュール王の手に渡れば、どのみちアンクール皇国は戦いを余儀なくされるのだ。無茶もするだろう。
これは臆測でしかないが、恐らくアンクール皇国はまだ戦いに臨むだけの準備が整っていない。武装は潤沢にあるものの、それを扱う兵が先の戦いで失ったために足りていない。
だから、傭兵団と密約を交わし、戦力の補充とともに、ロウキュール王国周辺の国を牽制しようとしているのだ。
自在に戦場を歩く傭兵ならばどこに潜んでいてもおかしくない。アンクール皇国が多数の傭兵団を引き入れたとすれば迂闊に傭兵を雇えなくなる上、自国に滞在する傭兵にも目を光らせなければならない。
自国の防衛戦力をロウキュール王国の援軍に派遣することは難しくなるだろう。
だから、なんとしても時間を稼ぎたい。
メイリーを表だってアンクール皇国が追わず、傭兵団に任せきりなのも、責任の矛先を煙に巻いて、追及をかわす材料を増やすためだ。
時間さえ稼げればむしろ、メイリーの死は開戦の口上としては、都合がいいだろう。
『卑劣にもロウキュール王国は友好条約を結んでおきながら、傭兵団に殺められた第三王女の責任を我らに押しつけた』と。
「犠牲は決して少なくはありませんでした。屋敷の者はほとんど殺され、生き残った者も、わたくしが原因を抱えていると知ると、離れていきました」
逃げた彼らがどうなったのかは分からないし、彼らを恨んでも、責めることはメイリーにはできなかった。
彼らにはメイリーのために死ねるほど、メイリーへの忠義は無かった。
それだけのことなのだ。
生き残った誰かが愛国心に従って、メイリーがあえて晒した『密約書』の内容を何とかして王の耳に届けてくれればそれ以上のことはないだろう。
一人になったメイリーは、身に付けていたドレスと装飾品類を売り払い、足もとを見た商人に買い叩かれ、僅かな金と粗末な服を得て、馬車を乗り継ぎ、走り、そうしてやっとの思いで国境の駐屯地にたどり着いた。
そこで再びあの、『悪魔』を見ることになる。
いつの間にか握りこんでいた手の中が汗でじわりと濡れていた。
唇を噛んだメイリーはあの夜の『悪夢』を思いだす。
「敵は、『あの男』はあまりに危険です。恐らくですが、……《アーツ》を所持していますわ」
「《アーツ》だと?」
リザリスがはじめて、緊張を面に出した。
ウェポンズが現れるまでは、ごくごく限られた数しか確認出来ず、国に納めらているそれは特に『レガリア』――王威の象徴とまで呼ばれ、古代の遺産と推測されている兵器、《アーツ》。
それほどまでに、《アーツ》という力は強大だった。
ただ一つの《アーツ》が必敗の戦況を逆転させる。そんな夢物語の英雄の所業を可能にしてしまうのが《アーツ》という力なのだ。
メイリーが駐屯地に逃げ込んだ『あの夜』に見たのは、まさに人の所業を越えた光景だった。
全身に火傷跡のある、あの男が不気味なこえで『よおう』と友人に会ったように声を掛けたかと思えば、緑光に充てられ、次には土流が駐屯地を飲み込んでいた。
メイリーは、意味も現実も理解できず、呆然とするほか無かった。
解決したと思ったのだ。
早朝には兵に護衛されながら王都に向かうことができるものと、信じて疑っていなかったのだ。
そんな、土流に呑まれるの呆けて見るばかりだったメイリーの腕を引いたのは、若い兵だった。
駐屯地の隊長に、『良かったなあ、お姫さまを守るナイトになる夢を叶えられて』とからかわれ、顔を真っ赤にしていた彼だった。
そして二人に追っ手が迫ると、若い兵士は『密約書』の入った鞄を、メイリーに「お願いします。メイリー王女殿下!」と託すと、メイリーだけを行かせたのだ。
もし、そのときメイリーがこの鞄を敵に差し出せば、あの若い兵には助かる道が、爪先の可能性とはいえど、あったかもしれない。
だけど、メイリーは走った。
彼の犠牲が、『密約書』を国許に届けるために、メイリーには必要だったから。
メイリーは彼に背を向け、追っ手の目を欺くために獣道を走った。
託された『もの』を絶対に、無くすまいと小さな胸に抱きしめ、メイリーは走って走って、このイルダートへたどり着いた。
だというのに、立ち止まってしまった。
目を背けてしまった。
あと少しで、全てを無駄に帰してしまうところだった。
(ごめんなさい)
メイリーは庇ってくれた厳しい侍女、屋敷の兵士、駐屯地のがさつな隊長に、若い兵士。
彼、彼女に謝罪し、ほつれのある鞄を今一度強く抱きしめた。
(わたくしは、進みますわ)
メイリーは、胸の内にいまいちど火をたぎらせて、その熱を秘めた瞳に、リザリスとヴァルを映した。
「お二人に、お願いを申し上げます」
そう、切り出したのだ――。