イルダート12
暗い雲は月光を貪って大地に闇ばかりを満たしていた。
暗闇に紛れて、黒装束の男は唯一覗いた眼光を『対象』を確認した宿屋に向けたのだ。
すでに部屋もつきとめ、窓への細工も終わっている。あとは、そこに『対象』が来るのを待ち受けるばかりだが、窺っていた店内から、状況がますます自分の有利に働いていることを見てとり、思わずほくそえんだ。
皮肉のつもりだったであろう、団長の『お祈り』が今回ばかりは聞き届けられたのかと考えると、可笑しくてしかたがなかった。
『目標』を持ち帰って団長に是非ともお礼を言わなければ、などと、ニタニタしながら考え、男は息を潜めた。
「くは~」と、みっともななく口を開けてしまいそうになる欠伸を噛み殺したメイリーは、間借りしている部屋へ向けてよろよろと、歩きだした。
今日はなにやら大きい仕事が仕上がったとかで、是非とも『月グマ亭』に祝いの席を設けたいとの話を請け負い、筋骨隆々の男たちが夜分遅くまで騒ぎ立てていたのだった。
女将は「少し前まで近くの街でしこたま酒を買い込んで、町長の邸宅でやるという話だったはずなんだがねえ」と呆れながら、仕事をしていた。
この日はメイリーもリザリスも交代で食事をとらなければとても回らない大忙しで、男たちのばか騒ぎに付き合ってホールを歩き回っていた。
最後には酒乱のあまり、顔を真っ赤に染めるメイリーを前に服を脱いで筋肉をひけらかしはじめた男たちを女将がひっぱたき、宴会はお開きとなった。
男たちは飲んで騒いでおしまいでいいが、メイリー達には片付けが残っている。
くたくたなのを見てとった女将が「もう休みな」とは言ってくれたが、リザリス、それにヴァルまでが働いているのに自分だけというのはと、メイリーは食い下がった。
その手からふきんを奪ったのがリザリスだった。
「ふらふらしているお前に注意していると、こっちまで手間なんだ。女将の言う通りにしろ」と追い払われ、メイリーは一人だけ早く休む運びとなったのだ。
「たしかにリザリスさんのおっしゃるとおりですけれど、あんな言い方をなさらなくても……」
むうと、ほっぺに空気が入る。
しかし、それも込み上げてきた欠伸にとって変わった。
眠い目を擦りながらたどり着いた扉の戸を開く。
間借りしている部屋は夫婦の子供が使っていた部屋らしく、簡素だが三人分のベッドが並んでいる。
異性であるヴァルも同じ部屋のため、はじめは気恥ずかしかったが、存外慣れるものである。
家賃も食事も面倒を見てもらって、賃金までいただいているのだ。一人部屋が言いなんてわがままを言えばバチが当たる。
何より、ヴァルとリザリスを二人だけにするわけにはいかない。
「はあ、いつもの確認をしておきませんと……」
疲労した体に身を任させてベッドに飛び込んでしまえば泥沼に浸かったのように気持ちよく眠れることだろう。
メイリーはその誘惑をぶんぶん首をふって払い、タンスの前に膝をついた。
一番下の段を引き、その下に出来た箱と引き出しの隙間。
メイリーの細い指でもかろうじて入るそこに、目的の手触りを確認し、メイリーはほっと息を撫で下ろした。
そして、この確認のたびに過る自分の『責任』から、目を背けるように、まぶたを落とす。
「今は、お金が貯まるまでは、どうしようもありませんから」
誰かに、自分に、言い訳するようにメイリーは呟いた。
「さて、明日こそリザリスさんに負けないためにも、早く眠りましょう」
当然のように明日を期待して、タンスを戻し、立ち上がって振り返った、そこに、『居た』。
黒。
いつの間にか窓が開け放たれ、片手にナイフを持った全身黒装束の男が唯一覗いた瞳から、鋭い眼光を放っていたのだ。
「だ、だれ、んぐっ――」
口を片手でわしづかみにされ、そのまま床に叩きつけられる。
後頭部の衝撃に視界がチカチカ光る。
メイリーを不意に襲った黒装束の男は、メイリーを押さえつけながら、片手でタンスを引きナイフの背で器用にメイリーの隠した『それ』――『一枚の羊皮紙』を引っ張りだした。
「こんな、ところに、隠して、いたか、小賢しい」
涙ぐましい努力だが、はじめから『目標』の回収だけで撤収するつもりはない、見つからなかったところで捕縛した『対象』から、聞き出していただろう。
「さて、」
男は、羊皮紙を懐にしまうと、刃をメイリーの喉に添わせた。
薄皮が切れ、食い込んだ柔肌から、つぷつぷと血の玉がこぼれる。
「黙って、随伴、しろ」
命じて手の力を弛めた。
「『密約書』を、返しなさい」
恐怖もあっただろう。だが、それ以上の憎悪をたぎらせた目で、少女は刃を握る男を睨めつけていた。
男はそんな少女の姿に、眉を潜めたのだ。
この状況だ。
黒装束の男はすでに強襲し、実際に痛みを与えることでこちらが躊躇いなく害することを表明している。精神的優位に立っているはずであった。
にも関わらずだ。
この少女は、泣きわめくでもなく、命乞いでもなく、男を睨み付けさえしたのだ。
「……」
今日までこの小娘一人を捕まえることができなかったのは、天が少女ばかりに贔屓したせいだと思ったが、それだけでは無いのかもしれないと、男は思い始めていた。
だから、残念ながら、『対象の捕縛』は諦めるしかないと判断するしかなかった。
「否と、判断」
刃を持つ手に力がこもる。
この場所から油断ならない人間一人を担いで帰るのは、難しい。
要は、『目標』を確保し、『対象』をどうにかすればいいのだ。
最高は、両方の確保だが、難しいなら『対象』は、どんな形になってもいい。
死体でもいい。
「くぅっ!」
少女の瞳に涙が浮かぶ、恐怖が大きくなる。それ以上に悔しさのいろが濃かった。
メイリーの喉笛がいよいよ裂けようかという、そのとき、声がつんざいた。
「その手を、どけろっ!」
開け放った扉から、流星のごとく白銀が飛び込んだのだ。
男が反応し、メイリーの上から飛び退いたのと、同時。
回転蹴りが、ぶおうと、メイリーの頭上を薙ぐ。
エピロンドレスの丈長の裾は、花弁のように大きく開き、リザリスの長い足を大腿まで晒す。
「りざ、り――」
「そのまま臥せていろ!!」
メイリーの頭を押さえて、リザリスが素早くしゃがめば、花弁はつぼみに変化し、二人を隠す。
「ヴァルっ!」
伏臥のままリザリスが叫ぶべば、応えが刃で返った。
ヒュンッと、宙に残っていたエプロンドレスの丈を引き裂いて、ひし形の鋒が黒装束の男めがけてはしった。
ひし形の刃部に、円筒の持ち部が生えている独特の形状の暗具
――『苦無』と呼ばれる武器であった。
死角から出現した飛来物に、目を見開いた黒装束の男は、しかし、眉間に当たる直前で弾く。
すぐに離脱を試みて窓に手をかけようとするが、リザリスがそれを許さない。
ダンッと床を蹴って、転がった苦無を拾い上げると、黒装束の男に肉薄する。
まずは一合。
ぎゃいんと、ナイフと苦無が切り結ぶ。
投擲だけでなく、近接に置いても活躍できるのがこの苦無という暗具の特徴であった。
更に踏み込んだリザリスがナイフと接着したままの苦無を逆手に持ち変える。
次の瞬間、
「くっ!」
リザリスが回転しながら男のナイフを天井に弾き飛ばした。
回転は止まらず、苦無を持つ手とは逆の手が、人差し指の第二間接を角のように突出させた拳を作る。
足から腰へ、腰から胴へ、胴から腕へ、腕から拳へ、回転によって生まれた螺旋軌道を一点へ集約させ、リザリスは男目掛けてそれをふるう。
「はああぁあッ!!」
呵成を轟かせ、リザリスの拳は男ののど、それも喉頭隆起を打ち抜いたのだ。
「か、ぁ」
絞首台に吊り下げられたように、衝撃で男の体が三十センチほど、宙に浮き上がった。
ごきゅりと、骨が砕けた音が、男の最期の断末魔だった。
糸が切れた繰り人形のように、床に崩れ落ちた男は『金色の瞳』に見下ろされながら、こひゅうこひゅうと、弱々しい呼吸を止めた。