不吉な数字
とある大手商社の地方支社に大倉栄一が配属されたのは、まだ肌寒さが残る四月の初めの事であった。大倉は飛び抜けてブ男とも言えないが、ハンサムとも言えない顔立ちで、これと言った特徴も無い平凡な男であった。
ただ、大倉はどういうわけか、数字に異常な執着を持つ男であった。大倉には転勤に当たり社宅を提供されたが、社宅の部屋番号が四〇二号室だったことに「縁起が悪い」とえらい拒否反応を示したのだ。社宅で開いている部屋は四〇二号室しかなかったため、結局実家から通えないことも無いと判断した大倉は、会社がある町まで約三時間かけて長距離通勤をすることになった。
この話は瞬く間に社内に広まり、「どんな変わり者が来るのだろうか」とちょっとした話題になっていたが、ふたを開けてみれば何てことない地味な二十六歳の小男であるのに皆一様に面食らったのである。そして春の繁忙を極めた生活に会社が追われるうちに、大倉のそのような性質も皆の頭の中からあっさり消え去ってしまった。
それから一カ月近くが経ったある日の朝。営業の外回りのために大倉は、先輩社員の河野と共に営業車に乗り込んだ。その日の大倉は異常に落ち込んだ様子で、頭上の曇天と湿気っぽい気候も手伝って、陰鬱な雰囲気が車内一杯に漂っている。
「どうしたんだい、朝からそんな暗い顔をして」
助手席で新聞に目を落としながら河野が話しかけると、目線は目の前のトラックに向けながら、冗談にも聞こえない鬼気迫る声で大倉は答えた。
「もしかしたら、僕は今日死んでしまうかもしれないです」
河野は新聞から目を離し、大倉の顔を見た。その顔は何かに取り憑かれたようにこわばっている。
「死んでしまうかもって、なんで?」
冗談にしてももう少しあるだろう、と河野は言いたかったが、下手なことを言うと何か口論になりそうな刺々しい空気さえあったので、とりあえずは大倉に調子を合わせる格好で質問を続けた。
「実は……こう言うと変に思われるかもしれませんが」
妙な前置きをした上で、大倉は口を開いた。
「今朝、目覚まし時計が鳴る前に起きてしまったんです。ふと時計を見たら、目覚ましをセットしていた五時ではなく四時四分だったんです。「四」、つまり「死」が二つですよ。それで僕、もうすっかり気分が沈んでしまって、朝食もまともに喉を通りませんでした。それだけじゃないです。いつも会社の出勤時間は始業三十分前の八時半と決めているのですが、今日は電車が少し遅れていて、タイムカードを切ったのが八時四十二分。「四十二」は「死に」で、縁起が悪い。それでもう、嫌になって嫌になって」
一通り話し終えると、大倉は顔を顰めながらぎゅ、と車のハンドルを強く握る。随分と苛立っている様であったが、河野はというと内心「随分くだらん事にストレスを感じてるんだな」と思い、せめて大倉の言動が原因で今日の取引先との商談がパーにならない事を祈った。
その後の商談中の大倉の挙動は不審極まりないものであった。事あるごとに時計を気にし、話の中で「四二」とか、「四九」(死、苦)などの数字が出ると、これまた露骨に眉間に皺を寄せる。その態度に河野は内心はらわたが煮えくり返る思いであった。何を根拠にそれほど数字を気にし、その都度オドオドしたり、不快そうな態度を表に出すのだろう。これで商談がオジャンになったら貴様のせいだぞ、馬鹿者。そう一喝してやりたい気持ちでいっぱいであったが、取引先の担当者が幸いにも大倉のそうした態度を気にしていなかったため、一人湧き出る怒りを何とか飲み込む他無かったのである。
「君ね、いい加減にしなさい」
午前の商談を終え、昼食を取るべく営業車を走らせる中、河野は大倉に溜まった怒りを吐き出した。
「君が数字に執着を持っていることとか、そういうのは分かる。だがそれと仕事は全くの別だ。先ほどのあの態度は何だ。ああいった大事な商談の前で、そんな、他の人から見ればどうでもいい私情によってあのような振る舞いをみせるのは、はっきりって幼稚だ。社会人なんだから、そこら辺のメリハリをしっかりつけなさい」
この河野の説教に対して、大倉は消え入りそうな声で「はい、申し訳ありません」と答えた。それがどうもやる気のない返事に聞こえ、河野は小さく舌打ちをした。
そして事件は定食屋で起きた。昼食にありつくために、河野は馴染みの定食屋を選んだ。そこは食券制で、先に食券を購入し、窓口に渡してから席で待つ、というシステムのものである。最近は近くで大規模な工事をしているせいか、随分な盛況ぶりを見せていて、事実この日も、工事現場の作業員らしき人々が席の大半を占めていた。
騒がしい店内を一瞥したのち、大倉が先に食券を買った。しかし大倉は券売機から出てきたアジフライ定食の食券をチラリと見ると、恐ろしいことに突然その場で膝から崩れ落ち、号泣しはじめた。思いもよらぬ展開を受け、河野は店内の客の視線に恥ずかしさのようなものを覚えながら、何とか大倉を起こし、店を出ると出口のすぐ近くあったベンチに座らせた。大倉は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を何回か横に振ると、自身のハンカチで顔を拭く。
「どうした。何があったんだ。さっきの言葉で傷ついたなら、謝るよ」
「違うんです、違うんです……」
大倉は食券をまだ手に持っていた。泣き喚いている間に手で思い切り握ったためか、随分皺が寄ったそれに書かれた整理番号は「四二七番」であった。
四二七番。四二七。死にな……
その食券の意味を理解した瞬間、河野は大倉に対し、背筋が凍るような、後味の悪い寒気を覚えた。たかだか縁起の悪い数字が一日数回に渡り偶然並んだ。ただのそれだけで、何をそんなに怖がっているのか……まだ嗚咽が鳴りやまない大倉に問いかけたかったが、どうにも勇気がわかず、結果そのまま昼食もとらずに帰社をした。
「君は随分参っているようだ。今日は早退してゆっくり休みなさい。なんだったら明日、休みを取って医者に診てもらってもいいだろう。その時は私から営業部長に言っておくから……」
帰社してすぐ、河野は大倉にそう伝えた。何かひどい精神病にでも罹っているのだろう。そう確信してしまうほど、この日の大倉の言動は河野の目には異常に映った。
大倉は河野の提案を受け、申し訳なさそうに「では、そうさせて頂きます。今日はお見苦しいところ多々お見せしてしまい、申し訳ございませんでした」と丁寧に、しかしやはりどこか暗澹たるオーラを放ちながら礼を述べると、タイムカードを切り、そのまま帰宅の途につく。
しかし、帰社する際にふと大倉の横顔をチラリと見てみると、その表情は達観したような、なにか壮大な目標を諦めきったような淡白な表情をしており、その様子が河野は気になって仕方なかった。
ふと気になって、大倉のタイムカードの打刻時刻を確認してみると、驚いたこと一時四十四分であった。しかし、つい先ほど定食屋であったような号泣をすることも無く、淡々と帰って行った件の様子を見ると、もしや仮病の類ではないかと訝ってまうのであった。
翌日、大倉が死んだという一報が会社に届き、河野は脳天に雷が落ちたような衝撃に包まれた。同居している母親が早朝、自宅のトイレの中でこと切れている大倉を発見したのだという。死因は急性くも膜下出血だった。その表情は苦痛というより、何かを恨めしく睨みつけるような、まさに鬼の形相だったという。また、おおよその死亡推定時刻が午前四時頃だった。
河野はその話を聴いた瞬間、どうにも例の数字にまつわる大倉の振る舞いが、逃れられぬ死の運命に必死に抗っていたような気がしてならなかった。あの早退時の諦めきったような顔は、そんな死の運命をもはや受け入れたとでもいうのだろうか。
河野はふとそんなことを考えてみたものの、自分も大概、考えすぎだろうと思った。言ってしまえば仕事のストレスか、もしくは長距離通勤によって生活が不規則になったことが原因の突然死に過ぎない。大倉の死は、現代の若者において時たまあるひとつの不幸な死だ。そこに例の数字など何の意味も持たない。すべては偶然なのだ。河野は自分に言い聞かせるかのごとく、そう結論付けた。
大倉の葬儀の朝、河野は自室で支度をしていた。喪服に着がえながら、ふと時間を確認しようとそばにあるデジタルの目覚まし時計を見る。時計が表示しいた時間は七時四十二分だった。この時河野は、思わず吐き気を覚え、少しばかりえずいてしまった。考えすぎだ。そう心に言い聞かせ、逃げるように部屋を出ていく。
葬儀中、河野はつとめて何も考えないようにしていたが、ふとした拍子に、何故か時計を確認したくなる衝動にかられた。朝の事象もあり、ふっと時計を見て、ごく普通の、縁起の悪い数字を連想させない数字が並んでいることに安心感を感じたいという気持ちが強かった。しかし河野のそうした気持ちとは裏腹に、何気なく腕時計を確認すると八時四十二分であったり九時四十四分であったり、十時四分であったり、時計の秒針が四十秒台を指していたり……なにかと「四」が、薄気味悪く河野のそばから離れないのだ。
出棺の時間、霊柩車を見送りに外に出る河野の足取りは非常に重かった。体調もすぐれず、椅子があればすぐにでも腰を下ろしたい気持ちだった。
霊柩車を霞む目で見ると、嫌が応にも車–ナンバープレートに目が行った。そこには「〇二‐五九」という数字が並んでいた。
(四が無い!)
思わず河野がぐっと握りこぶしで小さくガッツポーズをした。が、ふとその数字に妙な違和感を感じた。そして「それ」に気づいた時、河野は隣にいた同僚の肩にもたれかかるように、よろけてしまっていた。
「おい、どうした。顔色が悪いぞ」
「いや何でもない。大丈夫……」
冷や汗が出て、体が震える。
「〇二‐五九」。二五九。地獄……
この時河野は、抗えない死への運命の歯車のようなものに組みこまれたような気持ちになった。不吉な数字達が、次はお前の番だと言わんばかりに警鐘を鳴らしている。やはり大倉は、この呪いめいた運命に必死に逆らい続けていたのではないか。
霊柩車が遠ざかり、「〇二‐五九」ナンバーも視界から消えようとしている。しかし河野はいつまでもその場から立ち去れず、茫然と立ちつくすしかなかった。その瞬間、彼の腕時計時計は十一時四十四分四十二秒を指していた。