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依頼人に会いに訪れた市場は、まるで巨大な生き物であった。
まばらに立った街頭や、店先につるされたランプの明かりに照らされ、商品やその売人、客たちの影が踊る。左の屋台から流れてくる揚げたての芋とアルコールの匂い。奥の路地からかおる、血の匂い。それらが音も無くうごめいて、まるで命を持った塊のように映った。
すれ違う人々の顔は、一様に暗い。妖しい薄ら笑いを浮かべているもの、病的に眼窩をくぼませているもの、眉間に皺をよせながら自分の腕をがりがりとかきむしっているもの。景気のよさそうな顔をしている人間は、視界の内にはいない。
無意識のうちに、ポケットの中に突っ込んだ拳を握っていた。その拳は、握った紙片を湿気らせるほどに、汗ばんでいた。
俺は拳の中でしわくちゃになったメモを、取り出して、開く。
クラネ・トランの音屋 ―― 「夜の市場」、三番地区、奥の方、灯りは着いてなくても営業している
細切れの情報が、雑に殴り書きされている。数日前、俺の事務所へ届いたメールから書き写したメモだ。
俺は改めて、じっくりとメモを眺め、わざと時間をかけてたたんだ。それをポケットに丁寧にしまった。わざと大きく深呼吸をする。市場の深部から漂う、濃厚な生と死の匂いで肺を一杯にして、一拍置いてから、音を立てて息を吐ききる。酸欠で脳みその判断力が鈍ったのを見計らって、夜の市場深部へと、一歩を踏み出す。
それは元々、小規模な闇市であったそうだ。
現在では、社会の/人間の負の部分を集めて煮詰めた、昼でも薄暗い常夜の市場。非合法のモノ、どころか法で定義できないモノまでを扱う、混沌の坩堝――通称「夜の市場」
俺に探偵技術を教えてくれた先輩は良く言っていた。「あそこで手に入らないモノは、基本的には、ねえ。もしかしたら、俺たちが喉から手が出るほど欲しい情報だって、売っているかもしれねぇ。だが、あそこの通貨は、カネじゃねえ。命が惜しければ『夜の市場』に近づくな――これが探偵の心得だ」。
所詮、年寄りたちの戯言だろう。十数分前までは、そう思っていた。
(小銭に目がくらんで、依頼なんて受けなければ良かった)
猫一匹、探し出したら100万円。
まるで安っぽいバラエティ番組のような謳い文句は、万年困窮貧乏探偵の射幸心を煽るのに充分だった。
夜の市場は深部に向かうにつれ、その闇をより一層濃くしている。
店先に並ぶのは、瓶詰の得体のしれない生き物、耳かきひと匙分を最小単位で販売している得体のしれない粉、得体のしれない得体のしれないモノ。眼球ばかりを取りそろえる屋台もあれば、目の錯覚か宙を泳ぐ魚が檻に入れられている店もあった。白熱球の街頭や、ドギツイネオンの明かりや、柔らかな月の光や、様々に照らされて、異界を作り上げていた。
見ないように、目を合わせないように――ただそれだけを考えながらひたすら進んだ奥に、ひとつだけ、闇で切り取られたように真っ暗な店があった。両側の屋台からこぼれる光でかろうじて看板が読める。『クラネ・トランの音屋』。
(「おとや」、そう読むのだろうか)
名前の割には、静けさに満ちた、真っ暗な店舗だった。奥に、背中を丸めて椅子に腰かけている様な、小さな人影が見える。
俺の気配に気付いたのか、人影が頭を上げた。
鼻から上が、無かった。
正確に言えば、鼻から上は薄汚れた包帯でぐるぐる巻きにされていた。隙間から数束髪の毛がはみ出ているだけで、それ以外はまるでのっぺらぼうだ。
「おや。こんなところに、カタギの人間が来るなんて、珍しいね」
甘く、しわがれた声だった。男なのか女なのか、年老いているのか幼いのか、それすらも分からない中性的な声。
「……アンタか、俺に依頼のメールを出したのは?」
「依頼……もしかして、『猫柳探偵社』の方かい? わざわざ、すまないねこんなところまで来てもらって。さあ、薄暗いところで悪いけど、中に入ってくれ。依頼の話をしよう」
俺が最初に感じていた不気味さとは裏腹に、その包帯の人物はフランクな口調だった。
緩慢な動作で店の奥から椅子を引っ張り出しているその体躯は、それほど大きくない。丈の長いローブに隠されているので、正確には分からないが、華奢な身体つきだ。身長は恐らく165センチ前後、男性にしてはやや小さめ、女性にしてはやや大きめ、と言ったところだろうか。
「……なあ探偵くん、わたしがそんなに珍しいかね。初対面の女性の身体をそうじろじろ見るものじゃないよ」
「すまない、職業病みたいなものだ。外見と声からでは女性か男性か判断できなかったんでな、得体のしれない人物はつい観察してしまうんだ」
「……君は、友人に『一言多い』とか『口は災いのもと』と忠告されたことはないかね」
「良く分かったな。『音屋』と名前が付いているが、この店は占いやか? ずいぶん沢山水晶玉を使うんだな」
店内は、棚のなかにずらりと握りこぶし程の大きさの水晶玉が並べられていた。ぱっと見ただけでも100や200は下らないだろう。
「いや、その名の通り『音屋』さ。産声から断末魔まで、ウチでそろわない『音』は無いよ。試しにひとつ聴いてみるかい? これなんか比較的ビギナーにも楽しめる『音』が入っていると思うよ。安くしておくからさ」
包帯の女は手近にあった水晶玉をつまむとこちらに差し出してくる。水晶玉は、女の手の上に載せられた途端、薄紅色の光を放ち始めた。
「……遠慮しておこう、俺はこんなところで命を失いたくないんでね」
「なんだい、探偵くん。『夜の市場は魂でしか支払いができない』なんていう与太話を信じているクチかい? 今時そんな店、ごく一部だよ」
じゃあ、なんで支払うんだ。俺の無言の問いかけを察したのか、
「『音』の対価は『音』と相場が決まっているのさ。君の記憶にある音を、少しだけコピーさせてくれ。それだけでいいよ」
そう言って包帯の女は、少女のようにくふふと笑った。