楽園の『良い子』
そして、一瞬で眼が覚める。
木の板に横たわっていうる感覚。見慣れない天井は真っ暗。手も足もある。ポケットには携帯もある。取り出して時間を見ると、真夜中の二時だった。
記憶が蘇り、無事だったと安堵するより、まだあの恐怖が続くのだという絶望が胸を襲った。
しかし、まだ、生きている。それだけが希望だった。人間というのは生きている限り希望を持てる稀有な種族かもしれない。例え。先に続く道が真っ暗でも。
とにかく、周囲を見渡す。そこにはあの白い靄も何も無い。ただ、広い空間が続いている。
闇に眼はとっくに慣れていて、大きな物体は視認することができた。
愛咲がいる。俊明も、梶田くんも、佐々木君も、紗子も。
皆、この同じ空間に寝かされている。ガラスの外に移る景色から、ここはあの体育館だ。
サンダルは履いたままだった。綺麗な浴衣が、暗闇で滑稽に映るような気がした。
立とう、と思ったとき、私たち以外にも、何か小さなものが沢山、床に転がっているのに気がつく。
なんだろう、と思って目を凝らすと、それは手のひらサイズの人形だった。
私は息を飲んだ。
別に恐ろしい人形ではなかった。裁縫をする人間なら手軽に作れてしまうような、簡易的な人形。
しかし、その人形の瞳があの靄の瞳とどうしようもなく被る。丸い、穴の開いたような瞳。
これだ。これなのだ。私はどうしようもなく確信を持った。
そして、これが無数に散らばる体育館で、私たちは何をさせられていたのか。なぜ、此処に移動させられたのか。
「……お昼寝」
寝ているのだ。彼らは。というより、子どもの生活リズムで言えば睡眠時間のほうが長いのかもしれない。
ならば、今なら出れる。
私は人生で二度とないほどの緊張感を持って、愛咲に接した。
揺り起こす。声は極力出したくない。
「――っ!?」
私と同じ反応で起き上がる愛咲の口を手で塞ぐ。
人差し指で沈黙を合図した後、その手を離し、耳元で状況を伝えた。
「わかった。私はこっちから皆を起こす」
そうして、俊明、佐々木君、梶田くんを起こすことに成功した。
紗子は運が悪いのか良いのか、まだ気絶したままだった。また佐々木君に背負ってもらう。この作業は慎重を要したが、些細な音では彼らは起きる気配が無かった。
「遊び疲れたんだろ。何したのか知らないけどな」
梶田くんは疲れた声で言った。
私の身体にも、皆の身体にも、相当の負担がかかっていて、疲弊しているという様子を隠しきれない。
「正面は南京錠だったはずだし、あの部屋まで戻るしかないね」
私の言葉に、皆頷く。
人形を踏まないよう、細心の注意をして歩く。体育館にはボールも転がっていて、月明かりも届かず暗く。そして紗子を背負う佐々木君は床が良く見えない。
そして、二人分の重さで木製の床を踏みしめたとき、全く音が鳴らないという奇跡は生まれず。
――ギギッ。
鳴ってしまう。皆、佐々木君を責める視線より早く、後ろを振り返っていた。
見ている。
無数の人形が、私たちを。黒い、瞳で。
背筋が泡立つ。
「走れ!」
私たちは走った。
突き当たりを左に折れ、職員室の前を通過。水が怒号のように渦巻く音がトイレから聞こえた。
笑い声のような、怨嗟の声のような音が、後ろから迫るのが聞こえる。形の無い何かが迫る。
さらに右に曲がり、その先にある階段を飛び降りる。
浴衣が邪魔をするが、構っていられない。
「ッ!」
「愛咲!」
無理に飛んだ彼女は、着地の際に体制を崩した。それを手で起こし上げる。
佐々木くんに紗子を任せたのは正解だった。彼は人を背負うことに慣れていて、浴衣でサンダルの私たちよりよっぽど早い。
「ありがと」
「早く!」
その先の三つの扉。
最短は真ん中である。ドアも開いていた。そこに入ろうとする皆を、咄嗟に止める。
「ダメ!皆、こっち!」
時間が無い。根拠も無いが、私は右の部屋を指差す。
「何で!?」
「いいから!」
迫るアレを見て、左の部屋の閉まっている扉を俊明が蹴り開ける。私が念のため閉める。直ぐそこにいる何かを、ドア越しに感じて、飛びのく。
「雨深!早く!」
「よし、開いたぞ!」
その言葉に、皆の意識が集中する。
外は真っ暗闇であったが、希望と自由に満ち溢れていた。
「早く出ろ!」
私が閉じた扉が、音を立てて開く。そこには形容しがたい何か、無数の意識の集合体のようなものが迫ってきていた。
私が外に出た直後、最後の扉は閉じられる。
「ひっ!」
俊明と梶田くんが、扉を押さえながら悲鳴を上げた。
ガラス越しに無数の手がこちら側を求めるように蠢き、歪んだ顔がこちらを見ていた。
が、扉を破ってくることは無く。
「逃げるぞ!」
私たちは一目散にそこから逃げ出した。
グラウンドを突っ切り、柵を乗り越え、車道にでる。
祭りはもうとっくに終わっていて、人気の無さで不安を拭えない。振り返ればまだ白い何かが蠢いているのが見えて、そのまま国道方面に走った。
結局、私たちが落ち着いたのは、二十四時間営業のコンビニエンスストアまでの道のりを走りきったときだった。
店員は気のない挨拶とともに、私たちを迎えた。人の言葉には、どれだけ素っ気無くても温もりがあるのだと知った。
皆の携帯には、今になってこぞってメールや着信履歴などが届いた。
両親に全ての説明を終え、私たちはようやく一息つくことが出来たのだ。
「あー。まじ最悪な祭りだった」
「笑い事じゃないでしょ」
俊明の悪ふざけを、今になってようやく諌める。
「ホントごめん。でも、折角女子と遊ぶんだしさ。愛咲ちゃんも来てくれるっていうし」
「私はそういうとこ、本当にもう、金輪際行かない」
愛咲の男子に対しての態度は頑なだった。
「で、紗子の両親は?」
紗子はコンビニに寝かせてもらっている。非常事態だ。店員も許可してくれた。
私たちはコンビニの外の縁石に腰掛け、今ここにいることを感じていた。生きている、ということを。
「来るって。とりあえずそのまま病院に行くってさ」
佐々木君が汗を流しながら答える。
「佐々木もお疲れ」
「おー、マジ生きるって実感してる」
私が声をかけると、買ったスポーツドリンクを一気飲みする。女一人を背負って、かなりの距離を走ったはずだ。日頃の鍛錬の賜物か、それとも火事場の馬鹿力か。
誰ひとり、あそこに行く前に気を引きたかった愛咲に嘘を言わない。愛咲に嫌われても仕方ないだろうという空気は、生きていて良かった、という気持ちの表れでもある。
死ぬか一人の女子に嫌われるか選べて言われたのなら、この三人は後者を選ぶということだ。
命を賭ける事のできる恋など、そうそうあるものではない。
夢を見る乙女ではないが、そんな現実的なことを、当たり前のように考えている私がいた。
「ところで、雨深の家ってここから近い?」
「まあ、それなりに」
この町は狭い。歩いても端から端まで一時間というところ。
「じゃあ、今日泊めてよ。あんなことがあって、一人で寝られないし、お風呂にも入れない」
その言葉に、男子陣がことらを向く。
やましい視線は、全くない。むしろ、愛咲の意見に同意しているような素振り。
「どうする?俺も一人で寝れねーかも」
「風呂とか入れたもんじゃねぇだろ。水場って、霊を呼ぶんだよな?」
「じゃあ、街の健康ランド行くか。あそこなら、おっさんとかと雑魚寝だし。風呂も広い」
どうやら、男子は皆で泊まりになるようだ。
「ホント、とんでもない一日だったわ……」
愛咲が疲れたように笑った。そうして、私たちの一日がようやく終わる。